第11話 決意 ①
明菜は久保が立ち去ってからも呆然としていた。
笹川事件。誰かが勝手につけたその名称に、明菜の忌まわしい過去が蘇る。
あの暗い部屋。あの男に預けられてからの生活は地獄だった。暴力を振るわれたわけでも、嫌らしいことをされたわけでもない。何もされなかったのだ。食事も世話も、何もかも。話しかけてもタバコをふかして冷たい目で一瞥するだけの男。男がいない時に、パチンコの景品で持ってきたお菓子と水道の水で命を繋ぐしかなかった。悠人がいなければ、心まで壊れていただろう。
どうしてあたしたちが、こんな目に遭っているのか分からなかった。小さい頃の両親の記憶が朧気ながら残っていたのが、せめてもの救いだった。愛されていた時の記憶。父さんがいなくなってしばらくして、あの男と再婚した時、すべてが狂った。母さんが一生懸命働いているのに、遊び呆けて怒鳴り散らす男。母さんが耐えきれず逃げるように出いていく時、小学校に通う兄妹もお荷物になっていたようだった。理由もわからないまま、あの男に預けられた。
捨てられたと思った。
どうして、この男と一緒にいるのだろう。家族でもなんでもないこの男と。小学校ではたくさんいた友達も、洗濯しない服になった途端、離れて行った。あたしもハルも、きれいな服を着て学校に行きたかったのに。お風呂場でごしごしするのが精いっぱいだった。
二か月もすると、男から「転校しておいたから学校に行くな」と言われた。意味がわからなかった。そして、部屋から出れなくなった。
ハルもあたしも、男に「出して」と訴えた。どこかに出て行った時には、必死に出ようとした。大声を出したり、ドアを叩いたり。廊下を誰かが通る気配がする度に絞り出した「助けて」という声は、誰にも届かなかった。誰も受け取ってくれなかった。
そして男も帰って来なくなった。食べる物もなく、熱気のこもった部屋の中で、ようやくこの世界には希望なんてないのだと悟った。あれだけの声が、誰にも聞こえないはずがない。それはつまり、他人は見て見ぬ振り、自分たちを助けてくれる人はいないという意味だと。子供でもわかることだった。
世界から見捨てられたあたしたち。何か夢でも見ているような、自分のことでないような感覚になってきた。これは悪い夢なんだ。きっといつか――覚めるはずもなかった。
そんな中でも、ハルだけは必死に声を上げ続けていた。あたしがしゃべる気力を失ってからも、話しかけ続けてくれていた。熱を出してからも、ハルは水をかけて熱を冷ましてくれようとしていた。
もういいよ。ハルだって弱っているよね。
お兄ちゃん、ありがとう。
薄れゆく意識の中、誰かが手を握ってくれたような気がした。そして、明菜の意識は途絶えた。
気が付いた時には、ベッドの上で寝ていた。ハルも一緒だった。ハルが手をぎゅっと握ってくれた時、ああ、生きているんだと思った。嬉しくもないのに、涙だけが流れていた。
こんな世界、無くなってしまえ。そう願っていたはずなのに、ハルの泣きじゃくっている顔を見ると、ハルがいるなら生きているのも悪くないのかなと思えた。ハルだけはあたしを見ていてくれる。一人じゃないって実感できた。
施設の人は優しかった。
ようやくご飯が食べれるようになって、体も問題なく動かせるようになった。人間不信になっていた明菜は、不愛想でひどい言葉も投げつけたが、施設の小林さんは、腫れ物のように扱わず、ちゃんと叱ってもくれた。叱られる度に反発もしたが、本気で向き合ってくれていると感じたことで、次第に心もほぐれていき、笑顔も戻ってきた。
その小林さんがあたしたちに特別につくってくれたおでん。三人であったかいおでんを食べた時、やけにほっとする味だった。ああ、家族ってこんなのかなと思うと、涙がどんどん出てきた。そうしたら小林さんは、ハルとあたしに、これ以上にないプレゼントをくれた。
こんな世界も悪くない。そう思えた。
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