3場
最初に動いたのは原だった。斧を構えて葵に向かって突進していく。
葵が叫ぶ。
「なんであたし⁉」
同時に葵は、消火器の握りから安全ピンを外していた。斧を構えて迫ってくる原に向かって、ホースを振り回して消火液の霧を吹き掛ける。
あたりが一瞬で濃霧に覆われたように、ホワイトアウトの様相に変わる。その白い空気の中から、葵の首筋に斧が振り下ろされる。
葵の手から消火器が落ちる。
「なんで……あたしに……?」
原が消化液で濡れた顔を突き出し、笑う。
「消火剤なんて、目をつぶって息を止めれば怖くない。それに、お前、貯金、すっからかんなんだろう? 楽にしてやるよ」
原はいったん斧を引き、もう一度力を込めて葵の頸動脈を断ち切った。斧を抜くと、葵の首筋から鮮血が吹き出して原に降りかかる。
消化液の霧が晴れ、原の全身が姿を現していく――。
そこに立っていたのは、鮮血を浴びて血染めの斧を構えた殺人者だった。
亜佐子が震える声を絞り出す。
「まさか……殺したの……? 本当に……?」
振り返った原は無表情だ。
「こうするしかないっていうのが一致した意見だろう? これで1人減った。さあ、あんたたちはどうする? 俺は金が欲しい。あんたたちは金を持っている。交渉の余地はあるかもしれないぞ」
亜佐子が宗像の顔色を伺いながら、おもねるような声を出す。
「お金ならどうにでもするわよ。何でも条件を言って」
「ま、あんたがそういうのは分かってたけどな」
そして原の視線が宗像に向かう。
宗像は原を見据えて言った。
「もう答えは出した。最後の新作のために命をかける。亜佐子にもお前にも、奪わせはしない。アイザワには何があろうと渡さない」
「ってことは、武器は捨てないんだな」
亜佐子が金切り声をあげる。
「あなた、早まらないで!」
宗像が亜佐子を冷たく見つめる。
「もはや妻でもないお前の言葉を考慮する必要はない」
「そんな……」
原が宗像をにらんで動きを牽制しながら、斧をテーブルに置く。
「なら、次はお前だ。幼馴染だからって、甘くみるなよ。その分、積もり積もった恨みもあるんだからな」
さらに広げられないままテーブルの隅に放置されていたテーブルクロスを取る。宗像と亜佐子が呆然と見つめる中、ピッチャーの水をテーブルクロスにかけて葵の返り血と消化液を丁寧に拭っていく。
宗像がつぶやく。
「この後に及んで身繕いか……?」
「血糊やらなんやらで手が滑ったら実力が発揮できないからな」
そして斧の血も入念に拭き取ってから、構え直す。ゆっくりとテーブルを回って宗像に近づいていく。
宗像がスタンドのポールを突き出しながら答える。
「私を殺して、亜佐子と手を打とうって魂胆か。この女を甘く見るなよ。喰い殺されるのは、たぶんお前だ」
「そんなことは承知の上だ。だが、こっちはもう人を殺してる。いつだったか、あんた書いてたよな。『一度殺した人間は、二度とできなくなるか、何度でも殺せるかに分かれる』って。さて、俺はどっちだろうな。あんたを殺せれば、それがはっきりする。あんたが怖がるこの女にも、間違いなく理解できるだろう」
亜佐子も火かき棒を体の前に構えながら、それでもさらに退いていく。
「何よ、2人とも……やめてよ……」
原は宗像ににじり寄りながらも、亜佐子の目を見つめる。
「ほんと、おっかない目をする女だな、怯えたような声を出しながら、計算してやがる。亭主が死ねば俺をたぶらかして、隙を見てその棒でブッ刺す。万一亭主が生き残ったら、アイザワを裏切って新作を出すと騙して、やっぱりブッ刺す。ま、そんなところか、欲深の尻軽女が考えることは」
宗像が不意に皮肉っぽい笑みをもらす。
「同意見だ。お前も亜佐子の本性が理解できてるようで、安心した。ならば、どちらが生き残っても西田君の新作はアイザワには渡らない。それで満足するしかなさそうだな」
「よほど大事なことらしいな」
「言ったろう? アイザワには許せない恨みがある。奴らはかつて、妻を追い詰めた。他社に義理立てする私に業を煮やし、何がなんでも次の新作を奪おうと躍起になっていた。私を守るために間に立った妻に取り入ろうと策を弄し、うつ病にまで追い込んだ。妻が自殺したのは、そのせいだ」
「前の女房のことがまだ忘れられないのかよ」
そう言い放った原は、不意に宗像に向かって突進した。斧を振り上げる。
宗像が叫ぶ。
「不意打ちか!」
同時に原に向かってポールを突き出していた。
原はそれを予期していたかのように、ポールに斧を打ち下ろす。だが、一気に走ったことで床に散っていた花瓶の水滴が跳ね上がって足元を濡らしていた。
宗像は床の水たまりに、ポールの先を突っ込む。
原が奇声をあげる。
「ぎゃ!」
スタンドの先端から放たれた電流が水たまりを伝って、原の全身を走り抜けたのだ。一瞬、原の動きが止まって、重さで斧の先が下がる。
その隙に、今度は宗像が突進していた。ポールを水たまりの外に捨て、左手で握った花瓶の破片の後ろに右手を添える。そして原に体当たりしながら、心臓をめがけて破片を押し込む。
原は仰け反りながら斧を振り上げた。刃先が下を向いていたために、その背が宗像の脇腹を殴打する。
宗像はおもいきり後ずさって壁際に尻餅をついた。
花瓶の破片は、原の心臓に突き刺さったままだ。
原はその場で崩れるように両膝をつく。宗像をにらんで言った。
「お前……水をぶちまけるために……花瓶を……」
宗像も脇腹を押さえて苦しげに答える。
「当たり前だ……」
「くそ……作戦負けかよ……」
「真正面からぶつかったら、いかにも分が悪いからな……。ジジイだとはいえ……こういう小技はお手の物だ……。これでもミステリー作家だからな……」
「痛えな……」
「こっちも、あばらが折れたかもしれん……」
原が、胸の破片を抜こうとする。
「邪魔だな……こいつ……」
「抜いたら……死ぬぞ……」
「だから抜くんだよ……。どうせ俺が死ぬまで……助けは呼ばない気だろう……? たとえ今……助けが来たって……間に合わない……。痛えまま……耐えても意味が……ない……。そんなのは……嫌だ……」
宗像は止めようともしなかった。
原が狼の遠吠えのように叫び、胸の破片を引く抜く。同時に、大量の血が噴き出し、胸をぬらぬらと光らせる。
原は宗像に向かってなぜか笑いかけると、前のめりに倒れた。その下に、血だまりが広がっていく……。
宗像は荒い息を繰り返しながらも、這うようにして原が落とした斧を拾い上げる。苦しげな表情の口元には血が滲んでいる。それでも座ったまま斧を構え、亜佐子を見上げた。
「私も殺すのだろう……?」
2人の男の争いを呆然と見つめていた亜佐子が、我に返る。
「なんで、こんな殺し合いを……?」
「理由は君が一番知っているんじゃないか……? ここで死んでいった者たちは、みんな君の欲望に振り回されて袋小路に追い詰められたんだ……。強欲という名の伝染病……みたいなものだ。1人、西田君だけは自分を失うまいと抗ったが、彼もまた常識で測れば狂った男だ……。狂気には、それにふさわしい終焉しか用意されていない。さて……君の狂気にふさわしい結末は、いったいどんなものだろうな……」
亜佐子の目には計算高い光が戻っていた。
「わたしも狂っているって言いたいの?」
「一番狂っているのは……当然、君だ……。君自身は気づいていないのだろうがね……。それこそが、君の本性を物語っている……」
「いいわよ、狂人なら狂人で。わたしは自分の全てを使ってのし上がろうとしただけだけど。これでも、下積みの経験は長いのよ。売れないアイドルなんて、成金どもの遊び道具みたいなものだもの。いくら見た目が良くても、頭が良くても、適当にあしらわれて終わり。いえ、頭がいいからこそ、見えちゃうものがある。だから、疎まれて排除される」
「あの事件の……ことか……?」
「言ってもいない陰口を吹き込まれた仲間に襲われ、『フランボワーズ』は霧散……。センターのカスミンはアイドル界から消え去った。自殺したメンバーまで出たのよ。わたしには何の責任もないのに、結果的に業界からはじき出されたのはわたし1人だけ……。あなたには感謝してるのよ。やっと逃げ込める居場所が手に入ったと思ったら、そここそがわたしの才能の全てを活かせるパラダイスだったんですもの」
「私も感謝しているよ……。落ちぶれて忘れ去られるしかない作家に……もう一度夢を見させてくれたんだからね……」
「本当に?」
「本当だ……。ただし、感謝はしているが、腹の底から憎んでもいる。なぜだろうな……思いがけずに日の当たる場所に戻れたのに、苦痛ばかりが膨らんでいった……。西田君がよく言っていたっけ……脳味噌をかきむしりたくなる、って……。たぶん、似たような気持ちなんだろう……。ほんのしばらくでいい……私は何も考えずに休みたかったんだ……。だがお前は……それを許さなかった……だから、憎いんだ……」
亜佐子は微笑んだ。
「でも、感謝もしてくれているのよね?」
「嘘じゃない……。人間というのは……本当に厄介なものだ……こんな歳になっても、何がなんだか、まるで分からない……」
「だったら、憎まれたことは許してあげる。それと、感謝してくれた分は、お返ししてね」
「お返し……?」
亜佐子は微笑みを絶やさないまま宗像に近づき、角に追い詰めていく。両手で握った火かき棒を振り上げ、先端をその胸に突き立てた。
「わたしのために、死んで」
宗像もまた、苦難からの解放を歓迎するように微笑んでいた。
「ああ……好きに……しろ……」
亜佐子は再び表情を失った。だがその腕は正確にプログラムされたロボットアームのように、火かき棒を抜いてはまた刺すことを繰り返す。
何度も、何度も……。
と、不意に笑みを浮かべた宗像の表情に気づいた。光を失ったその視線は、亜佐子ではなく、その背後に向けられている。
宗像に火かき棒を突き立てたまま、亜佐子は振り返った。
西田の死体を閉じ込めたはずのキッチンのドアが開いていた。
そしてそのドアの前に、死んだはずの西田が立っていた。
冷酷に夫を刺し殺す妻の姿を、スマートフォンで撮影しながら……。
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