私のかけがえのない3分

千鶴

ある夏の日

 7月某日。暑さで空気が歪むほどのプールサイドで、けたたましい蝉の声をBGMに顧問は言った。


「じゃあ最後。中島は400メートル、自由形な」


 騒つく部員。皆、ちらちらと1人の少女に目を向けていた。


「無理ですよ、中島に400メートルなんて。100メートルすら泳げないんですよ? 入部したばかりの1年にそんなの、ちょっと酷なんじゃ」

「仕方ないだろう、各種目ポイント制なんだ。学校として総合優勝を狙うには、お前ら表彰台組に首位を狙える50メートルや100メートル、短距離種目に出てもらわなきゃならないんだよ」


 バインダーに目を落としたまま、顧問はバツが悪そうにこめかみを掻いた。その様子を見て、当人は悟る。要するに実力のない今の自分は、次の大会において捨て駒なのだ、と。


「大丈夫です。私、練習します」


 少女の返事を聞いて、顧問はパッと顔を上げた。 


「そうか。部員として、なんかしらの種目には出なきゃならんからな。頑張れよ」


 問題が早々に解決して去っていく顧問とは裏腹に、部員の表情は曇っている。


「中島、本気? 今50メートル、何秒だっけ?」

「……52秒」


 それは絶望的な数字だった。

 

 中島皐月なかじまさつき、12歳。春から中学1年生になった少女は、水泳部に入部した。皐月に水泳の経験はない。


「キック50メートル10本、始め」


 合図と共に、皐月は壁を蹴った。ビート板を前に突き出し、必死にももから足を動かす。

 だが蹴っても蹴っても、なかなか前には進まない。早い先輩が周回遅れの皐月の後ろに着けば、立ち止まって道を譲った。


「すみません」

「頑張れ、中島」


 真っ赤に火照る頬。何度も地面に足をつけながら、喉の奥がヒリヒリするほど浅い呼吸を繰り返す。


 10本目に到達する頃にはもう、動かしているのがどちらの脚かもよく分からない。先輩に何度も抜かされるたび小さく交わされる会話に、皐月は胸を痛めた。

 

「ラスト一本行くよー」


 華麗なバタフライが、皐月の横を通り過ぎる。飛沫しぶきのほとんど上がらないその泳ぎはまさに、蝶のように優雅であった。


「遥介先輩、また表彰台確定じゃない?」

「ありゃ早すぎだわ」


 松井遥介まついようすけ。3年の彼は部長にしてエース、幾つもの大会で優勝経験のあるプレイヤーだ。


 個人的なスクールでの練習があるため滅多に顔を出さないが、今日はたまたま部活に来ていた。


 皐月は前だけを見て、必死で腕を動かす。周りはもうとっくに次のメニューに取り掛かる中、皐月は相変わらず遅れていた。


(こんな必死な赤い顔、松井先輩に見られたくない)


 なんとか泳ぎ切り、水面から顔を出す。俯き、背中を膨らませながら呼吸を整えるも、もうプールサイドに上がる腕力はなかった。


「ほら中島、手」


 皐月は顔を上げ、すぐにまた俯いた。手を差し伸べてる相手が遥介だったからだ。


「大丈夫です。自分で上がれます」

「いいから」


 遥介はさらに手を突き出すも、皐月はその手を掴まない。


「メニューみんなより遅れてるんで、このまま次やっちゃいます」

「え、少しは休憩しないと」

「大丈夫です。すみません」


 皐月は慌てて、壁を蹴った。

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