最後のお見舞い



 ここは日胤川ひたねがわ病院。

 今日は父さんのお見舞いに来た。


 『小籠こかご五六いつむ』と名前の掲げられた病室に入る。

 半年前に倒れて、ようやく集中治療室から出てくることが出来た父さんの姿は、かつての面影が失われていて悲しい。


 落ちくぼんだ眼、痩けた頬、枯れた肌……そして


 たくさんの管に繋がれた身体は、不自然に下半分が沈黙している。

 僕より頭二つ分くらい背の高い父さんはとんでもなく無口だったけれど、たまに話す時は僕に合わせて腰をちょっと屈めてくれるのを忘れない人だった。

 でも、それはもう望めないんだな……と、思うとまたキュッと胸が締め付けられる。

 もう戻らない日々を懐かしむときほど、涙腺がゆるむときはないと思う。

 なんとか集中治療室からは出られたものの、父さんの意識は戻らない。

 それでも、僕は暇を見つけてはお見舞いに行くことを止められない。

 日胤川病院の看護師さんやお医者さんはとても良くしてくれて、いつ行っても僕を快く迎えてくれた。

 それが村長である真子の父親の口添えがあってのことだとは知っているけれど、ありがたい。

 僕の力だけでは、こんな立派な個室を手配することは出来なかっただろうから。


「父さん」


 呼びかけても、返事はない。

 でもそれが当たり前になったから、浅い呼吸を繰り返す平たい胸を確認するだけでも僕は満足だった。

 病室に備え付けられているパイプ椅子を引っ張り出して、父さんのそばに座る。


「あのね、もう半年も経つよ」


 半年前のあの日。

 学校から帰ってきた僕が見たのは、血溜まりに沈む父さんの姿だった。

 玄関を開けてすぐに血の臭いがした時から、イヤな予感はしていた。

 でもその時は血だなんて想像もしていなかったから、なにか鉄臭いな?ぐらいの気持ちだった、のに。


「いい加減、目を覚ましてもいいんじゃない?」


 こんなことを言うとまるで仲良し親子のようだけれど、その実情は正反対だ。

 生来無口の父さんとは会話らしい会話はほぼなかったし、叔父さんが出て行ってからは会話の無さにさらに拍車がかかった。

 だけど、やはり家族というものはそこにいるだけで一定の安らぎがあるらしい。

 いてもいなくても同じだ、と思っていたけれど、やっぱり父さんがいない家はひどくさみしい。

 1人で暮らすには、あの家は広すぎる。

 朝、寝ぼけて鴨居かもいに頭をぶつけないように、緩慢な動作で頭を下げる父さんの姿も、もう見られなんだなぁ。


「まあ、目覚めてからが大変だと思うけどさぁ」


 父さんを発見したとき、冗談みたいなあまりの惨状に僕は駆け寄ることすらできなかった。

 父さんは、二階へと向かう階段の踊り場を一面の血液で満たしていた。

 赤いしずくがゆっくりと一段ずつ筋となって、階下へと流れる様が目に焼き付いてる。

 背の高い父さんが、階段の踊り場にすっぽり収まるわけがない。

 でも、現実は残酷だった。

 父さんは、太股から下を何者かに切断された状態で見つかった。

 それはとても鋭利な刃物でスパッとやられたらしく、そのおかげで出血量は多いものの他の臓器を傷つけずに一命を取り留めたらしい。

 とはいえ、当時の僕にはそんな事情はわからない。

 出所の知れぬ水音と異臭に顔をしかめつつ慣れた家を歩いていたら、当然の衝撃的光景。

 ……正直、もうあまり当時のことは覚えていない。

 なにかを滅茶苦茶に叫んでから気絶したような気がするけれど……駆け寄ることも出来ずにただ立ちすくんでいた僕は、結果的に父さんに対してなんの延命措置もできなかったのだろう。

 その証拠に、気絶から目を覚ました僕の衣服は全く汚れていなかった。

 僕の叫び声を聞いた近所の人が様子を見に来てくれてようやく救急車が呼ばれたけれど、僕が気絶なんてせずに気丈にいられたら……と後悔しない日はない。


「僕と叔父さんは、父さんをサポートする気まんまんだから」


 両足を失ったことは、父さんにとってもショックだろう。

 リハビリだって、長い時間がかかるかも知れない。

 だけど、生きていれば。

 生きてさえいれば……いくらでもやりようがある。

 そう、あとは目だけ覚ましてくれればいい。


「てか、なんであんなことになったのさ?」


 この猟奇事件はすぐに警察の捜査の対象になったけれど、その行方はようとして知れなかった。捜査本部が立ち上がったもの、手がかりも証拠も証言もゼロでは、なにも手の打ちようがない。

 今となっては、本部もほぼ解体されているだろう。

 僕は捜査よりも父さんの安否へ意識が向きすぎていて、警察に何を話したのかよく覚えていない。

 そんな時、矢面に立ってくれたのが叔父さんだった。

 憔悴しきって、それでも自宅と病院と学校への往復を繰り返す僕の身の回りのお世話をしてくれたし、好奇心で寄ってくる人種の人払いも担ってくれたし、気を紛らわすための運転手という仕事も与えてくれた。

 軽トラックとはいえ、運転免許も持ってない叔父さんが車を所持しているわけがない。きっと僕のために中古を買うか、誰かから借りるかしてくれたのだろう。


「なにがあったのか……知りたいよ」


 独り言が病室に溶ける。

 叔父さんがあれこれ気遣ってくれたおかげで、病室でただボーッと過ごす時間は減った。

 そのかわりに、新たな心のささくれが増えたように思う。


 叔父さんとの時間が増えたことで、見えなかったものが見えてきた。


 だけど僕にはどうしても、理解できない。

 だってこれまでだって叔父さんと一緒に町を歩くことは何度だってあった。

 でも、皆べつに普通の接し方だったじゃないか。

 こんな、叔父さんをあからさまに仲間外れにするような風潮はなかったはずだ。


「はぁ……」


 思わずため息が漏れる。

 どうして気がつかなかったのが不思議なのだけれど、この病院は決して叔父さんを入室させないらしい。

 今日だって、渋る叔父さんを引っ張って一緒にお見舞いに行こうとしたら、『院長命令です』と病院の敷居すら跨がせてもらえなかった。

 叔父さんは深々と頭を下げたあと、僕が引き留める隙もなく、『ちょっと、散歩してきますね。えっちゃん、お兄さんに、よろしくお伝え下さい』と言い残してサッサとどこかに歩き出してしまった。

 叔父さんは父さんが倒れた時に長期出張に出ていて、事件の後すぐに帰ってきてくれたけれど……そうだ、確かに病院には出入りしなかった。

 病院から出てくる僕を外で待つだけで、自分は一度も父さんに会ってないはずだ。

 二人はむかし喧嘩別れをして同居解消した過去があった。でも叔父さんの話によれば意外と仲は悪くなかったらしいから、きっと会いたいだろうと思って引っ張ってきたのに……なんか、また知りたくない一面を知ってしまった。

 目をそらしていた現実を、知ってしまった。

 現実はいつだってそこにあるのに、個人の解釈でこんなにも姿を変えてしまうのか……と思う。

 僕の知る世界と、叔父さんのる世界はきっと違うのだろう。

 理解はできなくても、寄り添うことはしたい。できる限りに。それが、家族への誠意だと思うから。


 ここ数日で、叔父さんに対する『ちょっと変わってるけど面白い人』だという認識がブレにブレてしまっている。

 僕に見せる姿と、周囲からの接し方と、元カノさんからの言葉。

 どれもまるで違う。

 どれが本当の叔父さんなんだろう?

 いや、そもそも……なんて、いるのだろうか。

 僕は彼のことを、左指がないだけの、至って普通の人だと思っているんだけどな……。

 

「越生くん」


 病室の扉が開いて、真っ赤なヒイラギの花束を抱えた真子が入ってきた。


「お見舞いに来たよ。お父さんの調子はどう?」

「ありがとう、真子。相変わらずだよ」

「そっか……」


 父さんの事件は新聞の一面を賑わせてしまったので、日胤川病院に入院しているのを知っているのはほんの一握りだ。

 真子はその数少ない1人で、僕が来れないときも父さんを見舞ってくれているようだった。ありがたい話だよね。







「へっ?」


 てっきり「そっか……」のあとにはいつものように「心配だね」「大丈夫だよ」「元気出して」の三つのうちどれか一つが来るものだとばかり思っていた僕は、思いがけない言葉に耳を疑う。

 な、なんて言った……?


「その人、お父さんってだけで、越生くんといつも一緒で、ズルいと思ってたんだぁ」


 真子は赤茶けた髪を揺らしながら、胸に抱えた髪と同じ色のヒイラギに顔を埋めた。

 すぅ、と胸一杯に花の匂いを吸い込んだあと、パチリとひとつ瞬きをしてから言う。


「……あれ? アタシ、なにか言った……?」


 言った。

 間違いなく言った。

 でも、キョトンとした顔で僕を見つめる真子からは戸惑いしか感じられなくて、僕は持ち上げた腰を再びパイプ椅子に戻す。


「……ううん、気の、せい、だと……思うよ」


 そう、気のせいに決まってる。

 最近、変な声が耳に飛び込んでしまって困る。

 『わらみみ』の時もそうだった。

 オカルトライターの叔父さんが喜びそうなネタだから、あとで教えてあげよう。

 真子は僕の隣に自分のパイプ椅子を引っ張ってきて、二人で他愛もない会話を交わす。

 意識のない父さんは、そんな僕たちの姿を昔と変わらずただ静かに眺めていた。





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