第10話 記憶の箱 ③
八年前。笹川署の刑事課で勤務していた二十五歳の久保巡査長。刑事課に入ったばかりで一番下っ端。雑用も多く抱え、休みもない中で必死だった時、同期の沖村が異動で笹川署にやってきた。階級は巡査部長。同期の中では一番の出世頭だった。
沖村は地域課の南町交番で勤務することとなり、警察学校から卒業したばかりの新任の指導にあたることとなった。その新任が、二十三歳の相羽奈津だった。
奈津は、沖村の高校時代の部活の後輩でもあり、沖村への憧れもあったようだ。上司と部下の関係でありながら、よく「先輩!」と言って懐いていた。一方の沖村は、「こら、ちゃんと階級で呼べ」等と生真面目に注意する等、やや扱いに困っていた感じもあったが。
久保は、沖村と同期だったこともあり、奈津と三人で食事に行く機会もあった。明るく朗らかな性格の奈津は、久保にとって好ましいものであったが、「先輩」と沖村に親し気に微笑みかける度に、長い付き合いを見せつけられているようで、どこか疎外感も感じていた。
奈津が沖村に並々ならぬ好意を抱いているのは一目瞭然。沖村は、新任の指導期間が終わってから、奈津からの告白を受け入れたようだ。こんなところまで生真面目なところが、久保にとっては憎々しかった。
そして久保と沖村が二十六歳、奈津は二十四歳となった夏の日のこと。
忘れられない事件が起こった。
沖村が一人で団地を巡回し、アパートの管理人から話を聞いている時だった。 沖村の耳に、かすかに助けを呼ぶ子供の声が聞こえた。
「今、『助けて』って聞こえましたねよ。子供の声じゃなかったですか」
沖村がそう尋ねるも、管理人は目を泳がせて何も言わない。
「ほら、もう一度。管理人さん、どこですか。鍵を開けてもらえませんか」
「いや、私は何も知らない。何も聞いていない」
沖村は、その場にいても埒があかないと判断し、管理人を半ば強引に連れ、アパートの上層階に走った。三階の三○四号室の前に来た時、沖村は再度「助けて」という声を聞く。
「管理人さん、今のは聞こえましたよね。開けてください」
「いや、知らない。知らないよ」
管理人は頑なに認めようとせず、関りを拒む姿勢を貫く。
そこで沖村は、無線で報告。その部屋の台所のガラスを割り、部屋の中に入ったのだった。沖村が部屋の中で見たものは、今にも衰弱死しそうな二人の子供。炎天下の中、水も食事もなく、十歳の女の子は意識不明の重体。十二歳の男の子は、辛うじて意識があるが、衰弱状態。かすれた喉で、生きるために必死に声を振り絞っていたのだった。
二人を保護した沖村からの報告で、笹川署は騒然とした。
現場に急行した久保は、あまりの惨状に言葉を失った。真夏に締め切られた室内は、異様な高温となっており、散らかった室内からは異臭が漂っていた。さらに異常だったのは、窓はすべて溶接され、開閉ができない状態になっていた。玄関には補助鍵が外側に取り付けられており、つまりは中から出られないようにされていたのだった。
笹川署はすぐに捜査を開始し、同居していた男の逮捕に踏み切った。殺人未遂、保護責任者遺棄、監禁。罪名はいくらでもある。その男は、元妻と離婚後、養育費をもらうことを条件に元妻の子であった二人の兄妹を引き取っていた。しかし男は連れ子に愛情を注ぐことはなく、養育費はタバコとギャンブルに当てられ、子供にはパチンコの景品の菓子と水道水をあてがっただけだった。
そんな生活が続くわけはなく、ギャンブルで膨らんだ借金を返済するため、小学校に通わせることを止めた。洗濯していない服など、まともに養育していないことが発覚するのを恐れたためだった。学校には元妻のところに帰ったことにし、元妻からは養育費をせしめるために、子供を部屋に閉じ込めた。
その期間は一か月ほど。当初は必死に抵抗していた兄妹も、日に日に減っていく食事に衰弱していく。子供の窮状に目もくれない男はギャンブルに明け暮れ、そして大勝した日には飲み屋と風俗店で豪遊し、ついには三日間帰宅しなかった。夏休みが始まる前の七月の日。換気のできない室内は、異常な高温ともなり得る。男は「普段食事は与えており、死にかけるとは思ってもいなかった」等と否認した。
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