14話

『ただでさえ黛は人気が高いんだからさ。狙っているのはお前だけじゃないって話』


 かつて僕にそう言ったのは間違いなく五十嵐である。

 あの時は僕を励ましているように思えた。けれど、この状況を見てしまった後ではその意味は大きく異なる。今にして思えば威嚇、警告のように思える。きっと、僕を彼女から遠ざけるための一言だったのだ。

 見て見ぬふりをして、今すぐこの場から逃げてしまいたくて、一歩、二歩と後退りする。けれど、僕の行動を阻害する人間がいた。山川が、腕同士を絡めて僕を捕縛していた。


「どこに行こうとしてるの。逃げる気?」

「いや、逃げるってわけじゃ……。タイミングが悪いというか、なんというか」

「何それ? 今ここで時間を置く必要はある?」


 確かに山川にとってはそうかもしれないけどさ。僕は本当に困るから勘弁して欲しい。


「楽しみにしていた小説の新刊が出るの忘れてた」

「リーダー本読まないじゃん」

「小腹が……」

「さっき、昼食べたのに?」

「そろそろ地震が起きて、避難誘導が始ったり……」

「しーなーい! 何、リーダーどうしたの? 行きたくないの?」


 今だけは絶対に行きたくない。


「……やっぱり止めないか?」

「そんなことを言わないの。つべこべ言わずに私への恩返しをしなさい!」


 腕を強引に引かれて、散歩中に抗議する犬みたいな気持ちでフロアに足を踏み入れる。当然のことながら、黛や五十嵐との距離が近づいてくる。


「リーダー、どれがいいと思う? 朝顔の柄なんか涼し気でいいよね~」

「そ、そうだな」


 ウキウキと上機嫌な山川とは対照的に、僕の気分は下へと向かう。なんだか体を内側からひっくり返して、火で炙られているような気分になる。焼き魚かよ。

 ちらりと少し離れた場所にいる五十嵐と黛を見た。まだ、二人の関係がはっきりしたわけではない。もしかしたら勘違いって可能性もある。声をかければはっきりとさせられる。

 でも、もしも僕の考えが勘違いではなくて、五十嵐と黛がそういう関係であったなら……僕は立ち直れるのだろうか。

 シャツの裾を引かれて、横にいた山川に目をやる。


「ちょっと、聞いてる?」

「ああ、悪い。聞いてなかった」

「まったく、しっかりしてよね」

「で、何の話だっけ?」

「リーダーが着るならどんな浴衣がいい? ピンク? ふわふわなリボンが付いてるといいかもね」

「なんで可愛い系の選択肢しかないの。僕は男だって」

「ごめん、ごめん。この辺には可愛いのしかなかったからさ。あっちに男物があるっぽいから行ってみようよ」


 僕の考えなんて知らない山川は僕の手を引く。気が付いた時にはもう遅かった。少し離れた位置の五十嵐とすれ違い、目が合う。一瞬、時間が止まったような感覚に襲われた。

 五十嵐が黛の手を取って僕と反対側へ速やかに抜け出していく。追いかけるか、それとも見て見ぬふりをするべきか決められない。その状況で僕の手首が掴まれたまま、視線を強制的に変えられる。


「ねぇ。どこを見てるの。何度も言わせないでよ」


 山川が眉間にしわを寄せていた。冷たい声色は彼女のイメージとは大きく異なる。思わず気圧されて、僕は目を逸らした。


「いや……その、知ってる人を見かけたもんだから」

「変に取り繕わなくていいよ。黛さんでしょ? わかってるから」


 言い当てられたことに面を食らった。震える声にハッとして山川を見る。彼女の瞳に涙が滲んでいた。そこで僕は自分が何をしたのか自覚する。


「言ったでしょ、今日はデートだって。他の子を見て……私を疎かにしないで」


 本当はわかっていたはずだ。山川がどのような気持ちでこの場にいたのか。気合いの入った服装。山川本人や妹を介しての念押し。機嫌だって、バイト中とは比較できないぐらいに良かったのだから。

 けれど、僕は彼女の優しさに甘えていた。そのことを受け入れられず、見向きもしてこなかった報いを、ここで受けることになった。


「ごめん。今日はもう……帰るね」


 山川が駆け出す。だんだんと遠ざかる背中を僕は追い駆けることができなかった。

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