インフォームドコンセント
@asakusan
第1話 異端審問課
厚生労働省霞ヶ関本部。安全衛生部異端審問課のフロアは、他の部署と同じく解放されている。
違いはただひとつ、どこにも部署の看板が出ていないことだけだ。
課長補佐の藪下巡が出勤すると、係長の笹山香がなにやら薄汚い男にからまれているのが目に入った。他の部署と間違えて来て、何かとゴネる市民の方もいる。藪下は笑顔を崩さず話しかけた。すると、薄汚い男は黒い手帳から名刺を出して言った。
「どうも、警視庁公安部の灰原です」
「何か、御用ですか」
「御用があるから来たんですよ、でなきゃこんな朝早くに役所に来るわけないでしょう」
タバコ臭い息を吐きながら、中年の脂ぎった男は大きなあくびをした。
応接室のソファにどっかと座り、灰原は部屋を見渡した。
「はあ、まあ、役所というのは、どこも同じですなあ」
向かいに座り、藪下は考える。公安が尋ねて来るような現場の不始末は報告されていない。ということは過去の詮索か、もしくは警視庁内での権力闘争から、異端審問課とつながりのある警察官僚の内偵か。
藪下の曖昧な思考を打ち切るように、灰原はハキハキと喋り出した。
「異端審問課とは、厚生労働省の管理する秘密機関の名称でありますな」
「ええ、そうです」
「あー、日本国内におけるバイツの駆逐処理、ならびにその直接の担当者となるエージェントの育成管理が主な公務となる。でしたかな」
「はい、間違いありませんね」
「バイツとは、一般市民に害をなす侵略的外来種の名称だ。それらは感染性の遺伝変異を有しており、人間の血液を主な糧としている。バイツに噛まれた人間は死亡するか、もしくはバイツへと変貌する」
人間よりも強靭な肉体、驚くべき膂力、そして非科学的な特殊能力を持つ化け物だ。日光を苦手とし、夜行性であることなどから伝説上の「吸血鬼」との類似を指摘する声もある。
「なんでも? 貴族と雑種に分かれており、貴族の中でも伯爵、公爵、子爵と位が分かれておる、と、まあ、がはは」
ヤニの染みた汚い歯を見せて、灰原は口先だけで笑う。
藪下には何が面白くて笑うのか、見当がつかない。
「で、それらをぶち殺せるのは銀の弾丸ではなく、血の弾丸であると。撃てる連中のことはドナー、と呼ぶらしいですな」
「ブラッド・ドナーです」
「それで? なんですか? 魔銃? とかいうのに自分の血を込めて撃つ、と」
「携帯型献血式特殊炸裂弾射出装置、ですね。彼女たちが持つRHマイナスL型の血液は、バイツの身体に致命的な害を与えますので……そろそろ本題に入っていただいてもよろしいですか」
にこやかだった灰原の目が、不意に細くなる。
「一年前に……おたくの職員も被害に遭った事件がありましたな、亀戸の方で」
職員、一般人を含む二十八名が殺害された事件は、港の倉庫の火災事故として報道された。
「ええ、その節はお世話になりました」
「主犯格のバイツは自ら投降したとか」
「投降? バイツが? まさか」
「そういう噂がありましてね、エージェントすら殺したバイツを、厚労省が捕まえて、利用していると。おかしな話ですねえ、そもそも、人殺しですよ」
灰原は声をひそめた。
「動物なら環境省で処理するべきだし、殺人犯ならウチに渡すのが義務ってもんでしょうが、それを隠匿しているとしたら、これは問題ですよ」
すごむ灰原の臭い息も、藪下はまったく意に介さず、にこやかに答えた
「もし、そんな事実があったら真っ先に刑事さんにご報告しますね」
笹原は灰原を見送りながら、思わせぶりに低い声を出した。
「あの人、どこまで知ってるんですかね」
「どういう意味?」
笹山はくしゃっと笑顔になり
「なんかドラマみたいじゃないですか! 追い詰める刑事、謎めいた美女!」と笑った。
「誰が謎めいた美女なの」
藪下は呆れながら、お茶を一気に飲み干した。
「そもそも、現場レベルで情報が共有できないこの縦割りがダメなんだよね」
「あれぇ? 行政批判ですかぁ?」
「からかうんじゃないの」
笹山は不意に真面目な顔になると「でも、私も変だなって思いますよ、あのアルベルタが足元にいるなんて」と呟いて、空の茶碗を回収した。
一年前に港で二十八名を殺害した貴族種、伯爵級のバイツ、アルベルタ。
彼女は事件の直後に霞ヶ関本部に投降、その身を地下深くの牢獄へと拘束することを了承した。
日本国内で発見されたバイツのうち、協力的なものは厳重な監視下のもと管理されるべしという密約が環境省と厚労省の間では交わされている。これは世界規模で取り決められたバイツ保護の為の方舟協定に違反する行為ではあるが、多数の雑種バイツが跋扈する現状、暗黙的に了解されている事実である。
なぜ、アルベルタは投降したのか。
なぜ、拘束衣を着て牢獄に留まるのか。
謎は解き明かされないまま、時だけが過ぎていった。
炭素鋼のワイヤーを張り巡らせて織り込んだ超硬度防弾ガラスの窓越しに、アルベルタは藪下に語りかける。
「どうして私があの時、珊瑚ちゃんを殺したか知りたい?」
マイクを通して安物のスピーカーから流れる声が耳障りだ。
蛍光灯の目障りな明滅も、藪下の気に触る。地下数十階よりも更に底深くに、アルベルタの幽閉されている独房はある。藪下は月に数回、取り調べのためにこの独房の前までやって来る。その問答は常に難解で無意味だ。
藪下はアルベルタの問いに答えを返す。
「ただの人間だったから?」
「ああん、ダメダメ、全然わかってない」
「クイズをするためにここに来たわけではありません」
「私のことを調べてる人がいる、だから来た」
「どうしてそれを」
アルベルタは大きく笑い、目の端に涙さえ浮かべた。心の底から笑っているのだ。またそれがアルベルタにとっては楽しくて仕方ない。人間の心を弄ぶことだけが彼女に残された最後の愉悦なのだ。
「藪下さんって、本当に素直。私が知ってるわけないでしょ? ここから一歩も外に出られないのに」
藪下は息を呑み、浮かした腰を椅子に落ち着ける。
「ええ、そうです、あなたは一歩も」
外へ出ていない、と言おうとして薮下はペンを取り落とした。
同時に強い耳鳴りと共に、目の前が水の中のようにたわむ。
手元から滑り落ちたはずのペンが、いつまで経っても床につかない。
気がつけば蛍光灯は明滅を止めていた。
薮下の隣には、アルベルタが立っている。
呼吸ができず、藪下は口を開こうとするが、動けない。
「大丈夫、いまあなたの意識の速度だけを私に合わせてるから、息は止まってない、ただ認識できない速さになってるだけ。どうして外に出られたかって? 出てないの、私は一歩も外に出てない。でも私は時の器の外に出ることができる、わかる? これはね、あなたの記憶。私はあなたの意識の中へ入り込むことで、時と場所を超えているの。ねえ、いいことを教えてあげる、私ずっとあなたに教えたかったの。いまから話すこと、一言も聞き逃しちゃダメよ」
蛍光灯は、目障りな明滅を繰り返していた。
ひどく汗をかいている。床から目をあげると、窓越しにアルベルタが微笑んでいる。全ては夢か幻か。数時間を経て伝えられたはずの会話は、ほんの数秒にも満たない一瞬の出来事へと圧縮された。取り落としたペンが床に落ちて転がった。
黙り込み、虚空を見つめている藪下に職員が声をかけた。
藪下の報告を上は冷静に受け止め、作戦の遂行を命じた。アルベルタの指定する十一人のドナーを招集し、血液検査を受けさせること。ただし、全員の同意が必要なため、その討議を地下13階の教会跡で行うこと。
「地下13階の教会跡、アルベルタの独房の真上」
「藪下さん、顔色悪いですよ!」
部署へと戻った藪下に、笹山が能天気に声をかけて来て、一気に日常が舞い戻る。
「散歩でもしたほうがいいんじゃないですか?」
「こんな寒いのに?」
苦笑いを返すと、藪下の体にも暖かい血が流れていることがわかる。
ふと、机の上の名刺に目がいく。刑事、灰原。
あまりに冷たい人外の気配に飲み込まれたあとでは、あのタバコ臭い息ですら生きた人間の証であるかのように、懐かしく思えた。このままズルズルと飲み込まれてしまえば、取り返しのつかないことが起こってしまうかもしれない。全てを話せば、もしかしたら力を貸してもらえるだろうか。
だが、その甘い期待はすぐに裏切られた。
「灰原は亡くなりました、ご連絡、届いていませんか?」
厚労省に来た数日後に灰原は死んでいた。したたかに酔った末の溺死、事件性はないと判断されたらしい。灰原の妻の沈んだ声が、その「判断」がどうあれ灰原は二度と帰ってこないのだから、これ以上は聞くなと告げていた。
藪下の頭の中に、アルベルタの言葉が渦を巻く。
「資料を確かめたいの、ちょっと手伝ってくれる?」
それは、嵐の前の風音のように深く響いた。
「私が名前を言う十一人のドナーの中に、バイツが隠れているのよ。私ならきっと、バイツを見つけ出す手伝いをしてあげられるわ。困るでしょう? 人類を救う切り札の中に、バイツが隠れているなんて」
その言葉が信用に値するかどうか、調べる必要がある。
藪下は信頼できる部下、笹山を伴い、資料室へ向かった。
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