第4話 立川支部

 花蓮には、倫理観という言葉の意味がよくわからない。


 幼い頃から息をするように嘘をついて生きてきた。つまらなくても楽しそうにする。悲しくても微笑む。楽しくても黙る。怒っていても笑う。

 母親の気を悪くしないように。父親に殴られないように。つつましく静かに嘘をついてきた。それですっかり嘘をつくのがうまくなった。

 だから、羽佐間花蓮はドナーへの誘いを受けてすぐに、諜報部への所属を希望した。決死の仕事であり、生還率も少ない。だがうまくいけば、貴族種ですら罠にかけることができる。


 それが、三年前。

 厳しい訓練を経て、二年前から世界中を旅することになった。どの場所に居ても、未成年である花蓮を疑うものは少ない。おおらかな笑顔と、困ったようなはにかみを見せて、流暢な英語を話して身分証を見せるだけでいい。

 しばらくそうやって生きていると、街中で人の見分けがつくようになった。公園の浮浪者に紛れた刑事、駅のホームで人を殺そうとしている者、そして花蓮のように何者かに雇われた子供たち。

 なんだ、世界は嘘つきばかりじゃないか。

 人類を救うため、正義と平和のため、安らかな未来のために。

 花蓮はその言葉を信じて、ためらいなく嘘をついた。あの日が来るまでは。

 自分の知らない嘘で28人が死んだ一年前のあの日以来、花蓮は嘘をつくのをやめた。


◆◆◆


 厚生労働省安全衛生部異端審問課、霞ヶ関本部の廊下はどこまでもまっすぐに続いている。

「支部名が消されてますけど、これ、羽佐間花蓮、ですよね」

 笹山香が歩きながら読んでいたファイルを差し出す。

 隣を歩きながら藪下はそのファイルを受け取り、ため息をつく。

「彼女はどこの支部にも属してない、ドナーでもない」

「でもRHマイナスL型ですよ」

「もちろん、魔銃だって支給されてる」

「じゃあ、やっぱり」

 エレベーターの前に立ち、藪下はファイルを開き、ページをめくる。

「元諜報部所属。半年間の謹慎ののち、現場復帰、現在は立川支部の実験部隊に配属」

「あ、ここに書いてあったんだぁ。謹慎?」

「私が彼女を捕まえたの、拘束して、尋問した」

 エレベーターの扉が開き、二人は中へ入る。

 藪下は最下層のボタンを七回押すと、閉じるボタンを二回押した。

「藪下さん、めっちゃ怪しいじゃないですか、この子」

「ええ、二重スパイの疑いがある」

 エレベーターは通常よりも早い速度で下層階へと降りていく。

「一年前のあの日、羽佐間花蓮の情報を信じた亀戸支部は、王子支部に応援を要請した」

 回数を表すランプが瞬く間に最下層に届き、明滅を繰り返す。

「だけど、証拠は何も出なかった。尋問の成果もなし」

「それで、血液検査?」

「いいえ」

 ランプの明滅が止まり、エレベーターが停止する。

 エレベーターの扉が開くと、その目の前にも頑丈そうな鉄の扉があり、油圧シャフトが作動して開く。

 長い廊下が続いている。だがそれは役所の白くて清潔な壁や床とは程遠い、石造りの陰鬱な回廊である。古い燭台跡を利用し、途切れ途切れの距離に設置されたガス灯が遠慮のない光を辺りに投げつけ、それを湿気たように鈍く光る石畳が受け止めている。

 すえたカビの臭いに口元を押さえながら、笹山が尋ねる。

「最下層、ですか?」

「人間にとっては、ね。ただの人間が入れるのはこの階まで。ここから下は、選ばれた聖者しか入れない」

「は、ははは、そうなんですね」

 藪下は振り返りもせず前へ歩き出し、慌てて笹山が後を追う。

「ここから下の階にはバイツがいるんですよね、拘束されて閉じ込められてる」

「ええ、アルベルタもここにいる」

「その真上で、血液検査」

「それが彼女の出した条件だから」

 廊下の行き止まりには、鉄と木で組まれた古い扉がある。

 藪下は懐から丸い金属の飾りを取り出し、扉の飾りに当てはめて回す。

 歯車が回り、次第に大きな機構へと力が伝わっていくのがわかる。扉は大きなきしみを立てながら内側へ開いていく。

 アルベルタは十一人のドナーの中にバイツが隠れていると言った。そのバイツを見つけるための条件が、この廊下の先にある古い部屋に全員を集めること。

 部屋の奥へと順に、ガスの火がともり、明かりを投げかけた。

「わ、教会」

 笹山が思わず口にする。確かにガス灯のゆらめく光に照らされた伽藍は、ロマネスク様式の教会を思わせた。

「本来ならば、ね」

 藪下は振り向かず、部屋の奥へと歩く。

「たしかに、教会っていうか、よく見ると」

 壁には錆びた鎖が幾条も連なり垂れ下がっている。石造りの壁と床には、油のような汚れが重なり、広がっている。よく見ると高い天井にあるのはフレスコ画ではなく、飛び散ったなにかのシミだ。

「拷問部屋って感じですね」

 入り口に立ち止まり、口を開けたまま天井を眺める笹山に、藪下はゆっくりと銃口を向ける。

「私たちの部署の名前、そのままでしょう?」

 笹山は両手を上げて、目をしばたいた。

「厚生労働省、安全衛生部、異端審問課」


◆◆◆


「はじめまして、私が成瀬桔梗」

「私が成瀬葛」

「「私たちはアーティフィシャル・ドナーです」」

 まったく似ていない二人が、まるでロボットのように無表情なまま、声を合わせて挨拶をしている。

 うららかな春の午後、給湯室の白いテーブルの前に、二人の少女が立っている。向かいに立った羽佐間花蓮は持っていたコーヒーをこぼさないよう、必死で耐えながら笑った。

「なぜ笑うんですか?」

 冷静な口調を変えず、桔梗が尋ねると、花蓮は真っ直ぐに立ち、微笑んだ。

「だって、それ、からかってるんでしょう? 二人とも普段からそんな喋り方してるわけじゃない。そんな人格のない、機械みたいな」

 葛は不機嫌そうに口を膨らませ、桔梗を小突く。

「ほら、バレた!」

「ちょっと、崩さないでよ!」

「あんなに練習したのに~!」

 まだ見た目にも幼い二人が、見た目通りの仕草と喋り方で言い争っているのを見て、花蓮は間に入る。

「ごめんごめん、よくできてた、普通は騙されるよ、何のために騙すのかは、わからないけどね。私は人より、他人の嘘を見抜くのがうまいんだ」

 ひとりぼっちの羽佐間隊、隊長。良くも悪くも窓際状況の花蓮のもとへ、成瀬機関から二人の実験体が送られてくると聞いたのは数日前のことだ。どんなドナーが来るのかと楽しみにしていた花蓮は、驚くほど人懐っこ区、下手な嘘をつく二人を見て、すぐに愛着を持った。


 立川支部の喫茶室には自販機しかない。

 窓から国営昭和記念公園の見えるテーブルに座り、花蓮と桔梗、そして葛は初対面の距離感をつかもうとしていた。

「私たち、実験が始まってからずっと二人なんです」

 葛は甘いホットのいちご牛乳を飲みながら、花蓮をじっと見つめた。

「だから合わせて喋るのが癖になってて」

 桔梗はホットのレモンティーで指を温めている。

「成瀬って苗字は、成瀬機関から来たから?」

 花蓮が尋ねると、桔梗は快活に答える。

「ええ、私たち孤児なので、もともと苗字がないんです」

「それに、遺伝性の疾患もあって長くは生きられないから、実験には最適だって」

 葛は得意げに微笑む。

 成瀬機関は厚労省管轄の医療機関である。イスラエルで開発研究された結果をもとに、主に国内でのL型血液に関する実験を執り行う。その成果は国内でのドナー運用に利用されている。

「私たち、人工的にL型血液を生み出すことが可能となった国内第一号の実験成功例なんです。だから、それっぽくしておいた方がいいのかな、って思って声を揃えたり」

 桔梗がいたずらっぽく笑うと、葛もつられて笑う。

「いっぱい練習したんです。ほら、血の繋がり、って言うじゃないですか。私たち元は他人だけど、いまは同じ造血細胞を持ってる、家族だから」

家族――花蓮は葛の言葉に笑顔でうなずきながら、もう顔も忘れてしまった自分の家族のことを思い出す。

「いいね、家族、私も入れてほしいな」

 窓の外を眺めながら、そんなことを口にすると、桔梗は大きな声で

「じゃあ、お姉さんですね。私たちのお姉さん」と笑った。

 もう、嘘はつかない。誰も騙す必要なんてない。

 花蓮は心から微笑み、振り向く。

「うん、そうだね、ありがとう」

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