第10話 記憶の箱 ④
瀕死の子供が発見されたこの異常な事件は、マスコミも大きく注目した。
捜査員の士気は高かった。否認しようが証拠は揃っている。あとはアパートの住民から証言を集めるだけ。
捜査は順調にいく。誰もがそう思っていた。
しかし、アパートの聞き込みに入った捜査員達がことごとく住民から聞かされた言葉は、
「声も聞いたことがない。子供がいたなんて知らなかった」
というものだった。沖村と同行した管理人、当時隣の部屋に在宅していた者でさえも。
溶接された部屋に閉じ込められた兄妹。彼らはその間、助けを求めることはなかったのだろうか。否。彼らは声を出し、音を出し、幼いながらも考えつく手段で、必死に助けを求めていた。
しかし住民たちは、面倒ごとになるのを避けるため、男から報復を受ける可能性を憂慮したため、様々な理由で、その声に気付かなかった振りをした。その団地に住む、四十人あまりの人々が。そんな住民たちのところに巡回にやってきた沖村のとった行動は、まさにパンドラの箱を開けたようなものだった。住民たちにとっての災厄だった。
そんな住民たちが、今回のことで結束した。卑劣で狡猾なまでに。助けを呼ぶ声など聞こえなかった。皆が聞こえていないのだから、私が聞こえなくても仕方がない。
マスコミが大きく注目したことが、かえって災いとなった。この団地の住民に取材が行われた際にも、一貫して声は聞こえなかったことを主張した。「あなたは助けを聞いたのに、何もしなかったのか」。そんな批判を恐れたのだった。
事実、男が放置していたのは今回の三日間だけではない。室内に閉じ込めてから約一か月。その間、近くで虐待が行われていたことを知りながら、見て見ぬふりをし続けてきたことは、あまりに卑劣で言い訳の余地がない。しかも、これだけの住民がいながら、誰一人として手を差し伸べる者はいなかった。
住民たちの徹底した事実の否定は、捜査に思いもよらぬ綻びを生じさせていった。沖村が子供たちのいる部屋に強制的に入ったのは、警察官職務執行法によるもの。これは周囲の状況から見て、相当と認められる時に許容される手段である。
周囲の状況から見て相当であること。誰もが「助けを呼ぶ声は聞いていない」のに、果たして相当と認められるのか。部屋の前まで同行した管理人ですら、聞いていないのに。
そして、沖村のとった行動が問題視されることとなった。
事件発覚の当初、窓に溶接までする男の異常性を強調し、「助けを求める声を聞き逃さなかった正義の警官」等ともてはやしていたマスコミは、あっさりと手のひらを返した。住民から期待するようなインタビューがとれず、ネタに飢えていたことから、住民たちの思惑に軽々と便乗した。沖村の行動を、「公権力の濫用」等と叩き始めたのだった。
「適当な理由をでっちあげれば、人の家の中に入ることができる警察は恐ろしい」「警察の暴走を許してはならない」等と不安を煽り、違法捜査、冤罪とまで言い始めた。
さらには、「泥棒に入ろうとしたのではないか」「自分が監禁した子供なのではないか」等と、心ないコメンテーターが面白おかしく取り上げた。
笹川署には一転、苦情が殺到した。
一人、やり玉に挙げられた沖村は、笹川署内で孤立していった。本来であれば、瀕死の児童の命を救った警察官として賞賛されるだけの功績をあげた男は、今や警察署への苦情の元凶として、同僚からも陰口を叩かれるようになっていた。住民への聞き込みに入った捜査員たちも、沖村を責めることで、自分たちが聞き出せなかった失態を帳消しにしようとした。
沖村には、どうして管理人をもっと説得しなかったのか、応援が来るまで待たなかったのか等と批判や叱責が続いたが、「目の前に助けを求める子供がいるのに、あんたは何もせず待ってられますか」等と決して非は認めなかった。
そしてこの事件について、検察庁が出した結論は、不起訴により釈放。男を起訴しても有罪にできないと判断された処分であり、無罪に等しい。警察の捜査の敗北と言っていいものだった。
住民たちが自らの保身のために行ったことは、幼い子供を殺しかけた犯人を野に解き放つとともに、一人の警察官とそれに関わる人の人生を狂わせた。それによって引き起こされる結果を考えることもなく、ただ自身の保身のために、そうしたのだった。
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