第5話 霞ヶ関本部

「そう、異端審問課」


 藪下は銀色の銃を若い同僚に向けて部屋の隅に立っている。

 薄暗い石造りの伽藍、高い天井をガス灯の光が薄く照らしていた。

 青灰色の石畳は油で濡れたように黒ずみ、壁から下がった鎖は赤く錆びている。およそ10m離れた入り口に立ち、ひきつった笑顔を浮かべたまま、笹山は両手を上に上げている。

「いきなり、なんですか?」

 銃口を笹山の胸のあたりに向けたまま、藪下もひきつった笑顔になる。

「怖い? 銃を向けられて、怖い?」

「怖いに決まってるじゃないですか! いや、その、大きな声出してすみません」

 まるで冗談のような光景だ。二年間、仕事を共にしてきた仲間へ銃を向けている。しかも、何の説明もせずに。

「ただの、銃なのに?」

「何を言ってるんですか?」

 考えれば考えるほど、藪下の頭は混乱する。こんな試すようなことをせずとも、昼の明るい事務室で当たり前のように血液検査を勧めれば良かったのではないか。そうすれば笹山も快活に「はい!」と医務室へ行き、素直にその血を検査へ回したのではないか。

 そして何事もなく日常は過ぎ、当たり前のように明日が来たのではないか。

 だが、いま、藪下は猜疑心にかられて銃口を笹山に向けている。

「証拠が、あるの、あなたの、住んでるマンションを調べた」

「マンション?」

「行方不明が三件、原因不明の死亡事故が八件」

 すべて同じマンション内に住む者たちの身に起こった出来事だったが、管轄の違いが盲点となった。一件は幼児の誘拐事件、一件は女子高生の家出、一件はリストラの末の失踪。死亡事故はすべて近所の川、公園、路地裏で起こっていた。

一件もバイツの仕業であると考えた部署はなかったし、それらを関連づけて考える者もいなかった。

「あなたの部屋だけなの、隣も、上も下も、どこも被害にあってない。他の全ての部屋がどこかで事件に関わりを持っているのに、あなたの部屋だけ、なんの関わりもないの」

「それの、どこが証拠なんですか」

 笹山は涙を流している。悔しそうに唇をゆがめ、突然狂ってしまった上司を憐れみの目で見つめている。

「藪下さん! もし私が、バイツだとしたら、おかしいじゃないですか、ただの銃で狙って、何になるんですか!」

「私がおかしくなったと思う?」

 銃口が下がっていくのは、藪下にもわかっていた。だが止めることもできない。決まっていたことはただひとつ、この場所に来て笹山に銃を向けることだけ。

「そう思うよね、笹山さん」

「藪下さん」

「さっき、あなたの骨があなたの部屋で見つかったの」


 バイツが人間を捕食できるのは、その膂力に依るところが大きい。どんなに優れた格闘家だとしても、相手に致命的な攻撃を与えるには、身長の倍程度の距離が限界で、まず必要なのは、相手になるべく近づくことだ。

 笹山の顎が藪下の首の間近に来たのは、藪下が先の言葉を言い終わった直後だった。

 大きく開かれた口と、虚ろに溶けた目が藪下を見ている。


 時が、止まっていた。

「ねえ、言った通りでしょう?」

 藪下と笹山の周りをゆるりと歩きながら、純血の貴族種、伯爵級のバイツ《アルベルタ》が笑っている。

「ある種のバイツは、人間を食い殺してその人間に成りかわる。顔も、体も、頭の中までそっくりに化けて、その人間になりきる。この子もそう。笹山香っていう子の体を食べて、自分が笹山香だって思い込んでた」

 アルベルタは笹山の首にそっと指をかける。

「このまま首をちぎって殺してあげたいけど、あいにく私は時間の器の外にいる。だから干渉できるのは情報だけ。ねえ藪下巡、教えてあげる、この子はずっとあなたを尊敬していたのよ。厚労省の先輩として、敬愛してた。それはバイツになってからも変わらない、本当の気持ち」

[だったら、なぜ、彼女はいま私を殺そうとしているの?]

 藪下の心に浮かんだ問いに答えるように、アルベルタの顔が笑顔で歪む。

「先に殺そうとしたのはあなたでしょう? 可哀想に、時が戻ればこの子、どうして自分が死んだかもわからずに、時の器から解き放たれて消えるのね」

 薄闇の中にアルベルタの体が溶けていく。

「おぼえておきなさい、私は本当のことも言うのよ、笹山香はバイツだった」


 消えると同時に伽藍に響いたのは、肉と骨を切り裂く音ではなく、銃声だった。バランスを崩して虚空を滑走した笹山の体は床に激突し、二、三度跳ねて壁にぶつかり止まった。手足の骨は砕け、バラバラの方向へ向いていたが、それでも立ち上がろうとする。

「あれぇ? 当たりましたよね?」

 ハスキーなよく通る声が藪下へ投げかけられた。

 物陰から、魔銃をかまえた少女が出てきて、伸びをする。

「急に呼び出されてこんなカビくさいところに閉じ込められて、死ぬかと思いました」

「あなたが」

「厚生労働省安全衛生部異端審問課・本部親衛隊・筆頭、吾妻レイカです」

 壁の下でもがいていた笹山の体から、白い煙が立ち昇りはじめる。

「外に出ましょうか、見ていて気持ちのいいものじゃない」

「吾妻さん、でも」

「あれはもう笹山さんではありません、藪下さん、あなたは一番よくわかっているはず」

 抱えられるように吾妻に肩を押され、藪下は地下の伽藍を後にする。

 鉄と木の扉が閉まり、歯車が音を立てて回り、止まる。

 こもるような鐘の音色が、外へ続く回廊へといつまでも響いていた。


「日本、寒いですねえ」

 堀のそばの公園で送迎車を待ちながら、吾妻レイカは手を温めている。

「あなたは、なんとも思わないの」

 藪下は目を伏せたまま、灰色の地面を眺めている。

 白い冬の空が、あたりの色を全て奪ってしまったように見える。

「なんとも、って言われても」

 吾妻レイカは両耳たぶを手でつまみながら肩をすくめた。

「自分の身近な人間がもしもバイツだったら、ってことですよね」

 呼んでいた送迎車が停車する。

 藪下の伏せた目の位置まで顔を下げて覗き込み、吾妻は笑う。

「わからないです、撃つんじゃないかな、たぶん」

 送迎車に乗り込む吾妻の背中に、藪下は言う

「それが、大切な人でも?」

「大切な人だったらなおさらでしょ、そいつは偽物なんだから」

 ドアが閉まり、送迎車は空港へ向かって走り出す。

 藪下はその後ろ姿を、いつまでも見つめていた。


 そして、十一人のドナーが招集される。

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