第29話 虚無③


 ……しばらく歩いたところでロルカはぴたりと足を止めた。


 奇妙な揺らぎを感じたからだ。


「……ニーアス」


「お得意の『野生の勘』か?」


「うん。ただ……いつもと違う。まだ少し遠いのかな……そんなに強くは感じなくて」


 彼がそう言ったとき――少し山なりになった街道の向こう側から小さな白い影が姿を現した。


「馬か? ――ん、あれは……」


 いち早く気付いたニーアスが右手で庇を作り双眸を眇める。


 しかしその顔がみるみる歪んだ。


「おいおい…………」


 馬と思われる影には人が乗っているようだが――その後ろ。小振りの黒い影がいくつもいくつも現れたのだ。


虚無ヴァニタス⁉ ……すごい数だ……!」


 ロルカは言いながら荷物を置いて剣を抜き、ニーアスを見る。


「さすがに無視できねぇな。やるぞ」


 ニーアスも大袋をポイと放って頷くと背中の両手剣の柄を握った。


「――ロルカ。極力羽化はしないからな。踏ん張れ」


「うん――あの馬に乗った人がどんな人かもわからないから……だな」


「ああ。多少の怪我なんざ俺たちにとってはなんでもない。無理は利くってことだぜ」


 言いながらニーアスは鈍色に光る大きな両手剣を肩のあたりで構え、ふーっと息を吐いた。


 紅色の瞳はぎらりとした獣のような光を宿し、ロルカも負けじと大きな翠色の瞳で虚無を睨む。


 その頃には馬が馬だとわかるまでに近付いていて、その背に跨がる人影がぴったりと馬に張り付いているのも確認できた。


 ロルカの『野生の勘』もいまやはっきりと奇妙な揺らぎを訴え、自分と世界の境界が曖昧になっていく心許なさが胸を締め付ける。


 泡を吹き散らして眼を剥き、必死の形相で駆ける馬が痛々しい。


 それを追う虚無は二足歩行の蜥蜴トカゲのような形だ。


 数は……少なくとも二十体はいるだろう。


「行くぞロルカッ!」


 最初に飛び出したのはニーアスだった。


 馬と擦れ違うようにして振り抜かれた剣に一体が沈む。


 虚無の大きさはロルカの胸程度、鋭い牙はあれどつるりとした頭部に角はなく、ほかに脅威となりえるのは爪だろう。


「はあぁっ!」


 ロルカはニーアスを真似て剣を右から左へと振り抜く。


 彼の一撃は虚無の喉元を捉え、駆ける勢いそのままに地面を転がった虚無はびくりと四肢を跳ねさせたあとで沈黙。


 長い尾の先から溶けていく。


 すると蜥蜴形の虚無たちは彼らを獲物と見なし、次々に突っ込んできた。


「馬鹿で……助かるぜ! 順番にッ、斬れッ!」


 言葉の端々で虚無を屠りながら吼えるニーアスに「わかった!」と返事をしてロルカは左足を大きく踏み込んだ。


 左下へと振り抜いていた刃を流れるように肩まで持ち上げた突き。


 ロルカは手応えを感じて右足と一緒に剣を体に引き寄せ自身の右側から襲い来る次の一体へと振り下ろす。


 ニーアスの特訓の賜物か、その動きは見違えるほどに滑らかだった。


「いいぞロルカ! 大振りは控えろよ、数の暴力ってのが一番厄介なんだ……つってもこの程度なら楽勝だけど――なッ!」


 戦いながらロルカの様子を見るなどという芸当を軽々やってのけるニーアス。


 それも彼が戦神せんしんだからか――はたまた、そもそもの才能か。


 しかし言葉をかけられたロルカに応える余裕はなく、立て続けに七体を倒したところで二体の虚無ヴァニタスと睨み合う状態となった。


 ――さすがに、息が、上がるな……。


 はあ、はあ、と肩を上下させるロルカは滲む汗を拭うこともできず、虚無との距離をはかる。


 ニーアスは己の周りの虚無をすべて片付けると、なにを思ったか見守る体勢を取った。


 そこで二体の虚無が示し合わせたかのようにロルカへと飛び掛かり、ロルカは大きく一歩下がって身を躱すと渾身の力で右から左へと剣を振り抜く。


 ……しかし。


 大振りな一撃は一体を捉えたものの、もう一体を仕留めるほどの勢いは消えてしまっていた。


 目を見開くロルカの前で、二体目の虚無が牙を剥く。


「……こ、のぉッ!」


 ロルカは咄嗟に剣の柄を前に押し出すようにして虚無の接近を阻止。


 牙は免れたが、振り上げられた虚無の右前脚の先で黒い爪が光る。



 ――やられるッ!



 左側から迫りくる攻撃にロルカが息を呑んだ――瞬間。


「ばぁか。言ったろ? それが大振りの弱点だ」


 ふわりとした柔らかな足取りで踏み込んできたニーアスが易々と虚無を斬り伏せ……ロルカは噴き出す冷や汗と跳ね回る心臓に詰めていた息をはーっと吐き出した。


 ……奇妙な揺らぎが薄れ、はっきりと己の輪郭が縁取られていく。


「ごめん……」


「殊勝なこった。いまのでわかったろ? 数に注意しろ。大振りは控えるんだな」


「うん――」


 額の汗を腕で拭って頷くロルカに、ニーアスはにやりと笑ってから剣を収めた。


「いい特訓になったな。……で、逃げていた奴はどこだ? 俺たちを無視して逃げちまったか?」


「……そういえば確認する余裕はなかったけど……え⁉」


 ロルカはぐるりと見回し、ぎょっとして息を呑む。 


 落馬したらしい深緑色のローブ姿をした人がロルカたちの後方――街道にうつ伏せで倒れていたからだ。


「大丈夫ですか⁉」


 慌てて踏み出したロルカの言葉に返事はない。


 どうやら意識を失っているらしい。


 しかし、そのローブが風にはためくのを見たニーアスは紅色の双眸を瞠った。


「……ロルカ、待て」


「え?」


「そいつ――繭狩りだ」

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