Ⅳ-お砂糖とスパイス





 違う。

 これは、違うんだ。


 生まれて初めて誰かにもらった肯定を、なにか別の感情と履き違えているだけだから。


 そもそもあたしには資格がない。今まで古今東西の流行りの恋愛ソングを、他にもっと大事なことがあるんじゃないの、なんてバカにきてきた身だから。ていうかそれ以前に同性だし。こんなことはすーちゃんに対する裏切りだ。


 こんなことがあっていい筈はない。




 ──初めてで唯一の友達に、恋をしただなんていうことは。








 天国と地獄、という有名なクラシックの曲がある。


 あたしはあの曲が運動会で流れるたびに、明るくなったり暗くなったり、なんて忙しない曲なんだろうと思ってきた。


 でも今のあたしには分かる──なるほど、どうやらこの世は天国と地獄みたいだ。


 こんなに苦しいのに、一瞬、ほんの一瞬の天国があるせいで、あたしはこの地獄をやめられない。


「京子、おはよ。辛気臭い顔してんね」


「すーちゃん」


 あたしは顔を上げる。目の前にはすーちゃんが立っていて、その姿が眩しくて、心臓が跳ねる。


「お、おはよ……今日もいい天気だね」


 何言ってんだ、あたし。天気の話なんて、今日日お見合いでもしないだろうに。

 すーちゃんは特に気にしたふうでもなく、


「そうだね」


 とだけ答えた。


 油断は禁物だ。気を抜くとつい、ワイシャツの第一ボタンの隙間だとか、制服のスカートと紺ソックスの間だとか、そういうところに目が行ってしまう。


 恋だけならまだよかった、と思う。


 あたしがまだ少女だったなら、恋と性はきっと別のところにあった。


 あたしはもう「女」なんだ──これはなんだか酷く気持ち悪いし、穢い。あたしの中から出ていってほしいのに、不可逆であることが本能みたいに分かるのだ。あたしはもう、お砂糖とスパイスと素敵なものでは出来ていないらしい。


 あたしはやっぱり恋愛ソングを好きになれそうもない。あの人たちが歌うほど、恋愛なんて綺麗でも素敵でもないし、甘やかでもふわふわしてもいないから。これはもっとドロッとした、グロテスクで間違った感情だ。恋が少女を象徴するなら、それこそお砂糖とスパイスでなどないだろう。三日三晩煮詰めて放置して埃が浮いた砂糖水に、得体の知れない香辛料を雑に突っ込んだみたいな──この気持ちは、そんな味がする。


 それでもこんなにも質量を持った、胸に占める大きな感情を抱いたのは初めてで、黒い泥の中に一片の宝石が埋まっていることがあたしには分かっていた。世にも美しい、光を放つ宝石。それはあたしの心の中でともしびになった──その光が指す方向に進めば、あたしは絶対に間違えないという確信があった。


 ちゃんちゃらおかしな話だ。こんな気持ちを抱いている時点で、全部が間違っているのに。


「すーちゃん、今日の放課後カラオケ行こうよ」


 あたしはよく、放課後のすーちゃんを遊びに誘った。すーちゃんの家はあたしの家と同じくらい厳しくて、放課後に遊びに行く時は文芸部をサボることで時間を確保しているのをあたしは知っていた。そんなに厳しい部活じゃないし、集まっても執筆以外にすることないから──なんてすーちゃんは言うけれど、こうも頻繁では先輩だってよく思わないだろう。


 これは悪意だ。未成熟で青臭くて最低な、でもそれ以上に最低な感情を隠すための、悪意。


「カラオケかぁ……京子、カラオケで歌える曲なんてあるの」


「うぐっ」


 そう。家が厳しいあたしたちは、コンテンツに触れる機会が極端に少ない。歌番組も見られないし、CDもまともに買えたことがない。だから実はカラオケのレパートリーなんて、ない。


「そういうすーちゃんはどうなのさ! ちなみにあたしはないけど」


「私だってないよ。誰も幸せにならない遊びじゃん」


「うぅ……」


 間違いない。


「じゃあ……本屋とか行く?」


「私はいいけどそれ京子楽しいの? 本読まなくない?」


「すーちゃんほどじゃないけど一応読むよ」


「そうなんだ」


 これは本当。本は図書館で借りられるし、一番手軽で怒られなくて安上がりな娯楽だ。あたしたちみたいな人類の強い味方なのである。


「……まぁいいや。とりあえず文芸部に一言断ってから行くから、いつもの下駄箱ん所で集合しよ。どこ行くかはその時決めればいいよ」


 そう言うと同時に始業のベルが鳴って、すーちゃんは自分の席に戻っていった。あたしの席から少し離れていて、あたしの斜め前の方──授業中にその姿をこっそり眺めるには、もってこいの配置。


 すーちゃんは、授業中にいつも小説を書いている。


 机に堂々と原稿用紙を広げていても案外先生にはバレないもので、すーちゃんのシャーペンは五十分間忙しなく動いている。たまに見回りをするタイプの先生の授業があると、すーちゃんは退屈そうに窓の外を眺めている。でもその視線の先には確かにすーちゃんの物語があって、頭の中では次の授業中にどんなお話を書くか考えているに違いないのだ。


 そんでもってすーちゃんは、休み時間にはその手を止めてあたしのところに来てくれる。


 教師でも止められないすーちゃんの手を止めるのがあたしであること、すごく嬉しい。この上更にすーちゃんのトクベツがほしいなんて、あまりにも強欲な話だ。

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