一緒にいない時間

harmonie

第1話

ほのかは、今の大切なパートナーと一緒に居ない時間が出来ると想いが戻る場所がある。

テレビを見ていても、1人で駅でふと空を眺めていても。心が震えて涙が出てくる心の場所がある。


先月の頭で結婚4年目に入った。

新婚間もない頃は、仲も良かったが喧嘩も激しかった。朝ごはんを作って自分は外で朝ごはんを外食したり、夜明けに旅行のゴロゴロ鞄に荷物を詰めて引っ張って家出をしたり。なかなか2人で生きていくという現実に馴染めなかった。「結婚」。ほのかにとって、漸く最近特別大きな事のない日常が普通になってきた様な気がするが、最初はそれまでの生活とのギャップが甚だしく、拒否反応は激しかった。


吾郎とは仲は良い。

吾郎が結婚する時に独立をして家で仕事をしているので、ほのかもパートの仕事はしているが、家で一緒に居る時間が長い。一緒にいる分、最近は吾郎のちょっとした言動に苛つく事も多いが、嫌な事を顔に出したら、「ムカついたわー」そんな言葉も言える様になってきて、少し楽になっては来た。そんなほのかを吾郎は笑ってくれるので、ほのかとしては助かっている。


39歳の頃。ほのかは結婚したかった。

独身女子3人組で仲良かった2つ年上の友達が、先ず1人結婚した。結婚相談所の紹介だった。その後、もう1人の1つ上の友達が結婚した。職場の年下の彼だった。

3人は、良く新宿で夜ご飯を食べたり、登山をしたり、夏にはほのかの提案で葉山の海へ男女の友達で遊びに行ったりしていた。

ほのかは2人の親友が結婚した時に、初めて焦った。「結婚したい」強くそう思った。

今考えると、ほのかは「結婚」がしたかった。結婚というものがどういうものか、考えてはいなかった。結婚して子供を産んで、自分の家の様な温かな家庭を作りたい。漠然とそう思っていた。


ほのかは恋多き女だった。

字の綺麗な人、細身の人、誠実な人。関わる人でそんな要素を持つ人と出逢うと、恋をした。自分から食事に誘い、前の日に鏡の前で服を決め靴を決め、当日は30分はかけてお化粧をして出掛ける1時間前にはCHANELのお気に入りの香水を足元に吹き掛けて行って来ますと家を出た。家族は家に漂う香水の香りで、ほのかが出掛けるのを察知した。

待ち合わせには、いつも早めに着く。

時には早すぎるので、ドトールでお茶をしてお手洗いでお化粧を直して待ち合わせの場所へ挑んだ。


吾郎との出会いは母の友達の紹介だった。

吾郎と出会う少し前。誕生日のある8月に、ほのかはその時短い期間付き合っていた歩と別れたところだった。別れたと言っても、突然連絡が取れなくなった。家は知らなかった。いつも会うのは外で食事かビジネスホテルだった。家には妹が居ると聞いていた。思い詰めて仕事先に男友達と押しかけようかと考えて男友達に相談したが、断られ1人では行けなかった。誕生日には指輪が欲しいとはおねだりして、指輪はクリスマスねと言われたばかりだった。ほのかには何が起こったか分からなかった。寂しさを埋める為に、街を漂い、ほのかは吾郎の事を母から勧められた時、既に1人時々会っている男性がいた。


母は以前にも吾郎の話をほのかにしていた。

「独身の男性が2人いるらしいの」

ほのかには「独身」、その言葉は魅力的だったが、その時そこまで真剣には考えていなかった。


歩から連絡がなくなって、ほのかはフリーだった。歩からは付き合おうという言葉があったので、ほのかはちゃんとお付き合いをしていると認識していた。


2回目の母からの吾郎の話。

「会ってみる?」その言葉に、ほのかは乗った。初めてほのかは吾郎の写っている写真を見た。もう1人の独身男性も写っていた。

正直なところ、もう1人の年下の男性の方が好みの見た目だった。吾郎は、眼鏡をかけて長髪を結び、その母の友達の家族と友人の集まった写真の端っこの方で笑って写っていた。

「おじさんだな」

ほのかの正直な感想だった。母には言わなかった。まぁ、取り敢えず会ってみよう。ほのかは心の中でそう思った。


「足元が濡れているので気をつけてお越しください」新宿西口のエスカレーターに乗ろうとした時、吾郎からLINEが来た。

いつも通り、ほのかは早めの到着だった。

吾郎からのLINEに、ほのかは細かな心遣いだな、と思った。良い印象だった。


ほのかは、水玉のワンピースを着て、黒のサンダルハイヒールを履いていた。上の羽織は畏まり過ぎないように、ロングカーディガンにした。昨夜、短いジャケットにしようかと悩んだが、畏まり過ぎてしまうな、とやめた。今回の紹介為に買ったのは、ハイヒールだけだった。服は数年前に友達の紹介で会った男性とのお見合いの時に、母にお金を出してもらって買ったワンピースだった。普段はほのかには手の出せないブランドの薄手ガーゼ生地のワンピース。丈が短いのが気になった。


待ち合わせのホテルのティールーム前に、ほのかは駆け足で向かった。吾郎さんなる人は、先について席が空くのを待ってますと言う。待たせては行けないと急いだ。

ティールームの入り口には待つ人は誰も居なかった。

あれ?と思い、ほのかが周りを見渡すと、吾郎はティールームから少し離れた所で壁に斜めに寄り掛かっていた。

スーツに細いカジュアルなネクタイをして、茶色い革の鞄を片手で肩のところに担ぎ持っていた。

吾郎は、ほのかの見た写真の吾郎とは別人だった。だいぶ細身になっていた。

ほのかは、期待をしていなかった初対面の好印象に、心が少し踊り笑顔で吾郎に歩み寄って挨拶をした。吾郎も恥ずかしそうに自己紹介をした。それが吾郎との初めての顔合わせ、2人の出会いだった。


シャイであまり話さない。紹介して貰った方からの吾郎の情報だった。

ほのかは人との会話は得意な方だった。

吾郎は紅茶を飲み、ほのかは珈琲を飲んだ。

結婚前提の紹介だった。


「ただね、彼はタバコを吸うの」

母から聞いた、紹介して下さった方の吾郎のマイナスポイントだった。

けれど、ほのかにとってはそれはプラスポイントだった。

ほのかも遅いスタートではあるが、27歳の頃から喫煙者だった。

そして、それまでの恋や婚活も、悉く喫煙する女性と言う事が駄目になる理由のひとつにもなっていた。

子供が欲しい男性は、多くの人は喫煙しない女性を好んだ。喫煙だけがほのかの恋が実らない理由ではなかったかもしれないが、ほのかはそう感じていた。だから、吾郎が喫煙者という情報は、ほのかにとっては嬉しいプラスポイントだったのだ。

今の日常でも、吾郎との2人の共通点の「喫煙」は、ほのかと吾郎の大切な時間となっている。吾郎が禁煙を考えているという話を聞いた時など、ほのかはとても寂しい気持ちになるのだった。


最初のデートの夜、ほのかは吾郎との時間をとても楽しんだ。暗めのレストランで軽くフライドポテトを摘んで飲み物を飲んで、好きな歌手は誰かという話や、お互い訪れた事のあるスペインのバルセロナの本屋さんの話などした。その後に「お酒でも飲みますか?」と言う吾郎の提案に地下にある雰囲気の良いバーに入った。

紹介してくれた方のあまり話さないという情報とは違い、吾郎はとても良く話す人だった。結婚しようと思った事があるか。そんな話題もお互いの顔が良く見えない暗さのバーで吾郎の方からほのかは聞かれた。


明るい新宿の東口の改札口で吾郎に見送られてSuicaをタッチした時、ほのかの時計は23:30過ぎを指していた。ほのかは「楽しかったです。ありがとうございます。」そう言葉を残して吾郎に会釈をした。「またお会いできますか?」その言葉は飲み込んだ。それまでの、ほのかから押し過ぎてダメになった経験から、ほのかは次の約束は自分からはしなかった。というよりも、怖くて口に出せなかった。ほのかにしては珍しく、遠慮したのだ。吾郎は改札口の外でほのかを見送りながら「またお会いできますか?」はにかみながらそう言った。ほのかは嬉しかった。良いなと思う人から、相手からそう言われる事がほのかはとても嬉しく、吾郎の社交辞令かもしれないその言葉はほのかの心を家路に着くまで暖かくした。


ほのかには、結婚前提であれば吾郎に早めに言わなくてはならない事があった。

友達も多く、快活なほのか。両親からは愛情たっぷりで育てられ、ほのかの家は、父は厳しかったが恵まれた家庭だった。

それが故にか、ほのかは人を好きになり過ぎての心が壊れた事が過去にあった。

統合失調症。大学2年生の時にほのかに告げられた病名だった。ほのかが調子を崩した時は、それは分裂病と呼ばれていた。遺伝という説もあるが、百万人に1人発生すると言われている病気だった。

ほのかは仲の良い友達などには自分の病名を打ち明けていた。周りの友達もほのかが病気を抱えている事を理解した上で付き合ってくれていた。ただ、仕事上は病気持ちという事は伏せていた。

具体的には、ほのかは絶対に飲むのをやめてはいけない薬があった。統計学上服用していれば再発が防げる、精神科の先生はほのかにそう告げていた。調子を崩すと、ほのかは寝込んだ。聞こえるはずのない声を聞き、その声が聞こえているものだと信じた。

最初に発病した大学生の頃や再発した最初のの就職の時は、調子を崩すと、盗聴器が自分のポケベルに付けられていると思ったり、自分の座席にあると思い込み自分の思考回路は筒抜けだと恐れた。理性が飛んでしまうのである。

その事もあり、ほのかは結婚というものが自分には手の届かない幸せだと感じていた時期がある。ほのかには妹がいたが、妹も結婚して家を出て、年老いていく両親と年老いた自分が家に残る。そういう未来を起き上がれないベットの上で想像した。そんな時のほのかの救いは、自分が寝込んでいても、部屋の外を掃除機をかけている母の生活音や、自分の部屋の扉を足で開けてと合図してきてほのかのベットの足の上で寝るミニチュアダックスのベティだった。ほのかのベットは日当たりが良かった。窓からは外の緑が見えた。


「私が結婚すると言う事は、相手に負わせるものがあると言う事なんです。」

何度目か吾郎に会った時、仄暗いバーでほのかはそう吾郎に告げた。暗に自分の病気の事を伝えたつもりだった。吾郎がそれに対してなんと答えたか、ほのかは覚えていない。

当時ほのかは、早めに吾郎に病気の事を伝えなくてはと思っていた。しかし、病名までは怖くて打ち明けられなかった。

ほのかは、仕事で忙しい吾郎と週末になると会う約束をして食事をした。

吾郎は、それまでほのかが行ったことの無い美味しいお店を知っていた。

六本木のもつ鍋やさん。世界に支店がある高級中華。焼肉。

ほのかは、毎回前夜に自分の部屋でお風呂の後にファッションショーをして服と靴を決め、指先にはCHANELのマニュキュアを塗った。

何回か食事を重ねたある夜。2件目の、六本木の芋洗い坂を歩いた先にある、お客さんの少ないお店で、ビールだったかハイボールを飲んでいた時、吾郎はほのかに「この年齢で付き合って言うと結婚になるから」と言った。吾郎はほのかのふたつ上。当時、41歳だった。

ほのかは、内心「結婚前提で会ってるんじゃないの?!」と思ったが、「じゃあ、結婚前提じゃなく付き合います?」そう聞いてみた。吾郎は、はいともいいえとも返事をしなかった。顔がお酒で赤く大分酔っている様子だった。

ほのかは、帰り道に心が躍った。吾郎から、「付き合う」という言葉が出たからだった。ほのかは、吾郎とのデートを重ね、毎回の楽しい会話と美味しい食事、吾郎の気遣いに吾郎に会うことがとても楽しみになっていたし、既に例のごとく吾郎に好意を寄せていた。

翌日は、ほのかも吾郎も仕事の日だった。

ほのかは、仕事中も昨夜の吾郎の言葉を頭の中で繰り返し思い出していた。ほのかは、何事もすぐ、だった。お昼のお弁当を食べている時には、我慢出来ずに吾郎に連絡をしていた。「今日お仕事後お会いできますか?」吾郎からの返事はイエス、だった。

待ち合わせは秋葉原だった。高架下にお洒落なお店が入っているところで待ち合わせだった。

吾郎は少し遅れて来た。少し寒かったが、外の席で、ほのかはブラックコーヒー。吾郎は確か甘い紅茶を頼んだ。吾郎は仕事を抜けて出て来てくれた様だった。

ほのかは、直ぐに本題に入った。吾郎の目を見て「お付き合いがしたいです。」単刀直入にそう伝えた。ほのかは、昨夜の吾郎のコメントもあるし、すんなりと付き合えると思っていた。けれど、吾郎の反応はそんなに簡単ではなかった。斜めに椅子に足を組んで座っている吾郎は「今、家で奥さんが待ってるとか子供が待ってるといった事が想像出来ないんです」ほのかは、がっかりしたが、心の中で「あ。また終わった。」そう思った。ほのかは切り替えが早かった。次に行こう次に。案外にあっさりそう思った。「分かりました。」ほのかは笑顔で吾郎にそう伝えた。

その後、仕事のある吾郎と家に帰るほのかは、席を立ち高架下を一緒に歩いた。その時、吾郎が「ご飯食べますか?」ほのかにそう聞いて来た。ほのかは、内心複雑だった。振った相手をご飯に誘うなんて変わっている。そう思った。けれどほのかは、「はい。」またしても笑顔でそう答えた。何故そう答えたか、ほのかには分からないが、そう返事をさせる穏やかさが吾郎にはあった。あとはほのかの中にある吾郎への未練だった。


ほのかと吾郎は、近くのビルの飲み屋に入った。ほのかは、友達になれば良いか。そう考えた。一度振られたので、返って気取らず友達モードで吾郎と飲んで食べて煙草を吸って話をした。吾郎は、自分は可愛らしい人が好きだとほのかに言った。吾郎が最初の顔合わせの時に好きだと言っていた歌手も、童顔の可愛らしいタイプだった。ほのかは特別美人ではなかったが、周りの人からは綺麗という表現をされていた。可愛いというタイプではなかった。ほのかは、何故この人は私がタイプじゃ無いという事を暗に伝えてくるんだろう。そう思った。しかし、吾郎を感じ悪くは思わなかった。吾郎の人柄がそうさせていた。

2、3時間飲んで食べて話して、吾郎は会社に。ほのかは家へ帰った。

本当だったらそれが最後の食事の筈だと今でもほのかは思う。その後、どちらから再度会う約束をしたのか、ほのかは覚えていない。

吾郎に、「どうして私が振られた後にまた会う事になったんだっけ?」吾郎にそう聞いてみる事があるが、吾郎は覚えているのか覚えていないのか、うんともすんとも答えない。


秋葉原の後、どうして2人がまだ会い続ける事になったのかは今のほのかにはもう記憶にない。けれど、秋葉原でほのかが振られた後に吾郎は仕事の出張でアフリカへ発った。

その前にほのかと吾郎は東京駅で会っていた。何を食べたかは覚えていないが、その帰り道2人で東京駅で喫煙所を探し煙草を吸った。ほのかは、まだこの先も会えるのだろうかと内心思いつつ、「アフリカから帰っていらしたら、またお話聞かせてください」そう吾郎に伝えた。心の中は、もう連絡は無くなるかもしれないな、という気持ちだった。吾郎の出張は3週間だった。連絡が途絶え、会う事が無くなるには充分な時間だった。

吾郎は確か、「はい」そう答えたと思う。


吾郎がアフリカへ発ち、ほのかには新宿御苑の職場へお弁当を持って通う毎日。週末は家でのんびりか友達とランチ。そんな日常が戻った。いつも通り、平穏な日々だった。

ほのかは、「気をつけていってらしてください」そんなLINEを吾郎が発つと聞いていた朝に送っていた。その後、特にLINEはしていなかった。吾郎からは「はい。いってきます。」そんな端的な返事が返って来ていた。

吾郎がアフリカへ発ってから、数日の夜。ほのかが自分の部屋で寝ようとしていた時に、吾郎からLINEが来た。ほのかは、布団の中で携帯を見た。「お茶しています」LINEの内容はそんな感じで、アフリカのふくよかな女性が頭に何か載せて道を歩いているそんな写真が送られてきた。「気持ちが良くてイキそうです。」吾郎からのメッセージにほのかは少し驚いた。それまでに2人は性的な話をしたり、吾郎がいやらしい感じでほのかに接してくる事はなかった。けれど、吾郎の言葉はほのかには特にいやらしくは感じられず、「男の人と女の人のいく感じって違うんですかね。」ほのかはそう返した。顔を見ていないLINEのやり取りだから出来たのかもしれないが、ほのかは少し今迄とは違う深いやり取りが出来た感じがした。

その後も吾郎はアフリカ滞在中何回かLINEを送ってきた。ほのかも勿論、自分からメッセージを送ることもあった。

確か吾郎からの誘いだったと思う。吾郎のアフリカ出張中に、2人はLINEで吾郎が帰国したら吾郎が美味しいと言う六本木のイタリアンで食事をしようと言う約束をした。

ほのかは安堵した。まだ続く関係なんだ。そう思った。その前の別れが少なからずトラウマになっていたのかも知れない。


吾郎が帰国して、ほのかと吾郎は西麻布のイタリアンへ食事に行った。

お店の予約の時間まで、六本木のスターバックスでお茶をして、ほのかはアフリカのお土産を貰った。吾郎はアフリカからのLINEで、「お土産は何が良いですか?布、置物、、、、。」とほのかに質問をくれていた。ほのかは悩んだが、自分の部屋にアフリカの置物が欲しいと思い、「置物でお願いします。」そう答えていた。

スターバックスの外席で、ほのかはお土産を貰った。新聞紙に包まれたそれは、楕円形をしていた。ほのかは、アフリカと言えば、原住民の木の置物のようなものを想像していた。新聞紙を開けていくと、それは綺麗な白い像の絵の彫ってある美しいキャンドルホルダーだった。ほのかは驚いた。そんなにも可愛らしい物がお土産とは想像していなかった。ダチョウの卵のキャンドルホルダーだと言う。吾郎は自分はシマウマのカーペットを買った話をほのかにした。ほのかは外が寒いのも忘れて吾郎の話に聞き入った。


イタリアンに移動して、運ばれてくる美しいお皿をほのかは写真を撮りながら、吾郎と楽しく会話をしながら頂いた。

最後のリゾットの時、お店の男性のスタッフが吾郎の近くに来て、「本日黒トリュフが入荷しておりますが如何ですか?」笑顔でそう言った。吾郎はほのかに「良いですか?」そう聞いた。ほのかは笑顔で「はい。」と答えた。スタッフの男性は、まずはほのかのリゾットに、黒トリュフをかけた。ほのかは内心「こんなに沢山?」と驚き、少し値段の心配をした。次に男性は吾郎のお皿に同量の黒トリュフをかけ、「美味しく召し上がってください。」と笑顔で2人にそう言った。

リゾットも美味しく完食し、小さなデザートとほのかは珈琲、吾郎は紅茶を飲んだ。

小さなお店は満席だった。


食事を終え、ほのかと吾郎はお店を出た。駅からは離れている所のお店で、にわかに雨が降って来た。吾郎もほのかも傘を持っていなかった。吾郎はタクシーを呼ぶと言い、2人は閉まっているお店の軒下に入った。ほのかは吾郎の隣で雨を眺めていた。雨の音や匂いがほのかは好きだった。その時、吾郎が「出張前の言葉はまだ生きていますか?」ほのかにそう告げた。ほのかは、最初何の事か分からなかったが、そう言えば「付き合ってください」そのほのかからの返事をアフリカで1ヶ月考えて来て良いですか?アフリカに発つ時吾郎がそう言っていたのをほのかは思い出した。一度断られた告白が、どうして生きていたかも今のほのかは覚えていない。

小雨の降る暗いしまったシャッターの前で、2人は付き合う事になった。


付き合って2年。ほのかと吾郎は結婚した。

付き合ってから、ほのかは毎週末吾郎の家に泊まる生活をしていた。金曜日に仕事の後に吾郎のマンションへ行き、夜ご飯を作って遅い吾郎の帰りを待った。エビチリ、餃子、鍋、グラタン。メニューは色々だった。

ほのかは料理が好きだった。毎週必ず買って吾郎の家の冷蔵庫に残すのは長ネギだった。

吾郎も時々、パスタなどほのかに作ってくれるのだった。ほのかは、金曜日に仕事後に吾郎の家に泊まりに行き、日曜日の夜に自宅へ帰る。そういう生活をしていた。


そんなほのかが吾郎と一緒に居ないと心が漂う場所。

1人だと思い出してまだ涙が出て来るところ。

それは、ほのかが統合失調症を発病するきっかけになった、大学2年生の頃に恋した夏だ。

陸。

ほのかが、若くて純粋だったが故に、また、女子校で男性慣れをしていなかった分、心から惹かれて成らなかった恋。

陸は、背が高くて、無口な今時の若者だった。髪の毛は茶色く染め、ルーズな服装に、いい香りの香水を上手に纏っていた。

当時のほのかの周りの男性にしては珍しく、ハンカチを常に持ち歩き、無口だけれど優しかった。

大学2年生。21歳。ほのかは、可愛らしく純粋でウブだった。そして、人の気持ちを、焼きもちや妬み、そう言ったことをあまり知らずに成長してる少女だった。


陸からの好意を感じつつ、告白もしたが成らなかった恋。ほのかは、男性が色々な女性に対して好意を持つ事があるという事を知らなかった。陸の目線、行動に自分への好意を感じ、自分もいつしか陸に強く惹かれていた。けれどほのかは年相応に、天邪鬼だった。素直になれず、気持ちはあるのに陸からのテニスの誘いを結局断ったり、隣の席に座るチャンスがあっても座れなかったり、みんなで行った夜の六本木のクラブの帰りも、一緒に帰れるチャンスがあったのに1人で先に帰ったりした。

当時の陸の本当の心はほのかには分からない。ほのかは、陸の親友からも好意を寄せられていた。ほのかが、陸への思いが苦しくて、勇気を振り絞って陸の自宅へ電話をして告白をした時、陸は「僕には他に好きな人が居る」そうほのかに告げた。ほのかは、ショックで直ぐに受話器を置いた。けれどその後、納得が行かずに再度同じ番号のダイヤルを回した。陸が出た。陸は泣いていた。そして、「僕はずっと先をみてるから」そうほのかに告げて電話を切った。

「ずっと先」その言葉は、ほのかにはいつかは付き合える、そういう可能性を感じさせた。陸から自分への好意がある、どうしてもその可能性を信じてしまった。

陸からの熱い気持ちを感じつつ受け入れてもらえない。その事実に、ほのかの心は割れた。


ほのかは大学へはなんとか通っていた。家族はほのかの異変に気づかなかった。

気づいたのは、組んでいる授業に出られなくなっていたほのかをおかしいと思った親友だった。親友は学生相談室に予約を取り、ほのかの母親にも事情を話してくれたようだった。ほのかは、母と2人、大学の学生相談室に、お天気の良い昼間に訪れた。学生相談室の女性の先生は、ほのかにと話をして、「丁度ね、ゆで卵の殻がない状態みたいな感じなの。授業に出られてるだけでも凄いです」2人にそう告げた。何回か定期的にその女性の先生と3人で話をした。夏休みに入る時、その女性の先生は「私と夏休みの間会えなくなってしまうので、私の先輩の先生を紹介させてください。」そう言うと、中野駅の心療内科の先生を紹介してくれた。 

夏休みの始まったある日、ほのかは母とその心療内科を訪れた。穏やかそうな細身の男性の先生は、2人に「統合失調症」その病名と、「今後はこの薬を飲み続けてください。統計学上、飲み続けないと再発の可能性があります」穏やかに笑顔でそう告げて、赤と白の錠剤の薬をほのかに見せた。


「僕はずっと先を見てるから」陸なこの言葉は、ほのかをずっと離さなかった。

吾郎と出会って付き合い始めた頃も、この言葉はほのかのこころの奥底に確かに在った。

陸。その名前は、ほのかの心に忘れられない名前として存在した。

ほのかの心が割れてから2年ほど、ほのかの世界には色がなかった。ほのかはぼんやり、未亡人の人は2年間位こんな感じかもしれない。そんな事を当時思っていた。



ほのかは、吾郎と結婚すると決まった時、陸の話を吾郎に話した。

「ずっと先を見てるから」その言葉はなんだったんだろう。そう吾郎に聞いてみた。ほのかの中でずっと疑問だった言葉だ。吾郎は「ただ、僕は先を見てるから君とは可能性は無いよってことじゃない?」そう告げた。 

ほのかは当時確かに感じたように思える陸からの好意を、無い事の様にはその時も思えなかった。


ほのかは吾郎との生活を幸せだと心底思う。

だからこそ常に隣にいて欲しいと思う。


1人でふと駅のホームに立っている時、街中で人混みの中で1人空を見上げる時、ほのかは脳裏に陸の事を思い出す。

もう顔も思い出せない、その人、当時の事を思い出す。あの時の自分を思い出す。


あどけなく、純粋で、瑞々しくて、一生懸命だった夏を思い出す。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一緒にいない時間 harmonie @harmonie1124

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る