卒業後に再会した瞬間、あの頃の気持ちに気付いた話

シノノメヨシノ

第1話 再会と後悔

「あ…」


 思わず、声が漏れてしまう。慌てて空気を飲み込み空いた方の手で口を噤むが、もう遅かった。手元の文庫本に注がれていた視線が、つうと物惜しげに文字から離れ、上を向こうとするのが気配で感じとれた。決して目を合わせてはいけないような気がして、顎をくいと斜め上に捻る。頭一つ分こちらの方が高いから、こうすれば目と目が合うことはないはずだ。流れ込んできた人波に押し流され目の前の相手をドアに押し倒しそうになった時、咄嗟に掴んだ金属の手すりは、汗ばんだ手の熱が移ったのか、いつの間にか少し温くなっていた。外の空気は冷たいのに、車内は空気がこもって少しだけ温かく、自分の発する熱と交じり合い、さらに顔を熱くさせた。

 自分の心臓の鼓動は、こんなにもうるさく、はやかっただろうか。迂闊に息を吐けない。静かに呼吸をするのは、こんなにも難しいことだっただろうか。空気が重い。自分のすべてが自分のものではないように、思い通りにならなかった。

 顔を見られていないだろうか。気づかれていないだろうか。一瞬のことだし、混雑した電車内で人と人がぶつかるのは、よくあることだ。ぶつかったときに謝らなかったのはいくらか気が引けるが、相手はそこまで気に留めていないかもしれない。視線を下げれば、また本を読んでいるつむじが見えるかもしれない。

 しかし、そう思いながらも視線は覚悟を決めきれず、さらに上へ、路線図へと逃げる。久しぶりに見る駅名がずらりと並んでいる。かつて、通勤ラッシュに揉まれながら電車通学していた日々の記憶が、訴えかけてくる。なぜ、目の前の旧友に声をかけずにいるのかと。10年も時が経てば、その絆にも自信がなくなるなんて、あの頃の自分に言ったら叱られそうだ。ああ、情けない…。ため息をついてしまいそうだ。胃が痛い気がする。はやく、はやく次の駅が見えてこないだろうか。そうしたら、いっそ降りてしまおう。降りる駅ではなくとも、違う車両に移動してしまえばこんなに気まずい思いはしなくて済むだろう。目を閉じて、この後に取るべき理想の動きを想像する。…よし、いける。ひとまずイメージトレーニングで活路を見出したことに安堵して、力が抜けた。再び目を開けたその瞬間、自分が一息ついたときにやや俯いてしまったことに気付く。顔をあげて眼鏡ごしに見つめる鳶色の瞳と、目が合ってしまった。ぎゅ、と心臓が縮こまる。


「相変わらず、背、高いなお前」


 あの頃には絶対着ないスーツに身を包んだ旧友は、見た目に反してあの頃と変わらぬ砕けた口調でこちらに言葉を放り投げて来た。

 目が合ってはいけなかった。自分が向こうの記憶の中に残っていたことは素直に嬉しいが、同時に後悔する。あの頃の自分に会えるとしたら、大人げなく泣いて縋り付いてしまうかもしれない。或いは、こちらが怒られてしまうだろう。

 

 どうして、諦めた気持ちに今更気付いてしまったのか。

 あれは、今振り返ると恋だった。

 10年経った今もまだその火が消えずに燻り、胸を焦がしているのだと。

 目が合った瞬間に、気づいてしまった。

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