第2話 亀戸支部

 自分の頭蓋骨が割れる音で目を覚ましたことがある者は、命があることに感謝するべきだろうか。それともそんな目に遭わせてくれた神を呪うべきか。


 赤見清子はベッドの上で半身を起こし、後頭部をさする。精妙な外科手術でチタンのプレートと頭蓋の境目が、頭皮の下にうっすらと感じられる。


 まだ、生きている。


 窓の外から、街灯の凍った光がベッドの足元を照らしていた。

 汗ばんでいるのに、首筋が冷えて痛い。霞む目で部屋の暗がりを眺める。そこに、奴が潜んでいる気がする。そんなはずはない、奴は捕らえられ、本部の地下深くに幽閉されている。二度と出ることのできない石の牢獄。


 アルベルタ、伯爵級バイツ。雑種とは格の違う強さ。一年前の出来事がまるで昨日の事のように蘇り、与えられた傷と失った誇りの痛みが脳内を駆け巡る。


 夜が明けるまでまだ数時間ある、赤見は枕元の錠剤を一粒、コップの水で一気に流し込んだ。恐怖に惑わされないために、休息をとらなければ、いつか本当の敵を見失ってしまう。暗い眠りの中へ、赤見は身を沈めた。


◆◆◆


「厚生労働省安全衛生部異端審問課、亀戸支部赤見隊隊長、赤見清子。一年前の作戦において、隊員の指揮系統に混乱を生じ、部隊内の人員を四人失った」

 異端審問課、課長補佐、藪下巡は薄暗い机上の灯りでファイルを照らす。正面を見つめる赤見の目に、濁りはない。リストの上位にある、潜入したバイツの疑いが深いうちの一人。

 机を挟んだ向かいに座った部下、係長の笹山香が身を乗り出してファイルを覗き込む。

「頭蓋骨の複雑骨折ですか、その子、よく現場に復帰できましたねぇ」

 笹山の能天気な声を聞くと、藪下は張り詰めた気分がゆるむのを感じる。すでに職員の帰ったフロアで、天井の蛍光灯を消して無許可の残業をしているのは、藪下の勝手だ。それに付き合って居残りをしている笹山の行動もまた、彼女の勝手だ。

 半年前に配属されてから、笹山は藪下のもとで働いている。もともとは経産省のエリート職員だったらしいが、この性格が災いしてか出世コースを外れ、流れ流れてやって来た。上の言うことを聞くよりも自分の正しいと思うことを貫きたい。それが良いことなのか悪いことなのか、藪下には判断ができない。ただ似た者同士と言うだけだ。だからといって、彼女と同じように緩んだ声を出すことはない、張り詰めるのにも理由がある。

「彼女の後頭部には砕けた骨の代わりにチタンのプレートが入ってる、もしバイツの変身能力がそこまでコピーできるなら、ただの健康診断じゃ見抜くことはできない」

「血液検査、ですか、なんだか気が重いなぁ」

 藪下は顔を上げ、笹山を見る。目を伏せたまま、笹山は続ける

「だって、ドナーですよ、RHマイナスL型の、よりによって」

「何が言いたいの?」

「あの子たちにとって、血を抜くってのは、なんかこう、あいあん、あいあん」

「アイデンティティ?」

「そうです、それ! あれ? 何を言いたかったんだっけ?」

 藪下はファイルを閉じ、机に伏せた。

「ま、気の済むまで考えなさい。今日は終わり。付き合ってくれてありがとう」

「いえ、藪下さん」

 改まった様子の笹山に、藪下は再び目をあげる。

「終電ないんで、泊めてもらえませんか?」

 にっこり笑う笹山の顔を見て、呆れることもできずに藪下はため息をついた。

「今日は車だから送る、家どこだっけ」

「え? いいんですかぁ?」

 机上のライトを消すと、青白い月明かりがフロアを照らす。

「泊めるよりましでしょ」

「掃除しますよ、食器も洗うし」

「間に合ってます」

 誰もいない廊下に、笹山の能天気な笑い声がこだました。


◆◆◆


 朝の光が、薄曇りの空を照らしている。

 亀戸支部の寮には、赤見隊の面々がそれぞれの部屋を根城にしている。家から私物を大量に持ち込んでいる者もいれば、簡素なベッドにシーツだけ、あとは着替えが数着の者もいる。

 赤見が洗面所に向かうと、パジャマ姿で寝ぼけ眼の菖蒲真矢が慌てて敬礼をする。赤見はそっとその手を掴み、顔を近づけた。大きな声で怒鳴ることはない、ここは現場ではないのだ。

「制服を着ているとき以外には、敬礼をするなと言ったはずだ」

「失礼、しました、あの、聞きました?」

 菖蒲は頬を赤く染め、戸惑いながら訪ねた。

「部隊内の編成が、少し変わって、新しい隊員が入るそうですね」

「聞いている、遠距離後方支援、だったかな」

「そうです、スナイパー」

「ライフル型の魔銃か」

「私たちだけ前線に出て、後ろから撃つだけなんて」

「菖蒲真矢、先入観でものごとを決めつけるな。新しい武器が手に入れば、新しい使い方を考える、それだけだ」

「は、はい! 失礼しました!」

 菖蒲は、慌てて自室へと帰っていった。

 冷水で顔を引き締めると、赤見は窓の外を見る。電線に、何匹かの冬の雀がふくふくとした羽毛を重ね合わせて並んでいた。


 赤見は自室に戻ると、いつも通り死んでいった隊員たちの、位牌の代わりの写真立てに線香代わりのコーヒーを手向けた。

「異端審問課」の名からすればおかしなものだが、隊員たちの多くは神仏の類を信じておらず、その信仰心を確かめられるような調査もない。表向きはみな洗礼を受け、神の名の下に異端者を罰する役目を与えられている。だが、その実異端審問課が必要としているのは、バイツの肉体に作用する唯一の異物「RHマイナスL型の血液」だけだ。

 人工的な培養もできず、精製も不可能、骨髄を人体から分離すればその作用は失われる。恒常的な痛みを全身に与え、治療の手立てもない。思春期につれて痛みは強くなり、ひとたび発作を起こせば立ってあることはおろか意識を保つことも難しい。

 だから彼女たちは常に強力な鎮痛剤と精神安定剤、それらの副作用を抑えるための薬、さらにその副作用を抑えるための薬を飲んでいる。覚醒効果のある薬剤の使用も可能だが、カフェインで事足りるとして、コーヒー中毒になる者が多いのも特徴だ。

 コーヒーカップからたちのぼる湯気が、写真たての前でゆれて消えていく。


 午前中は高校生としての学業を優先し、午後はドナーとしての教練を受ける。バイツたちの強靭な肉体に、人間が腕力だけで打ち勝つことはできない、ただ一秒だけでも長く生きてその血を奴らに撃ち込むこと、そのための訓練だ。

選ばれた者、志願した者、仕方なくそこにいる者。

 赤見はできることならば志願した者だけで部隊を構成したいと考えていた。たとえば菖蒲真矢はその代表だ。自分の役割を疑うこともなく、毎朝のミサにも出席し、神への信仰心も揺るぎない強さを持つ。間違った行動をすれば後ろから撃てばいい、赤見がそうすれば、菖蒲は喜んでその苦難を受け入れるだろう。


 咲本小夏が赤見隊に配属されたのは、夏の終わりだった。

 三人の新しい隊員のうち、明らかな人員補充のための埋め合わせ、誰もがそう思うほど、咲本小夏は居心地が悪そうに見えた。

 赤見は「選ばれた者」特有の怯えと不安を感じ取り、心の中で舌打ちをした。

 あれでは作戦へ同行させることはできない、恐れを抱く者は必ずその弱さをバイツに利用される。

「咲本小夏です、あの、訓練課程を経て、赤見隊へ配属になりました、えっと、スナイパーです、よろしくお願いします」

 目覚ましい戦績だった。赤見たち先発隊が突入し撹乱、菖蒲たち後発隊が囮となり、バイツどもを誘い出したところへ咲本小夏の的確な狙撃が待っている。負の先入観を抱いていた菖蒲をはじめとする荒くれの隊員たちは、手のひらを返して小夏を歓迎した。


「ヨブ記を読め、って言われたんです」

 訓練の合間、皆が休憩しているときに、小夏が呟いた一言を聞いていたのは赤見だけだった。

「誰に?」

「先生です、学校の、あの、ドナーになる前の」

「どうして?」

「私が、RHマイナスL型だ、って、知ってたからかな、って思うんですけど」

「『私の生まれた日は滅び失せよ』」

 赤見がそらんじると、小夏がそれに続いた。

「『その日は暗くなるように、神が上からこれを顧みられないように、光がこれを照らさないように』」

「おぼえてるのか?」

「いえ、ここだけです、とても……わかるので」

 唇の小さな震えが、それこそが本心であると告げていた。


 バイツは人を糧とする。そのため野や山に潜むことはなく、人に化けて町に住む。特にレイブンと呼ばれる変種は昼の日の中でも行動が可能だ。とはいえ昼間の繁華街で銃撃戦を行うわけにもいかない。パニックが起これば民衆は容易に殺しあう。ただの人間同士が互いを疑って殺しあう事例は歴史上に幾度もあった、そのたびにバイツは人間の愚かさを嘲笑ってきた。

 バイツを追い詰めるには夕刻がふさわしい。夜は奴らの時間であり、援軍の可能性も高い。

 綿密な捜査を経て発見した、人間に隠れて生きている雑種バイツどもを狩る。

その日、赤見が追い詰めたのは、まだ年端もいかぬ少女だった。

「どうして、私たちを殺そうとするの」

「問答は必要ない、仲間たちがいるなら呼ぶがいい、残らず始末するだけだ」

「助けて、神さま」

「悪魔が神の名を口にするのか?」

「だって私たちを作ったのは神様でしょう?」

 少女は胸元から十字架を取り出すと、赤見に見せつけた。

「私、ずっと人間を殺してないの、人工血液で飢えを癒しているの、ねえ、人間と私たちバイツは共存できるかもしれない」


 待機している菖蒲たちにも、インカムを通してこの問答は聞こえていた。だが通常ならば単体の雑種バイツと赤見隊長が問答をすることなどあり得ない。何か深い考えがあってのことなのか、それとも精神攻撃の一種なのか、菖蒲は判断を保留した。


 赤見は距離を保ったまま冷静に話を続けた。

「仲間を呼べ」

「呼ばない。私を殺すなら殺していい、だってそれが神さまのお与えになった試練なのだから」

「くだらない」

「あなたは神様を信じてないの? ブラッド・ドナー、あなたの血液は私たちを殺すことができる。あなたは私たちを殺すために生まれた」

「殺すため?」

「違うの? ああ、そう、あなたは違う、そうでしょう?」

 一発、連続して三発、そして三発。続けて発砲できる限界数、七。

 魔銃から放たれた全弾が、少女の体を穿ち、そのか細い骨を砕いた。

 夕闇を引き裂く叫びが少女の全身から溢れ出し、光の柱が宙へ伸びていく。間を空けずに菖蒲たちが駆けつけるが、潜んでいたバイツたちが襲いかかる気配はない。

「赤見隊長、なぜ撃ったんです」

 菖蒲が声を荒げると、赤見は伏せていた目をあげた。

「銃声は聴こえたか?」

 赤見の銃は、全弾未発射、残弾数は七のままだった。


 400M離れたビルの屋上から、小夏が喉を詰まらせながら答えた。

「も、申し訳ありません。赤見隊長への、せ、精神攻撃の可能性を考慮し、む、無断の狙撃を敢行しました」

 続く嘔吐の音を聞いても、誰もそれを責めるものはいなかった。


 赤見は自室に戻り、写真立てに目を向けた。笑顔の集合写真、かつては生きてともに戦った仲間。

「まだ、お前たちには会えないな」

 眠りを誘う錠剤を口に含み、水で一気に流し込み、赤見は再び深い眠りの中へと身を沈めた。

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