第30話 虚無④

「⁉」


 足を止めて振り返ったロルカの表情が凍り付く。


 ニーアスは大股でスタスタと歩み寄ると、深緑色のローブを掴んでロルカに見えるように広げた。


 そこに黒糸で描かれているのは丸を左下から右上へと貫く三つ叉の槍だ。


「覚えておけ、これが繭狩りの紋章だ。黒糸だから中堅だな。おさは金糸になる」


 ロルカは頷いて……おそるおそる口にした。


「……俺の村を襲った繭狩り……なのか?」


「そのひとり……って可能性は時間的には有り得るかもな。お前の村から王都までは真っ直ぐいけば十日前後だ」


「俺の村を出てから二十日だから……そっか、ここまで来られる可能性は十分あるってことなんだな? じゃあこの人が、もしかしたら……皆を」


 壮年の男だった。


 皺の刻まれた日に焼けた顔には白髪混じりの無精髭。短く刈られた髪にも白髪が混ざっている。


 虚無ヴァニタスに追い立てられて逃げてきたのであろうことは明白だが、まさか神繭カムンマユラの近くで意識を手放すことになろうとは思わなかっただろう。


 唇を噛んで無防備に晒されたその体を見下ろすロルカに、ニーアスは短く息を吐き出して言った。


「――ちょうどいい。なあロルカ、聞きたいことがある。繭狩りを糾弾するってのは具体的にどうやってだ? いまこの瞬間ならお前は憎い繭狩りをほふることができるぜ? そうしないのか?」


「…………それ、は……」


 唐突な問いにロルカは押し黙る。


 ロルカは繭狩りに真っ正面から噛み付き「お前たちは間違っている」と言ってやるつもりだった。


 けれど……そのあとは? 食い千切ってやると言ったものの、繭狩りの規模さえわからない。


ただ捕まって命を狩られるのか、はたまた剣を抜いて戦い――散るのか。


 どちらにしても命はないとだけ考えていたロルカはニーアスへの答えを持っていなかった。


 さらにニーアスは目の前で意識を失っている繭狩りをどうしたいのか――それを問うているのだ。


 ロルカは無意識に剣の柄を指先でなぞり……静かに息を吸って……きつく瞼を閉じた。


 いまだって村の惨状を思い返せば胸が締め付けられて苦しい。


 ふつふつと煮えたぎる黒い嫌悪感はたしかにロルカのなかに満ちている。


 村の人々を思えば眼の奥が熱くなって、喪失感は増すばかりだ。



 ――繭狩りは村の皆を苦しめた。理不尽で……非道な行いをしたんだ。



 ロルカは瞼を持ち上げるとゆっくりと剣を抜き放ち、切っ先を下に向けて両手で掲げ持つ。



 ――だから、狩られたとしても自業自得……そうだよな?



 剣を突き立てればいい。ただそれだけなのだ。


 そう思うロルカはしかし、カタカタと腕を震わせる自分に衝撃を受けた。


 切っ先は繭狩りの喉元に向けているのに……定まる気配がない。


 それどころか震える腕を自らの意志で動かすことができなくなり、呼吸が浅くなる。



 ――わからない……糾弾するって……どうしたら?



 そう思った瞬間、ニーアスの手がロルカの手を押し戻した。


「そんなことだろうと思った。……いいんじゃねぇの、それがお前が『堕ちない』理由なのかもしれねぇし。……こいつは指示に従うだけ。俺ならおさを狙うぜ。糾弾したところでどうせ繭狩りは聞かないだろうし、黙らせるには殴ってやらねぇと……いや、殴る程度じゃ足りないだろうな。――これは助言だロルカ。お前が命を捨ててやろうとしていることは剣を取って戦うってことだ。結果として堕ちるかもしれないってことだ。覚悟しておけ。勝たなきゃ意味がない。堕ちても『神繭カムンマユラを狩る理由』を提示してやるだけ――つまりお前の負けだ」


 言われた瞬間、ロルカの肌は戦慄で粟立った。


 自分が堕ちること――それが繭狩りの――粛清の理由になるのだとはっきり理解したからだ。


「……俺……『間違っている』って伝えてやろうと思っていただけだった。先のこと……ちゃんと考えていなかったんだな」


「だから言ったんだ、そんな簡単な話じゃねぇってさ」


「……うん」


「おい、そんなしみったれた顔すんじゃねぇよ。やるなら最善を尽くせって話だ。最大の効果を生み出す戦法を取れ。入念な準備があってこそだぜ?」


「わかった。考える……」


 ロルカは難しい顔で頷きながら、戦神は戦うだけじゃないのだとしみじみ思う。


 ニーアスだから――なのかもしれないが、彼の言うとおり『最大の効果を生み出す戦法』は考えるべきだろう。


 ――なんとなく前が見えた……。俺、もっとしっかりしないと村の皆に顔向けできないな。皆だって俺が堕神おちがみになったら喜ばないはずだから……。


 そう思ってロルカが少しだけニーアスに感謝したとき、当のニーアスが飄々と笑った。


「よし。んじゃあここで取引といこう。こいつの処遇を俺に任せないか? 勿論、後払いは追加だけどな」


 ロルカは難しい顔から一転して呆れた顔をすると渋々頷く。


「……お願いするよニーアス。俺、どうしていいか……わからないから」

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