Ⅶ-孤高と歌
◆
颯葵さんと会って一週間が経っても、あたしはまだあの日のことを消化しきれずにいた。
あの日、颯葵さんはあたしに言った。
「このこと、燈子には内緒にして欲しいの」
「それは構いませんけど……でも、どうしてそんなお仕事を?」
あたしの問いかけに、颯葵さんは乾いた笑いで答えた。
「高卒のバイトなんて、まともにやってたら暮らしてくだけで精一杯よ。お金貯めようって思ったらどうしても、ね」
夢とお金。対極にあると思っていたその二つは、どうやら切っても切り離せないものだったらしい。颯葵さんにこんな顔をさせるものが、あたしは少しだけ憎かった。
とにかく重要なのは、あたしはまたすーちゃんに秘密を抱えてしまった、ということだった。秘密っていうのは距離だ。絶対に言えない秘密の分だけ、絶対に縮まらない距離がある。しかもその距離があることを知っているのはあたしだけで、すーちゃんは何も知らないのだ──いつかこの秘密が嵩んだら、あたしはすーちゃんに触れることすら叶わなくなるだろうか。
あたしは親父以外に初めて秘密を持った。親しい人に対する秘密っていうのは、悲しいことだったんだとあたしは思った。親父に対する秘密は自由の象徴だったのに──同じ秘密でも、こんなにも違うものなのだ。
この秘密は、重く苦しい。あたしはすーちゃんに何もかもをあげてもいいのに、すーちゃんに何もかも話すことはできない。
「京子。それ何?」
すーちゃんの声がして、あたしはイヤホンを外した。
「ああ、これね。ウォークマンの新しいやつ」
「ウォークマン!?」
そう。ウォークマンなのである。それも、最新型──MDやらカセットやらを入れるのじゃない、メモリータイプというやつである。
あたしたちはただでさえ新しいものを知らない。あたしだって実物を見たのは初めてだった。パソコンから曲を取り込んでこのウォークマンに入れることで、ウォークマン一台あればどこでも曲が聞けるようになるという──そんな魔法みたいな代物だ。当然、決して安いものじゃない。
それを、颯葵さんがくれたのだ。「お客さんにもらったんだけど、私も実は持ってて。こんな珍しいものを被らせる日が来るとはね」なんて言っていたが、売ればいい値段になっただろう。「頂けません、こんな高価なもの」とあたしは断ったが、颯葵さんは「京子ちゃんに持っててほしいの」と笑った。「それはあげるから、代わりにまた私のお喋りに付き合ってくれないかな」と。
こんなものを家に持ち帰って見つかっては、何が起こるか分かったものじゃない。あたしは結局スクバからそれを出すことなく、そのまま学校に持ってきたのだった。
「京子、拾得物横領は犯罪だよ。一緒に行ってあげるから自首しよう」
「ち、違うよ! そうじゃなくて……これは、もらったの!」
「誰に?」
「えーっと……親父?」
「すごい分かりやすい嘘つくじゃん……疑問形だし」
まぁ言いたくないなら詳しく聞かないけど、とすーちゃんはそれ以上追求しなかった。
すーちゃんは、何だかそういうところがある。どんなに親しくなっても一定以上の距離に人を入れないし、自分が保っている距離の分だけ他人にも踏み込まない。あたしはそれを寂しく思ったりもするけれど、今回ばかりは有難かった。
「それ、何の曲が入ってるの? パソコンで曲入れるやつだよね」
「そうそう。あたしの家はパソコンなんてないから、前の持ち主の好きな曲が入ってるの。まだあんまり見てないんだけどね」
「へぇ……私も曲見たい」
「いいよ〜、一緒に見よ」
いいよも何も、もともとすーちゃんのお姉さんのものなのだから、どちらかといえば見る権利があるのはすーちゃんの方なのだが──私はすーちゃんを手招きして、ウォークマンの画面をつけた。
「渡辺……知らない人だね」
「あたしたち歌手なんて知らないじゃん」
そんな会話をしつつ、スクロールしてゆく。その渡辺という人の曲が一番多そうだった。
「聞いてみようか」
あたしはそう言って、イヤホンの半分をすーちゃんに渡した。すーちゃんと恋人っぽいことをしたい、その欲のために。
すーちゃんのお姉さんからもらったもので、あたしは何をやっているんだろう。
すーちゃんは「そうだね」と言ってイヤホンを受け取った。あたしは罪悪感で気まずくなりながらも、気にしてないふうで曲を流した。
『きっと本当の 悲しみなんて
自分ひとりで癒すものさ
わかり始めた My Revolution
明日を乱すことさ』
力強い、女の人の歌声だった。
夜の街で、雑踏の中から叫んだような──誰に聞かれることもなく、叫んだような。
これは、そういう歌だ。それでもって、これは颯葵さんのことを歌った歌だ。
颯葵さんは孤高の人なんだ。夢を追いかける代償に色々なものを捨てたから、一人で強く生きなきゃいけなくて──きっとこの曲が、一人で街を歩く颯葵さんを支えていたのだ。
そう思ったらもうたまらなくて、あたしは颯葵さんに会いたい、と思った。会って話がしたい。この人の力になりたい。
これはすーちゃんへの罪滅ぼしだ。颯葵さんはすーちゃんへの罪悪感から逃れたいんだなんて言ったけど、それはあたしも同じことで。すーちゃんが尊敬している颯葵さんの力になれたら、それは間接的にすーちゃんに許されることにならないだろうか。……って、なるわけないけど。まぁでも、こういうのは気持ちの問題なのだ。
「……この曲、姉さんが好きそう」
すーちゃんが呟いた。
何たる勘のよさ──まさにそれは颯葵さんの好きな曲た。あたしはドキドキしながらも、しらじらしく「そうなの?」と言ってみせる。
「姉さんは強い人だよ。私が逃げてきた人間関係とか親とか、そういうのから一度も逃げずに立ち向かってきたからね。……でも、あれでいて弱いところもあるから。きっとこういう曲が、姉さんに寄り添うんだろうなって」
すーちゃんはそう言って、窓の外を眺めた。歓楽街のある方角だ。あたしたちは当然、近づいてはいけないと厳しく言われている場所──ある種の憧れがないと言えば嘘になる。
すーちゃん、まさか知って──。
「……すーちゃん、さつ……じゃない、お姉さんってどこで働いてるの」
あたしが尋ねると、すーちゃんは「どうしたの、急に」と首を傾げた。
「あそこの歓楽街にある夜のお店で、店員……黒服として働いてるんだって。コンビニより時給いいって喜んでた」
え? ……夜の仕事ってそういうこと?
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