Ⅵ-夜と嘘
◆
ある日の帰り道、あたしは知らない女の人に呼び止められた。
「あなた、もしかして市杵京子さん?」
立っていたのは、随分整った顔立ちをした女の人だった。明るめの茶髪ではあるもののその髪質は絹みたいにサラサラで、熱心に手入れされていることが窺える。無地の黒いワンピースに明るい髪色が映えて、傾きかけの日の光に輝いた。その目は憂いを帯びていて、あたしに話しかけていながらどこか遠くを見つめているように思える。
綺麗な
……で、そんなにも綺麗な人が、あたしに何の用なのかって話だ。
「ええ、あたしが市杵京子です……あなたは?」
問い返すと、その人は微笑んだ。
「やっぱりそうなのね。私は颯葵──天津颯葵。いつも妹がお世話になってます。あの子と仲良くしてくれてありがとうね」
天津……天津?
「すーちゃん……燈子さんの、お姉さん?」
「そうなの。あんまり似てないよね。……ね、あなたと少し話したいんだけど、いいかな?」
「本当にドリンクバーだけでいいの?」
「夜ご飯食べられなくなっちゃいますから」
あたしとすーちゃんのお姉さん──颯葵さんは、近くのファミレスに向かい合って座った。幸いにもあたしは今日、部活があることになっている日だ。帰る時間が多少遅くなっても、部活が長引いたと言えば大丈夫だろう。
「どうしてあたしのこと分かったんですか? 颯葵さんは、すーちゃんが中学生の頃に家を出て行ったきり帰ってきてないって聞きました」
「あら、そんなところまで聞いてるの? それはびっくりね。……燈子がね、たまに遊びに来てくれるのよ。その時にいつもあなたのことを話していたし、この間プリクラを見せてもらったから何となくあなたの見た目を知ってたのよね。それに、燈子と同じ制服を着ていたから」
「そうだったんですね……すーちゃんが、あたしのこと」
お姉さんのことはすーちゃんから聞いていた。夢を叶えるために、親の反対を押し切って家を飛び出した凄い人なんだと。そして、専門学校の学費と夢の開業資金のため、アルバイトを掛け持ちしていつも働き詰めなんだと。すーちゃんはやりたいことをやりたいと言えるお姉さんを、とても尊敬していた。
「あたし、颯葵さんのことすーちゃんからよく聞いてます。お忙しいんですよね」
「ああ……うん、まぁ、そうね。そんなかんじよ」
颯葵さんは、露骨に目を逸らす。
「京子ちゃんはうちと……燈子と同じで、家が厳しいのよね。でも何だか、燈子より自由に生きているように見える」
「そうかもしれないです。あたしはすーちゃんの家と違って、厳しいのは父なんです。母は父と同じルールを課してくるけど、父の言いなりってだけだから……怒られてもそんなに怖くなくて。父の目さえ誤魔化せたらいいから、外で何かするぶんにはすーちゃんより自由かも」
「誤魔化せたら、ねぇ。お父さんが怖くはない?」
「つい最近まで怖かったです。でも、どうせあたしも親父もそのうち死にますから。自由になるの、大人になるまで待ってなんてられない」
「そう。強いのね、京子ちゃんは」
強い。……そうだろうか。あたしは自分のことをそんなふうに思ったことはなかった。すーちゃんにも話したが、あたしのこれはヤケクソに近いところがある。人に自慢できるやり方でも、人に勧められる生き方でもない。
「あたしは颯葵さんの方がよっぽど強いと思います。だって、家を飛び出す度胸なんてあたしにはないです」
「私のは強さじゃないよ。あの家に燈子を一人置いて逃げたんだから……あの子を犠牲にして、私だけ自由になったんだから」
なるほど。あたしは一気に合点がいった。
わざわざ妹の友達に声をかけ、ファミレスに誘った理由。この人は、すーちゃんに引け目があるんだ。だからすーちゃんを心配して、その引け目をどうにか誤魔化そうとしているんだ。
すーちゃんが尊敬しているお姉さんは、さぞや凄い人なんだろうと思っていたけれど。──どうやらこの人も、あたしと同じ人間みたいだ。
「……すーちゃんは、颯葵さんのことを恨んだりなんかしてませんよ」
「あら、藪から棒ね。燈子がそう言ってたの?」
「いえ。でも、尊敬してるって話してたから……すーちゃんに悪いと思ってるなら、颯葵さんが夢を叶えることが一番だと思います」
あたしがそう言うと、颯葵さんは少し驚いたような顔をした。
「あなた、聡いのね。その上優しい。燈子の友達には勿体ないくらいね」
「いえ、そんなこと……」
「本当のことよ」
颯葵さんは笑った。あたしもつられて笑おうとして──颯葵さんの表情から、目が離せなくなった。
顔立ちが綺麗な人は、憂いすら絵になるから困る。どこか悲しげな瞳は、あたしではなくきっとすーちゃんを見つめていた。
「私、燈子や京子ちゃんが思ってるような立派な人間じゃないわ」
「そんなことないですよ。すーちゃんは……」
「違うの。本当に違うのよ」
颯葵さんは首を振る。
ファミレスの喧騒に飲み込まれるかどうかの、本当にか細い、消え入りそうな声だった。颯葵さんが、あたしの耳元に口を寄せる。長い髪がさらりと肩から落ちた。
罪を吐き出すように、颯葵さんは告白した。
「働き詰めなんて嘘。──私、夜の仕事をしてるの」
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