第12話 それぞれの思い ①

 夜が明けた。

 ゆっくりと温かみの増す空気が、一日の始まりを告げる。きっと今日は、長い一日となる。

 奈津は、隣にそびえたつホテルを見上げる。カラスに追われて逃げるように避難した川沿いのホテル。持ってきたものや備蓄品でなんとかやりくりしてきたが、もはや限界だった。

 藁をもつかむ思いで食糧探しに出かけたときに見つけた自衛隊の車両。きっと無線があると思って助けを求めたが、それが自分たちの首を絞めることになってしまった。

「ごめんね。私のせいで、こんなことに」

 隣でまだ眠っている娘の頭を労わるように撫でる。この子だけは、絶対に守る。

「仕方ないよ。どうせ限界だったんだから。それに、あんたの先輩って人、来てくれるかもしれないんでしょ」

 奈津の隣で、京香が気を遣って慰めてくれる。京香は保育園のママ友で、一緒に避難してきたが、ずいぶん助けられた。

 そう、要さんが生きている。助けに来てくれる。これほど心強いことはなかった。

 奈津の前から要が消えたのは7年前。理由も言わず、一方的に別れを告げられた。あれだけ愛したのに、愛してくれたのに、どうしてと、何も考えられず、恨んだりもした。

 今ではわかる。奈津が要を無条件で信じていたのが、要を追い詰めていたことに。あの人が、何に悩んでいたのか、理解しようとしなかった。一緒に背負うことができなかった。それは本当に信じていたのか、信じるという自分に酔っていたのではないか。この人は私のものだと、間接的に主張したかっただけなのかもしれない。

 そしてそれは見透かされていた。私に悩みを背負わせるようなことはしなかった。そして、私もそれに甘えた。

 要さんは、自分のことならどんな暴言にも耐えることができるのに、あの優しい人は、私が孤立して傷つけられていくのが我慢ならなかったんだ。そして、一番簡単な方法を選んだ。

 逃げないでよ。ちゃんと話してよ。どれだけそう思ったかわからない。私は、そんなに強くないんだから、言ってくれないとわからないのに。

 あの人の優しさに気付いた時は、すでに遅かった。黙って出て行ったことが、私を守ることに繋がっていたことが、後になってわかった。あんな目にあってまで、最後まで私のことを考えてくれていたんだ。

 あの人の声。私も忘れるわけない。私をちゃんと覚えていてくれた。待ってろと言ってくれた。嬉しかった。

 無線で気付かされた私たちに迫る危機。助けがいつになるかわからないけど、それまできっと耐えてみせる。今度こそ信じます。私も戦いますから。

「まーま?」

 娘が目を覚ましてのそのそと動く。まだ眠たそうにまぶたを擦っている。母の不安を感じ取ったんだろうか。はは、母さん失格だな。

「大丈夫よ、ゆーな」

 ゆっくりと娘の頭を撫でると、奈津の腕をぎゅっとしてくる。その体温が心地良い。

 この娘は絶対に守る。夫との間の大切な宝物。

 先輩、待っています。強くなった私を見てください。

 

 午前九時。カラスの鳴き声が轟く中に車の音が聞こえた。奈津たちに緊張が走る。助けが来たのか、それとも、私たちを蹂躙しに来たのか。

 車から降りて来たのは、迷彩服を着た男。

「皆さん、助けに来ました。食べ物と水、持ってきました。もう大丈夫です!」

 男がホテルに向かって呼びかける。仲間の男が重そうな段ボール箱をおろす。水だ。喉から手が出る程欲しかったもの。水道が壊れてから、出来る限り節約してきたことで、最低限の量しか飲んでいない。

「水よ、行こう!」

「待って! もう少し、様子を」

 奈津は飛び出して行こうとする京香を止める。水が欲しいのはやまやまだけど、ここは見極めなければいけない。

「奈津さん、佐伯基地の先輩から頼まれてきました! もう大丈夫ですよ!」

 誰も出てこない状況に、男が安心させるように優しい声で呼びかける。

「ほら、佐伯からだよ。奈津、行こう」

 京香は安堵した表情で出て行こうとするが、その手をがっちりとつかみ、首を横に振る。

 奈津は、無線での会話を反芻する。私は最初、佐伯駐屯地が応答した時、佐伯基地って間違えて言った。駐屯地はちゃんと訂正してくれたけど、後から割り込んだ広沢基地を名乗る偽自衛官は、そのまま佐伯基地と言い続けた。つまり、佐伯駐屯地の無線は、奴らには聞こえていないのだ。

 そして、要さんは「俺が迎えに行く」と確かに言った。そこまで言い切った人が、あっさりと人に任せるものか。約束の重みを、誰よりも知っている人が。あの人をなめるな。

「京香、佐伯にあるのは駐屯地って言うの。あいつらはニセモノ。気を付けて」

 その言葉に、京香の顔が青くなる。自分たちを追い詰めようとしている狡猾な罠の恐ろしさに、震えが止まらなくなった。

「あいつら、ホテルに入った」

 男が二人、業を煮やしてホテルに入っていった。ホテルは八階建て。下から順に探していくと、十分ほどで最上階まで達するだろう。ここが見つかるのも、時間の問題だ。

 ドンッ! 数分も経たないうちに、銃声が聞こえた。

「ひっ!」

 その暴力的な音に、女性たちは震えあがる。

「あいつら、鍵を壊している!」

 ホテルの部屋にかかった鍵を、乱暴なまでに効率的に開けて行っているようだ。あんな奴らに捕まったら、何されるかわからない。まずい。思ったよりも時間稼ぎは出来ないみたいだ。

「京香、ゆーなをお願い」

「ちょっと、奈津!」

「きっと、助けは来るから。それまで耐えていて」

 奈津は娘を託すと、慎重に裏手から出て行った。

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