XII-「私」と「あたし」



 この間、一家心中のニュースを見た。


 家族は一緒に死んでと言われていいよと言った。


 あたしはあのクソ親父に「一緒に死んでくれ」と言われたら、「嫌です」以外に返す言葉がない。クラスメイトの瑠美ちゃんに「彼氏に心中しよって言わたらできる?」と聞いたら、「は? ムリに決まってんじゃん」と言われた。


 家族より強い繋がり、恋人より強固な束縛。

 身を寄せ合って、抱き合って。


 その行き先が地獄だろうと煉獄だろうと畜生界だろうと、永遠に隣にいられるならどこでもいい──そういう、最も強烈な愛の告白だ。


 この熱量には性がない。入り込む余地がない。好き、ずっと一緒にいたい、だから死のう。シンプルで分かりやすい愛の言葉。


 もしかしたらあたしは、すーちゃんと心中がしたいのかもしれない、と。


 あの時あたしはそう思ったのだ。







 屋上へと続く階段で天津さんを待った。天津さんは立ち入り禁止の屋上へ入る手段を持っている。文芸部が一度廃部になった時、誰かが部室を屋上扉の鍵の隠し場所にしたのだ。だから文芸部にはずっと屋上への鍵がある。屋上なんて誰も行かないからなのか、はたまたそれは誰かが作った合鍵だからなのか、詳しいことは分からないけれど、先生たちにそれがバレたことも、問題になったこともない。


「京子。鍵、持ってきたよ」


 ポケットから鍵を取り出してみせる天津さん。


「ありがとう、天津さん」


 そう言って鍵を受け取り、私は屋上への扉を開けた。


 外は快晴で、風が強かった。突風が、スカートと、彼女の長い三つ編みを靡かせた。


 先生に無断で屋上に侵入する。これはお父様が絶対に許さないこと。


 私は──最後に、「あたし」でいようと思った。


 無言のまま彼女を背にして、フェンスに向かって歩く。すーちゃんは何も言わずにあたしの後ろをついてきた。

 フェンスにもたれかかると、あたしはニッコリと笑ってみせた。


「お願いがあるの」


「どうしたの、何でも言って。……この間から、京子、なんか変だから」


「あたしはもともと変だよ」


「そうだけど」


 そうじゃなくて、とすーちゃんはため息をつく。あたしはそんなすーちゃんの様子がおかしくて、ケラケラと笑った。


 そしてひとしきり笑い終えると、あたしはもう一度笑顔を作って、言った。


「ね、すーちゃん。──あたしと一緒に死んでよ」


 風が吹いた。あたしの髪が靡いたせいで、すーちゃんの表情はよく見えなかった。


 見えなかったけど、分かった。すーちゃんが表情ひとつ変えなかったこと。すーちゃんのことなんか手に取るように分かる。友達になる前も友達になった後も、友達でいられなくなってからも、ずっと見てきたから。


「それはできないよ」


 あくまで淡々と答えるすーちゃん。


「何が京子をそんなふうに思わせてるのか、私には分からない。でもさ、女子高生が屋上から身投げなんてベタだよ。私たち、少なくとも私はそんな死に方したくない」


「ベタ? そんなのどーでもいいじゃん」


 すーちゃんの物言いがおかしくて、あたしはまた笑った。そして、すーちゃんの手を強引に引く。


「ね、全部どうでもいいよ。最後にもう一回、私は『あたし』でいられてよかった。天津さんのことすーちゃんって呼べてよかった。だから今もうここでおしまいにしたい、こんなのってハッピーエンドだよ、すーちゃんと一緒なら」


「京子?」


「すーちゃん、ねぇすーちゃん、大好きだよ。ほんとに大好き。あたしのこと地獄から救い出してくれてありがとうって思ってた。でもあたしたち無力だったね、どうせあのクソ親父が作った地獄の前ではなんにもできなかった。すーちゃんの家だってそのはずでしょ? だから二人で、今ここで自由になろ。一回自由を知ったのにまた地獄に戻らなきゃいけないなんて無理でしょ? でも今ここから飛び降りたら、何もかもから逃げ出せるよ。それってすごく魅力的だとあたしは思うんだけど、すーちゃんはどうかな。すーちゃんもそう思ってくれるよね。あたしたちいつも一緒にいろんなことしてきたじゃん、すーちゃん優しいから最後まで付き合ってくれるよね!」


 そうだよね! とあたしは更に強くすーちゃんの手を引いた。もう全部どうでもよかった。あたしの秘密も、颯葵さんの秘密も、クソ親父が作った地獄すらも。今ここですーちゃんと永遠に一緒になれるなら。あたしの秘密なんか知らないままでいい、あたしが墓場まで持ってってやるんだ、すーちゃんと一緒の墓場まで! そうでしょう?


「…………………………京子」


 すーちゃんは無表情だった。あたしにはその意味がちっとも分からなかった。こんなにも魅力的な選択肢の前で、どうしてそんな顔ができるの? すーちゃんだって同じ地獄にいるはずでしょう? なら今ここで終わりにしようっていうのは悪くない選択肢のはずで、あたしのこと唯一無二の親友だと思ってくれてるならそれも悪くない話だと思うんだけど!


「手、離して」


「嫌だよ! このままずっと繋いでてよ! ああでも繋いだままフェンス乗り越えられないか、じゃあ一回離そっか!」


「違うよ」


 すーちゃんは相も変わらず表情ひとつ動かさなかった。そしてその声は酷く冷淡だ。

 昂っていた感情が、少しずつ降下していくのを感じる。


「なんで、なんでそんなこと言うの。すーちゃん、あたしのこと嫌いなの?」


「バカなこと言わないで。好きに決まってるでしょ」


「じゃあどうして」


 すーちゃんの表情がやっと変わった。呆れたような顔だった。大きくため息をついて、あたしの手を引くと無理やり座らせた。


「あのねぇ。本当にハッピーエンドだと思ってるなら、どうして泣いてるの」


「え?」


 すーちゃんに言われて初めて、あたしは自分が涙を流していることに気がついた。どうして? 望んだはずのことなのに。


「なんで、あたしはそんな」


「何も言わなくていいよ。私に言えないこと、言いたくないこと、何も言わなくていい。私は京子が一緒にいてくれるだけでいいの。今まで通り、くだらない話にでも付き合ってくれればそれでいいの」


 そう言うとすーちゃんは、あたしのことを優しく抱きしめた。


 すーちゃんが何まで知っていてそんなことを言うのか、あたしには分からなかった。もしかしたら全部バレているのかもしれない。あたしのことも、颯葵さんのことも。クソ親父に散々怒られたこと……は、殴られた頬にガーゼを当てているから知っているかもしれないけど。


「ごめんね、すーちゃん、あたし酷いこと言ったね、本当にごめんね」


 気づけばあたしは子供みたいに泣きじゃくっていた。すーちゃんに縋りついて、生まれたての赤ん坊のように泣いた。


 思えば「あたし」の自我はまだ二歳と数ヶ月、これくらい泣いて甘える権利はあったはずだった。本当に二歳と数ヶ月の頃に許されなかったそれは、今あたしが「あたし」になったことでやっと許されたのだ。



 あたしは「あたし」でいることを諦めたくない。


 何度クソ親父に殴られたって、あたしの自由だけは壊せないんだ。






 大丈夫、あたしには、あたしの秘密を守る限りすーちゃんがいる。

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