Ⅴ-異端と普通




 その日もあたしとすーちゃんは、屋上へ続く階段でお弁当を食べていた。


「なんか今日、下の階からの声がうるさいね」


 すーちゃんがそうぼやく。


 無理もない。ひとつ下の階で女子生徒がふざけている声が、この階段にまで響いていたのだ。女子高生特有の甲高い笑い声が耳障りだし、せっかくのすーちゃんとのお昼を邪魔されているようで、あたしも少しだけ気分が悪い。


「ムーン・ヒーリング・エスカレーション!」


「リフレーッシュ!」


 階下からそんな叫び声が聞こえる。この学校には妖魔が潜んでいたのか。


「セーラームーンかぁ。懐かしいね」


 何の気なしに、あたしはそう言った。


「…………見てたの? セーラームーン?」


 やば、とあたしは思った。


 あたしたちの年頃なら、セーラームーンが懐かしい、っていう話題はそんなに変わったものじゃない。セーラームーンがテレビでやっていたのはあたしたちが小学一年生の頃だし、見ていた子も多いだろう。


 でもあたしとすーちゃんは違う。あたしもすーちゃんも家でテレビなんて見せてもらえなかったから、当然セーラームーンなんて見たことはなかった。そんでもって、周りがセーラームーンの話をしていたのにその話がちっとも分からなかったという苦い思い出を、あたしと同じようにすーちゃんが持っているのは想像に難くなかった。


「まっさか! アニメなんてあたしのクソ親父が許さないよぉ」


 慌ててそう否定してみたけど、すーちゃんの表情は微妙に晴れない。そりゃそうだ、とあたしは思った。

 確かに今はすーちゃんという友達がいて幸せだし、すーちゃんだってそう思ってくれているに違いないけれど、それでも昔の傷はいつまでも癒えないものだ。


 異端同士でそれなりに幸せをやっていても『普通』の幸せは眩しくて、どうしても苦しくなってしまうものだ。


「……ね、すーちゃんの家ってどんなかんじだったの? 教えてよ」


 すーちゃんの表情を曇らせるものを知りたかった。あたしの家とそんなに変わらないだろうけど、すーちゃんがそれをどう思っていて、どういう言葉で話すのかを知ってみたかった。


「どうしたの、急に」


「いやほら、ちゃんと聞いたことなかったなと思って」


 あたしがそう言うと、すーちゃんは「別に京子ん家と一緒だよ」と前置きしてから話をしてくれた。


 母親が厳しかったこと。テレビやゲーム、漫画といった娯楽が禁止されていて、仕方がないから勉強や読書ばかりしてきたこと。モー娘がみんな同じ顔に見えるし、木村拓哉の顔と名前も一致しないこと。同じ環境で育ったはずのお姉さんは上手くやっていたけど、自分は周りと上手く馴染めなかったこと。


 初めは努力もしたけれど、意味がなかったからやめてしまったこと。


 それは、すーちゃんがすーちゃんになるまでの経緯であり、あたしが見た「異常」を堂々とやるすーちゃんが形成された過程だった。


「……っていうかんじなんだけど。京子の家はどうだった?」


 すーちゃんが話を締めて、はっと我に返る。

「ははぁ、なるほどねぇ……うん、我が家も似たようなかんじかな」


 説明させた割に、あたしは自分の話を適当に濁す。


 すーちゃんに自分の話をするのはそんなに得意ではなかった。自分のことを話せば、いつかすーちゃんにあたしの抱える穢い感情がバレてしまう気がする。あたしの内面が知れれば知れるほど、あたしという人間がすーちゃんに相応しくないことが分かってしまう気がする。


 だからあたしはいつも、適当な概念の話を──すーちゃんの言うところの「思想」の話をして、お茶を濁しているのだ。


 すーちゃんの表情は変わらず浮かなかった。あたしはすーちゃんにタコさんウインナーをあげてみたり、適当な話を振ってみたりしたけれど、あまり効果はないみたいだ。あたしは考えた。今すーちゃんを元気にするだけじゃない、すーちゃんを苦しめるものを否定したい。すーちゃんにずっと幸せでいて欲しい。すーちゃんに害をなすもの全部、あたしが破壊してやりたい。

 ……なんて。物騒だけどね。


「……子。京子、どうした?」


 黙ってしまったあたしに、すーちゃんが声を掛けてくれていた。すーちゃんの少し心配そうな顔。あたしがすーちゃんの表情を曇らせてどうするんだ。


 あたしがすーちゃんを笑顔にする。抱く劣情の罪滅ぼしのために、その努力をし続けることがあたしには必要だ。


 あたしは立ち上がり、そして叫んだ。


「『普通』なんてちょろいよ!」


「うぉっびっくりした」


 思いついたのだ。すーちゃんの表情を曇らせる『普通』とかいう概念を、あたしたち二人で小馬鹿にしてやる方法を。これはいつかあまねく通ずる、私たちの話。言葉遊びに終始していてとても完全とは言えないけれど、それでもきっと気休め程度にはなる。


 すーちゃんには──天津燈子には、いつだって堂々と『普通じゃなく』いて欲しい。それが、あたしが好きになったあの子の姿だから。


「──ねぇ、すーちゃん。さっき、すーちゃん『普通なんてない』って言ったでしょ?」


「うん、言ったね」


「でもさ、例えばあたしたち、毎日こんなところでご飯食べてるけど──どうしてれば『普通の女子高生』なのかって、薄々分かってるでしょ?」


「それは……何、教室で机くっつけてグループでお弁当食べたり、二つ折りケータイをデコったり、放課後はみんなで甘い物を買い食いしたり、みたいなこと?」


「そうそう。スカートを膝上丈にしたり、腰にユニクロのカーディガンを巻いたり、プリクラ撮ったり」


 これらは皆、すーちゃんが遠ざけてきたものたちだ。かつては憧れていたけれど、手に入らないならいっそと見下し、バカにしたものたちだ。


 もうそれらに縛られなくていいって、すーちゃんに言いたい。あたしたちはあたしたちなりに幸せになれるって、すーちゃんに教えたい。


 ──かつてあたしが、1999年の予言にそう教わったみたいに。


「だからさ、普通ってちょろいよ、すーちゃん」


「うん、何となく京子が何を言いたいか分かってきた」


「さっすがすーちゃん。──つまりさ、『普通』が何だかあたしたち知ってるんだよ。敵の姿は丸見えなんだよ」


 そう、敵は『普通』。異端なりの幸せを曇らせる奴は、今日からしばらくはみんな敵だ。


「だから、すーちゃん」


 そう言って私は、すーちゃんの真横にすとんと腰を降ろす。そして手に持っていた弁当箱を置くと、すーちゃんの手をぱしっと取った。


 すーちゃんの目をまっすぐ見つめて、言う。


「やってみようよ、『普通の女子高生』」


「えっ」


「ずっとじゃないよ、一日、しかも放課後だけ。さすがにあたしたちが膝上丈スカートで教室に入ったら色々と不都合だし。あたしとすーちゃんでさ、あたしたちが『普通の女子高生』だと思うこと全部やるの。スカート折って、カーディガン巻いて、甘い物食べてプリクラ撮って。すーちゃんとなら絶対面白いと思うんだよね。──どう?」


 一気にまくし立てると、すーちゃんはぽかんとした顔をしていた。それでいい、深く考えなくていい。深く考えられると、『普通の女子高生』を一日演じることに何の意味もないことがバレてしまう。こんな三秒で考えた計画ですーちゃんを救おうとする傲慢さがバレてしまう。


 あたしの願いが届いたのだろうか。すーちゃんは、やっと笑顔になると、あたしの手を握り返した。


「──乗った。やろう、『普通の女子高生』ごっこ」

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