第31話 虚無⑤

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「うぅ」


 微かな呻きとともに瞼を持ち上げた壮年の男は……背を向けて座す金髪の青年をぼんやりと眺めた。


 地平線の先に沈み行く太陽が金髪の青年の長い影を描き出している。


 青年の向こうにもうひとりいるようだが、フードを被っており壮年の男からはよく見えない。


 男はゆるりと瞼を瞬くと――なにがあったかを思い出して身動いだ。


「そうだ……虚無ヴァニタス……虚無ヴァニタスの群れは⁉」


「――お目覚めか?」


 金髪の青年は振り返るとにやりと口角を吊り上げて笑い、転がったままの男を引き起こす。


「うっ……」


 縛られている――と。


 壮年の男が縄が食い込む痛みに気付いたとき、その鼻先に指を突き付けた金髪の青年――ニーアスはさらりと続けた。


「虚無はなんとかしてやったぜ? そんなことより、あんたの乗っていた馬、俺の馬なんだけど? 繭狩りだろうと盗みはよくないぜ? 悪いが逃げられないよう縛らせてもらった。王都の騎士団に突き出してやる」


「なんとかした……だと? 確かに……いないようだが。……それにあれがお前の馬だとなぜ言い切れる? 繭狩りに手を出せばどうなるかわかるだろう? この縄を解け」


 ニーアスはそれを聞くと、ふふん、と不敵な笑みを浮かべ、右手の親指と人さし指を輪にしてぱくりと咥えた。


 ピイィ――!


 吹き鳴らされた鋭い音色に壮年の男が目を瞠る。


 遠くから白い馬が駆けてくるのが見えたからだ。


「俺が呼べば戻る従順な奴なんだよ。これが証拠だ」


「……ち。ある村を粛清した帰りに捕まえたんだ。大事ならそばに置いておけ」


 フードを被って座し……俯いていたロルカがぴくりと肩を跳ねさせるが、ニーアスはちらりとも目線を向けずに腕を組むと壮年の男に問い掛けた。


「村って……ここから北のほうにある森の村か?」


「そうだ」


「――粛清とは物騒だな。馬はその村に預けていたんだ……あんたが盗んだ可能性も――ってのはもういいや。繭狩りに睨まれたくねぇし誤解ってことで手打ちにしてくれないか? それで縄を解く」


「ふん。いいだろう。ありがたく思え、放っておいたらその馬は虚無に喰われていたかもしれんぞ」


「そうだな、あれだけの虚無に追われていたわけだし? あんたも喰われなくてよかったな!」


 ニーアスは飄々と言ってのけると、彼の傍らまでやってきて鼻息荒く土を掻く白馬の首筋をぽんと撫でる。


 壮年の男はニーアスの嫌味に渋い顔をしたあとで言った。


「……なら礼代わりにいいことを教えてやる。王都に向かうつもりならやめておくんだな。ものすごい数の虚無が王都に向かっているぞ……そら、さっさと縄を解け」


「ものすごい数の虚無……? どういうことだ?」


 ニーアスは眉をひそめると男を縛った縄に手を伸ばす。


「そのままさ。見たこともない数の群れが王都方面に向かっている――俺は隣町に救援要請を出すために走らされた伝令だ」


「伝令――? 隣町に繭狩りの部隊でもいるのか?」


「繭狩りじゃない、自警団にだよ。いま王都にいる繭狩りは第一から第三部隊しかいないんだ。第一部隊は怪我人も多い状態でな。戦力が足りん。……それだけ王都はやばいってことさ」


「なんだって……? あぁ、いや……確かに虚無が活発化しているって話は聞いたが……それで討伐に出てるのか……?」


 ニーアスは予想外の状況に眉を寄せ、呻くようにして呟くと繭狩りの縄を解いた。


 そこで壮年の男は縛られていた手首を擦りながらため息をこぼす。


「……俺は死にたくない。正直いまの長とは考えが合わん。あいつには誇りの欠片も――と、これはどうでもいい話だな、忘れてくれ。……とにかく伝令の役目が終わったらそのまま逃げるつもりだ。……ところでその馬を譲る気はないか?」


「馬を? ……さすがにタダってわけにはいかないぜ」


「ならこいつでどうだ? 売ればそこそこいい値段になるだろう」


 壮年の男は腰のポーチから革袋を取り出した。


 ニーアスはジャラリと音がするその袋を受け取ると中を覗き込む。


「へぇ――装飾品か……。よし、いいぜ。馬は連れていけ」


「取引完了だ。じゃあな、お前らもさっさと逃げておけよ」


 壮年の男は馬の首をぽんと撫でると鐙に足をかけてひらりと跨がった。


 街道を走り去るその背を黙って見送ったニーアスが振り返ると、蹲っていたロルカが強く己を掻き抱いている。


「……ロルカ」


「大丈夫。……ニーアス、王都に虚無の群れって……本当かな」


「あぁ、間違いないだろうな。繭狩りは神繭カムンマユラだけじゃなく虚無ヴァニタスとも戦う。騎士団や自警団と違うのは基本的に町の外を管轄下にしているってところか。あの男が嘘をつく理由もない」


「そう……」


 ロルカは立ち上がって土を払うとフードを脱ぎ、夕日がすっかり沈んで星の瞬き始めた空を見る。


 力強く光る翠色の大きな瞳はどこか遠くを見ていた。


「――間に合うかな」


「ったく。言うと思ったぜ。急げば三日……虚無の群れってのがどこにいるかだな。繭狩りも戦うつもりみたいだし最悪は三つ巴になる。覚悟決めておけよ? ……そら」


 ニーアスは呆れたように言ってロルカに革袋を差し出した。


「……?」


「……たぶんお前の村から盗ってきた装飾品だ。返す」


「え? でもこれ……君の馬を……」


「いいんだよ。馬だって王都に向かう俺たちといるよりは安全だろうし? そもそもお前の村から盗んだもんで懐が潤っても嬉しくねぇし」


「…………、うん、ありがとうニーアス」


 ロルカは中身を確認し……そのひとつを取り出してゆっくりと頷く。


 革紐に括られているのは彼の瞳に似た美しい翠色の石――姉のような存在であるアルミラがロルカの母へと贈ったペンダントだった。


 繭狩りにとってどれほどの価値かはわからないが、ロルカにとってはこの上なく価値がある物――値段なんてつけられるはずもないほどに。


 ロルカは黒髪を揺らして顔を上げると、己の荷物を背負い直したニーアスに声を掛けた。


「……ニーアス、虚無のところに繭狩りの長がいるとして。いま俺にできる準備はあるかな」


「そうだな……付け焼き刃だが剣を振るうこと……それといくつか道具を渡してやる。おっと後払いだからな? ――あとは虚無がもう繭狩りを蹴散らしたあとってこともある。そのときの気持ちの落としどころでも考えておけ。……なぁロルカ。絶対に堕ちるな、お前を斬るなんて御免だぜ?」


 彼はいつものように飄々と言ってのけると「行くぞ」と続けた。


 ロルカは少し考えたあとでペンダントを己の首に提げ、ニーアスを追って歩き出す。


 王都がどうなっているのかはわからない。


 繭狩りも戦っているのだとしたら虚無と繭狩りを同時に相手にすることも考えなければならないだろう。


 ――そのときは迷っていられない。俺は……戦う。皆のために。でも――堕ちるわけにはいかない。そういうことなんだ……。


 決意を秘めた静かな瞳は、遠く、王都を見据えていた。

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