23話

 瞼を開ける。五十嵐がハッと何かに気が付いたように目を見開いた。

 僕は五十嵐の胸にボールを投げる。彼がボールをバウンドさせてこちらに向けて返す。

 これからやるのは焼き直し。何もかもが強引な自分にとって後悔しかない行動の再演だ。

 僕がボールを受け取った瞬間に行ったのはノーフェイクのドライブ。全神経を注いだ、後先を考えない最速の動き。膝が限界を超え、悲鳴を上げる。

 五十嵐は不意を突かれていた。この大事な一本でいきなり勝負を仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。

 だけど、それでも彼はこのドライブに反応する。反応せざるを得ない。なぜなら、彼にとってこのドライブは一種のトラウマだから。

 彼は四年前の失態を未だに引きずり続けている。二本目を行う前で見せた執着。それで疑惑は確信に変わっていた。

 それも当然だ。それだけの重さがあの大会にはあった。あのワンプレーで全てが決まった。敗北の責任を分け合えなかった彼の苦悩は想像を絶する。

 だけど僕は陰湿に、残酷に、最も嫌がるタイミングでその弱所を突く。

 ゴールの三歩前でボールを掴む。大股で一歩目を踏み出すと、ダンと大きく床が音を出した。

 五十嵐が反応して跳躍する。何としてもレイアップを阻止するために。もう一度あの失態を繰り返さないために。

 僕はその行動を引き出したかったのだ。

 二歩目。全力でブレーキをかけた。右膝の痛みに顔を歪めながら後ろに向かって跳躍する。上体を逸らしながら、強引にシュートを打った。

 五十嵐が僕より先に空中から落ちていく。彼の腕の更に上。ボールが放物線を描いた。リングの内で二度ボールが反発しネットを潜る。

 尻もちを突いて、コートに寝転んだ。野次馬のざわめきが体育館に反響する。それは僕の勝利を示していた。

 天井と僕の間に五十嵐が割り込む。彼が差し伸べた手を取って僕は立ち上がる。


「僕の勝ちだな」

「……ああ、俺の完敗だ。性格の悪さは健在だったな」

「うるせぇな。勝てばいいんだよ。勝てば」


 僕がそう答えると五十嵐は苦笑いする。それから目を細めて、両手を腰に当てた。


「……なんで勝負を仕掛けたか、だったな」

「……ああ。そういえば勝ったら教えてくれる約束だったな」

「なんだよ。その『いっけね、忘れてた』みたいな返事は」


 五十嵐がため息をついた。

 そんなこと言ったってなぁ……。実際に忘れていたのだから仕方あるまい。


「勝負に集中してたからな。気にしている余裕もなかったよ」

「そういうことにしておく。俺も別に大した理由じゃない」

「じゃあどんなしょうもない理由なんだよ」

「簡潔に言えば……ケイ、俺はお前に腹が立った」


 五十嵐は僕に人差し指を僕に突き付ける。


「無茶苦茶言いやがるな。勝負したかったって言うのは建前かよ」

「勝負したかったのは嘘じゃない。ただ、価値があるとか、ないとか。いつまでもウジウジと引きずっているお前にムカついた」

「それ、お前が言う?」


 たった一度の対戦、たった一度の敗北を四年も引きずっていた奴のセリフではないだろ。


「言うさ。俺は勝って、あの時よりも前へ進みたかった。ケイは離れて、風化を待った。別にそれはいい。逃げることは悪いことじゃない」


「けどな」と五十嵐は言葉を区切る。 


「逃げた先で他の何も見ようとしなかったのは問題だ。それどころかいつまでも後ろを向いているなんて論外だ。そんなに未練があるのなら、お前はバスケを続けるべきだったんだって、衝動的に言ってやるつもりだった。でも、もうその必要はなさそうだな」

「ああ、心配かけた」

「全くだ。まあ、頑張れよ。当たって砕けてこい」


 砕けたくはないけどな……。まあ、五十嵐の言わんとしていることは伝わった。後は腹を括るしかあるまい。

 五十嵐に背中を向けて体育館を見渡す。黛はすぐに見つかった。最前列でギャラリーに紛れることなく、真っ直ぐに僕を見つめている。

 僕が黛に近づく前に彼女が駆け寄ってきた。


「入江君」

「なんだよ」

「ごめん、ありがとう。君に助けられちゃったね」


 黛は薄く、吹けば飛んでしまいそうな声で言った。

 僕は首を横に振って彼女の言葉に応える。


「別に大したことじゃない。目の前に困ってる人がいたら助けるのは当たり前だ」


 かっこつけるために僕は偽りを口にした。僕は万能な超人ではない。未熟で手の届く範囲はとても狭いことをよく知っていた。

 けれど、助ける対象が黛玲子であったのなら、どんな無茶でもするつもりではあった。それだけ僕は彼女に参ってしまっている。


「入江君にとってはそうだったとしても、私にとっては違うよ。君にしてもらったことは私にとって大きな恩だよ。一生、忘れられない」


 随分と重い言葉を黛は口にする。それから僕のパーソナルスペースに一歩踏み込んで、僕の手を取った。労るように両手で僕の右手を優しく包む。

 その挙動に面食らって、僕はぱちぱちと瞬きをした。


「私にできることは何でも言って。必ず力になるから」

「なんでもって……」

「なんでもは、なんでもだよ」


 黛の浮かべた笑みは蠱惑的だった。見ていると引き込まれそうな。危ないことに手を出してしまいそうになる雰囲気を放っていた。

 それもこのシチュエーションと、僕が彼女に対して強い憧れを持っているからなのだろう。

 なんでも……その言葉に僕は深く考えてしまう。

 心の内の悪魔の囁く誘惑に流されて、彼女を連れてどこかに行ってしまいたい気持ちもある。けれど、僕にはやるべきことがあった。

 妹達のこと、山川のこと。この二つの負債をどうにかしなければ僕はずっと、後悔し続けていくことになるだろう。

 バスケを失った時のような自分への失望を再び抱くことになるだろう。

 それだけは絶対に嫌だった。

 思考を重ね、一つ、思いついたことがある。けれどこれはあまりにも彼女らに対して不誠実な行為であると自覚できる。

 僕はきっと、妹達に呆れられるだろう。

 黛と山川に失望されるだろう

 だけど、僕が僕であるために、それが必要だと確信できた。

 僕は黛と目を合わせた。気が付いた彼女は「何?」と首を傾げた。


「……黛、今度の夏祭り、一緒に行かないか」


 彼女は微笑んだまま頷く。僕の胸には痛みが走った。

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