Ⅹ-嘘と崩壊



 秘密というのは距離だ。言えない秘密の分だけ、絶対に埋まらない距離がある。溝と言ってもいい。


 その溝が見えないように、相手の前に壁を立てる。これが嘘だ。


 あたしの「嘘」に対する持論はこんなかんじ。颯葵さんに心の器の話をしたけれど、あれは自分を欺く嘘のことだ。自分にも他人にも見えないように心を覆ってしまう、不透明な器の話。で、さっきの壁っていうのは、相手を欺く嘘のことだ。


 嘘の壁は脆い。一箇所が崩れれば他も崩れ、だいたい全部が壊れるのがオチなのだ。



 あの脱走の翌日、あたしは学校を休んだ。仮病? いいや、そんなのはあたしの両親が許さない。まずあたしは、ケータイでクラスメイトにメールを飛ばした。『悪いんだけど、あたしの親のフリして今日学校休むって先生に電話してくれないかな』……普段ならこういうとき頼りたいのはすーちゃんだけど、そのすーちゃんと気まずくて休もうっていうんだから仕方ない。あたしは瑠美ちゃんという子にメールをした。瑠美ちゃんは時折学校に来ないから、その辺のやり口は心得ているんじゃないかな、と思ったのだ。


 瑠美ちゃんからは『任せて。私の声だとバレるかもしれないからカレシに電話させるね』と返ってきた。そういえば瑠美ちゃんは校外にカレシがいるんだっけ。心強いことだ。


 さて、学校への対策はできた。次は家への対策だ。あたしは制服に着替えてカバンを持ち、いつも通りの時間に家を出た。そして上手いこと近所のショッピングモールへ行き、トイレの個室に篭もる。平日の昼間からその辺をふらふらして、補導されてはたまらないからだ。颯葵さんを頼ることも考えたが、今は彼女と会う気にはならなかった。


 すーちゃんと颯葵さん、二人と同時に気まずくなると、あたしは簡単に一人ぼっちになった。


 狭い個室で六時間を耐え忍ぶと思うと、今から気が狂いそうだった。でも学校に行くよりはマシだ。もうすーちゃんに秘密を抱えるのは限界だと思った。これ以上、あたしはすーちゃんに──誰よりも想った大事な人に、壁を作り続けることなんてできない。壁どころか、本当はすぐにでも彼女を抱きしめてしまいたいのに──こんな壁があったのでは、直接触れることすら叶わない。こんなことはもう御免だ。


 あたしは1999年に一度死んだ。2000年に生まれ直して赤ん坊だったあたしは、はじめて見つけた好きな人を、親か何かだと思い込んでしまっているらしい。嫌われては、見捨てられては生きていけない。そんなことになったら、今度こそあたしは死んでしまう。


 そんなことをぼんやりと考えて、一体どれくらい時間が経っただろう。ケータイが震えて、あたしは我に返った。


 瑠美ちゃんからのメールだった。


『学校終わったけど、先生特に怪しんだりしてなかったよ!』


 もう六時間が経ったのか。あたしは立ち上がり、ふらふらとトイレを出た。空気の悪い場所にずっといたからだろうか、心なしか頭が痛い。とにかく今日は何事もなかったかのように家に帰って、明日は何事もなかったかのように登校しよう。そう思った。


 ──甘かった。


「ただいまぁ」


 あたしはいかにも「あぁ〜今日も学校疲れたなぁ」というような声音を意識して、そう言った。平常心、平常心だ。人を騙すにはまず自分から、あたしは今日ちゃんと学校に行った。そう思い込むことが大事だ。


 なんて。


 あたしは少し、油断をしていたみたいだ。


「今日は早いんだな。京子」


 視界の端が仁王立ちの影を捉えた。瞬間、あたしの身体は凍りついたように動かなくなった。


 二日も連続でこんなに心拍数が上がっては、きっと体に悪い。ああ、でも昨日より速いな。全身の穴という穴から、冷たい汗がぶわっと吹き出るのが分かった。気道が綿を詰めたように狭まって、呼吸が浅くなる。


 1999年に一度死んだ? バカな話だ。長年染み付いた恐怖心は消えない。こんなに震えて、本当に情けないことだ。人は恐怖に支配されると、まず手先足先から力が入らなくなる。心臓を動かすので忙しいからだ。そんでもって凄い量の手汗をかくので、手に持っているカバンが滑り落ちる。ピタゴラスイッチの完成だ。


「…………お、父様。ただいま、帰りました」


 ガラスを引っ掻くよりもか細い声だったと思う。蝋燭の火も揺れないような息の音を、絞り出すので精一杯だった。


 何がバレたのか? なぜバレたのか? そんなことはどうでも良かった。何であろうとこれから起こることは変わらない。『一箇所崩れたら全部崩れるからね、嘘ってのは』という颯葵さんの言葉を思い出した。すーちゃんへの嘘が崩れかけた今、親父……否、お父様への嘘も連動して崩れるのは、当然といえば当然なのかもしれない。



 明日頬にガーゼの一つでも当てていけばすーちゃんが同情して許してくれないかな──なんて、あたしはそんなバカなことを考えた。

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