第3話 粛清②

 ロルカは翠色の双眸を見開いたまま唇を震わせ、慎重に右足を踏み出して扉に近付く。


 どくん、と心臓が跳ね……喉を真綿で柔らかく締め付けられたような息苦しさが込み上げた。


「まさか神繭カムンマユラが人間に混ざって暮らしていたとは。しかも、この儂にあとを託してくれるなんて……ふくく……なんという天啓」


 村長むらおさの声は低く濁っていて――耳障りだった。


「明日の昼過ぎには繭狩りたちが到着するでしょう。引き渡しはそのときに。それまでは……村長むらおさ


「ああ。くれぐれもロルカに気取られてはならん。なんの神かわからない以上、下手に手を出しては危険だからの――」


 ひゅ……と喉が鳴り、息苦しさが加速する。早鐘のように響く鼓動は煩くて、聞こえる音を掻き消そうと激しさを増す。


 けれど次の瞬間、村長むらおさは慈悲の欠片もない言葉を放った。


「誰ひとり生き残っていないのは好都合よ、ふくく……」


 戦慄が駆け抜け――ロルカは思わず取っ手を掴む。


 ロルカにとって決していい状況ではないことは明白だったが、信じられなかったのだ。


村長むらおさ……どういうことですか……。俺の村、どうなったんですッ⁉」


「ろ、ロルカ君……⁉ き、聞いていたのかね? いや、落ち着いて。……話をしよう、き、君に害をなすつもりはないのだ。さあまずは座って……」


 ロルカが開け放った扉の向こう。奥のソファに体を深々と沈めていた村長むらおさが跳ねるように姿勢を正す。


 額に噴き出した汗を手元の布で拭う彼の表情は、まるで取り繕うような笑みで満ちていて……いや違う。なんとかこの場を切り抜けようと取り繕っているのだ、本当に。心から。


 テーブルを挟んだ手前側、ロルカの前には昼間に浴場の前で話した自警団の男がいて……警戒心をあらわに腰に下げた剣に手を添えている。


 ロルカにはそれでも信じられなかった。幼い頃からずっと……何度も世話になってきた村長むらおさ。その人がいま、ロルカを売ろうとしているなどと。


 己の村が壊滅し――生き残りがいないなどと。


村長むらおさ、俺の村の皆は……がッ……」


 そのときロルカの後頭部に鈍く重い痛みが奔り、視界に火花が散った。


 背後から忍び寄っていた別の自警団になにかで殴られたのだとロルカが悟るよりも早く、膝から崩れ落ちた彼の上に影が落ちる。


「むら……おさ……」


「――ふ、ふくく……」


 その醜悪な笑みときたら。まるで……本に描かれる悪魔かなにかだ。


「まさかこんなところで牢屋が役に立つとはな――そいつを入れておけ。……素晴らしい部屋を用意してくれた我がご先祖様には感謝せねばなるまいよ」


 ロルカは霞んでいく景色に歯を食い縛って抗った。


 けれどそれも虚しく瞼がぴくぴくと痙攣し音が遠ざかっていく。


 意識が途切れるその瞬間、ロルカは声にならない声を上げた。



 ――最初からおかしかったんだ。俺の『野生の勘』はそう言っていたのに。



******


 暗く湿ったカビ臭い場所。冷たく硬い石造りの床と壁にすべてを遮断された牢獄。


 ぴち、ぴち、と……雫の滴る音は呼吸音以外に唯一聞こえる音だった。


 ――皆はどうなったんだろう。


 ロルカは膝を抱えできるだけ身を丸め、まるで闇に溶け込もうとするかのようにじっとしていた。


 後頭部の痛みは既にないが、震えるほどの恐怖は離れる気配がない。


 ――俺はどうなるんだろう。


 もしも村長むらおさの言葉が事実なら、自分はただひとり逃がされたのだ。ロルカはそれを思って唇を引き結び、何度目かの涙を必死で堪えて嗚咽を噛み殺す。


 ――村にはミラ姉さんもいる。守護を担うほかの人たちだって。だからきっと……そうだ、きっと皆は……。


 考えても、考えても、考えても――ロルカの気持ちは軽くなりはしない。


 呼吸は浅く心臓は痛いほど脈打ち続けている。


 そうして時が過ぎ、爪が食い込むほどに強く膝を抱くロルカの耳にふと……足音が聞こえた。


 眠ることもままならず暗闇にいたロルカにとって、いまがいったいどれ程の時間なのかは想像がつかない。


 夜中なのか、朝なのか、昼なのか――不安と恐怖に満ちた頭で考えるロルカの独房へと足音は迷わず進んでくる。


 暗闇に目が慣れていたロルカが息を殺しながら視線を上げると……足音の主は小さな吐息とともにジャラリと金属音を響かせた。


「よおロルカ。そこから出たくはないか?」


 場違いな飄々とした声は――ロルカも聞いたことのあるものだ。


 彼は牢屋の前に立つと右の人さし指に掛けた鍵束をくるりと回し……軽く首を傾げた。


「――おい。聞こえてんのか?」


「…………、ニーアス……?」


 藁にも縋る思いで声を絞り出したロルカを見下ろすと、彼は困ったように笑う。


「……ひでぇ顔だな、お前」


 同時に、ガチャリ、と音が響き……頑丈な錠前が外れて傾ぐ。


 牢屋の扉を軋ませ、臆すことなく堂々と開け放つと――ニーアスは続けた。


「説明はあとだ。助けた料金は当然、後払いな? それでよけりゃ付いてこい」


 彼――ニーアスはロルカの村に定期的にやってくる行商人だ。初めて村を訪れたのはもう五年以上前になる。


 勿論ロルカとも交流があり、顔を合わせれば長話する程度には気が知れた間柄だ。


 ……けれど。信頼していた人に裏切られたばかりですぐに助けてと言えるほど親しくはない。


「どうしてここにいるんだ、ニーアス――?」


 ロルカはカサカサに乾いていた唇を湿らせ、慎重に口にした。

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