Ⅸ-秘密と崩壊



 あれからしばらく、あたしと颯葵さんの密会は続いた。すーちゃんのいない時を狙って颯葵さんは現れる。通学路で待ち伏せているのだとしたら相当暇な人だ。あたしはは自分の恋心と颯葵さんとの密会のこと、すーちゃんに対する二つの秘密を守り続けた。そして言わずもがな、すーちゃんと遊んだり颯葵さんと会ったりする寄り道のことは、親父に隠し通していた。


 しかし、秘密や嘘はいつか破綻するものだ。少なくとも物語の中では、そういうものだと相場が決まっている。



 ──その事件が起こったのは、高校二年生も終わりかけという頃だった。


「姉さんがね、来年から専門学校へ行くんだって。学費が貯まったみたい」


 いつもの場所でお弁当を食べながら、ふとすーちゃんがそう言った。


「へぇ、颯葵さんが! それはめでたいね。頑張ってたもんねぇ」


 あたしはその日、少しだけ寝不足だった。昨晩クソ親父が早めに帰ってきたから、あたしは親父のありがたい説教を聞いてから寝なければならなかったのだ。学業学業って言う割に、親父の説教がいちばん学業を妨げているんだけどな──なんて、あたしはそんなことを思いつつ、素数を数えてどうにかその時間をやり過ごした。


 ──そう、寝不足だったのだ。だから少しだけぼーっとしていて、少しだけ適当に返事をしてしまった。


 颯葵さんのことをめでたいと思ったのは本当だった。颯葵さんが頑張っているところを、あたしも多少は傍で見ていたから。専門学校との両立でこれから忙しくなって、もしかしたらしばらく会えなくなるかもしれないなぁ──などと、呑気なことを考えていた。


「…………、『颯葵さん』?」


 すーちゃんの怪訝そうな声。

 ──愚かなことに、あたしはその時やっと自分の過ちに気づいたのだ。


「京子に姉さんの名前、言ったことあったっけ。っていうか京子、姉さんのことそんなふうに呼んでたっけ?」


「いや、それは……その」


 あたしは颯葵さんを、すーちゃんの前では「お姉さん」と呼んでいた。颯葵さんと出会う前はそう呼んでいたし、出会ったからといってすーちゃんの前で急に呼び方を変えるわけにもいかなかった。そのあたり、あたしは今まで細心の注意を払ってきたはずだったのだ。


 心臓が早鐘を打つ、とはこういうことを言うのだろう。体の中で鼓動が跳ね回っている。血液の流れがあたしを内側から打ちつけている。

 いま口を開いたら、喉から心臓が飛び出してしまう。


 すーちゃんに嫌われたくない。


「あっ、もしかして面識とかあったりする? 姉さん、京子に会ってみたいってずっと言ってたからさ」


 真っ白になる頭の片隅で、颯葵さんの言葉を思い出す。「嘘の極意はたったの二つね。一つは可能な限り真実に近づけること。そしてもう一つは、絶対に崩れない範囲でだけ嘘をつくこと」──そうだ。そうなのだ。あたしの秘密は二つだけ、すーちゃんへの恋心と、颯葵さんのと密会のことだけだった。たった二つの秘密すら守り通せず、いま全部が壊れようとしている。あたしは、颯葵さんに嘘が下手なんて言える立場じゃなかった。


「あの……すーちゃん、違くてね」


 絞り出した声はあからさまに震えていて、嘘にすらなりきれない。


「違うの?」


 違くない。何も違わない。


 どうしてこんなことになったのだろう。あたしはただ、すーちゃんが好きで心配だって、ただそれだけだったのに。どうしてバレたらすーちゃんに嫌われるような、そんな秘密を抱えることになったんだろう。どうしてすーちゃんに隠れてすーちゃんのお姉さんと会ったりしなきゃいけないんだろう。別に颯葵さんとあたしが知り合いでも、困ることなんてないはずだ。


 答えは簡単だった。颯葵さんと秘密を共有してしまったからだ。颯葵さんの本当の仕事を隠すために、あたしは颯葵さんとの関係を隠さなきゃならなかった。


 颯葵さんのせいだ。颯葵さんが悪いんだ。あたしの膨れ上がって歪んだ心が言っている。頭では違うと分かっているのに、あたしの身勝手で我儘な心は確かにそう言っているのだ。


 ──颯葵さんさえ、いなければ良かったのに。


「すーちゃん、ごめんっ」


 気づけばあたしはお弁当箱を置いて、階段を駆け下りていた。教室に駆け込んで、ひったくるようにカバンを取った。昇降口まで走って、走って、とにかく走った。他の生徒にぶつかってもお構いなしだ。息が上がって視界が狭まる。転げ落ちるように階段を下って、滑り転ぶように廊下を曲がる。やっと走るのをやめた時、あたしは公園にいた。すーちゃんとも学校帰りによく来る、通学路にある公園だ。


 すーちゃんは追ってこなかった。すーちゃんは学校の外まであたしを追ってくる度胸なんてないから、校外に出てしまえば逃げ切れると分かっていた。早退についてはすーちゃんが先生に上手く言ってくれるだろう、という甘えた期待をこの期に及んで持っているあたり、あたしは本当に愚かだった。




 あたしの嘘が、崩壊を始めている。

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