4章 兵は神速を貴ぶと言うが、速度を出しすぎて転ぶな。

9話

「よっ、元気してたかな?」


 スタッフが待機する控室に顔を出すと珍しい顔がそこにいた。さっぱりとした短髪に極端な猫背。頬杖をつきながら手を振っている。犬井信二さん。今となっては数少ない先輩アルバイトだ。僕がバイトリーダーになってからはシフトを散らされることが多く、年に一度か二度しか会わないレアキャラだった。


「ええ、何とか。犬井さんこそどうなんですか? 大学も三年だと忙しいんでしょう?」

「まあ、それなりに。でも、流石に高校三年生と比べるとまだマシだよ。受験勉強だってないしね」


 彼は「だから君ほどじゃないよ」と締めくくるけれど、僕は就職組だ。受験勉強はしないし、最後の大会に向けての追い込みなんてもうない。だからとっさに言葉を返せなかった。


「……犬井さんはこれからシフトですか?」

「いいや、もう終わったよ。帰る前に賄いを食べて帰るんだ。店長が用意してくれるって言うから楽しみでね」

「そいつは良いですね」


 店長の作る賄い貴重だ。何せ店長は仕入れに接客と忙しく動いていることが多い。基本的にまかないはスタッフが自分自身で作ることになる。

 例外はある。新メニューの開発中や、レシピの微調整を行うときは店長が腕を振るって、スタッフに意見を求めるのだ。


「だろう? いやー、最近のボクはついてる」

「何かいいことでもあったんですか?」

「おっ、気になる? 聞きたい? 聞きたいのかい?」


 その言葉を待っていたかのように犬井さんがぐいぐいと食いついてくる。この人は悪い人ではないのだけれど、こういうところは面倒だった。それをなるべく表情に出さないようにして、当てずっぽうに返答する。


「……ああ。また彼女できたんでしたっけ?」

「そう! 十五日はシフト変わってくれてありがとう。その日、彼女がどうしても出かけたいって言うからさ。この恩はいつか必ず返すよ」

「僕は別にいいですけどね。稼げれば。今月ピンチなんで」


 というかピンチじゃなかったときはない。重ね重ね言うが、うちは火の車で絶賛回転中なのである。シフトが増えて、給料が増えてくれるのはありがたい。少なくとも身体が持つ範囲であれば。


「ちなみに、今回の彼女はどこで?」

「つい先日運命的な出会いをしてしまってね。雨に濡れる彼女に僕が傘を差しだして……彼女はボクの行為に心打たれたそうなんだよ。人助け、やってみるものだね」

「……僕だったら話しかけませんけどね」


 ドヤ顔の犬井さんを一言でぶった切った。

 そんな面倒くさい地雷抱えていそうな女はトラブルの種にしかならなそうだ。僕は自分の保身が先に来る。

 だから僕は根っからの善人にはなれないのだろうと思う。どうしても利己的なのだ。


「おいおい、やっかみか? 羨ましいのかい?」

「いや、犬井さんのことは……別に」

「なんだよその反応!」

「だって、犬井さんの彼女ことごとく地雷持ちのクズ女じゃないですか」

「そ、それは忘れてくれ!」


 犬井さんは惚れっぽい。なんというか、ちょろいのだ。ちょっと優しくされたら好きになっているし、今回だってシチュエーションに酔っているのが見て取れた。

 加えて女運がない。交際で失敗して落ち込んで、また別の女性に引っかかる。この連鎖回数を僕は覚えていない。それこそ永久機関のようにぐるぐる回していた。あの反応からして今でも変わっていないようだった。


「でも今回のマキちゃんはそんなことないよ。すっごくいい子だし、話をしてると愛されてるって感じがするんだ!」

「それ、前の彼女にも言ってませんでした? いや、僕の知ってる前の彼女はもっと前か」


 いくら犬井さんが惚れっぽく、別れやすいとは言っても決めつけは良くない。僕と会っていない間に長続きした期間もあったかもしれない。確認はしておくべきだろう。


「えっと……あれから何人と別れました?」

「聞き方のささくれ具合エグくない⁉ せめて『付き合った』にしてよ!」

「ああ、それはすいません」


 心のこもっていない謝罪をする。頭は下げなかった。


「まあ見てなって。今度の彼女とは絶対に幸せを掴んでやるからさ!」


 それから再び犬井さんの惚気話を少し聞いた。それから僕はシフトに入る。今日は特に特筆すべき点がないというぐらいに平凡な日であった。

 妹が襲撃をかけてくることもなければ、山川がいないから堂々とサボりをしている人間も見当たらなかった。

 黛がいないのは残念ではあったけれど、それだってちょっと前の僕からしてみれば当たり前のことだ。

 その日は規定時間の仕事を終えて、退勤。風呂に入って寝た。


 そんな生活をすること一週間。十月九日。僕はいつも通りに学校から直接『三島コーヒー』に向かった。そして控室にはまたしても、極端な猫背の犬井さんが居座っていたのだった。

 ただ、この間までのカラッと晴れた夏場の陽気みたいなテンションは失われている。今はジメジメとした湿気を含む梅雨が正しいだろう。足音に反応した彼は僕を見るや、か細い声で呟いた。


「五股かけられてた……んだけど」

「流石に発覚が早くないですか?」

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