5

 僕は走った。


 急いで家を飛び出してタクシーをつかまえた。慌てて乗り込んで行き先を伝えたところまでは覚えている。


 けれど、この扉の前にいる理由がわからなかった。無機質で、白くて、重そうで、冷たい扉。上に書いてある文字がよくわからない。

 説明はされたけれど、理解できないままだった。いや、きっと理解したくなかった。


 なぜこにいるのかもわからないまま、扉は開けられた。促されるまま、僕はその部屋に入った。


 キミはそこにいた。広い部屋の真ん中で、横になっていた。

 僕はゆっくりとキミに近付いた。キミの元まで行くと、そっと顔を覗き込んだ。

 キミは僕には気付かなかった。


「さっきは、ごめん…」


 呟くように僕は言った。


「キミが、僕に合わせて休みを取ってくれたこと、前から言ってくれていたのに…」


 キミの返事はない。


「言い訳にもならないけれど…」


 そっと手を伸ばしてキミの頬に触れる。白くて柔らかなキミの頬。以前、もちもちしていて触り心地がいいと言ったら、ちょっと怒ったように、それでいて嬉しそうに笑っていた。

 キミのぬくもりはまだ消えていないのに。


「忘れてて、ごめん…」


 髪に触れる。僕が長いのが好きだと言ったら伸ばしてくれたロングヘアー。僕は黒髪が好きだと言ったけれど、キミはそこは譲らなかった。いつも雑誌を見てはいろんな色に染めていた。それで毛先が痛んだりしないように、丁寧にケアをしていたこと、僕は知っている。


「約束してたのに、ごめん…」


 唇に触れる。キミが一番気に入っていた、ピンク系のリップで色付けられた小さい唇。嬉しそうに僕の名前を読んでくれたキミの唇。はじめてキスをした後に、恥ずかしそうに笑った、小さくて可愛らしい唇。


「ごめん…」


 瞬間、キミの輪郭がぼやけた。なんだか見えづらい。鼻の奥も痛いような気がする。目が熱くなってくる。


 僕は泣いていた。もう目を覚まさないキミを見つめ、キミに触れながら、泣いていた。

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