幕間 開戦のち停戦協定


 今日の仕事が終わった。ロッカーに引き上げる途中「お疲れ様」と声をかけられる。彼とは今日初対面だったけれど、気さくに声をかけてきた。

 見る限りでは普段は暗い人だと思うけど、仕事中はスイッチで完全に切り替えている。多分彼の役割がそうさせている。彼もまたバイトリーダーなのだ。

 入江君もリーダーとはいえ、アルバイトという立場である。だから替えが効くようにしているのは必然だ。リーダーが複数人いてもおかしくはない。考えてみれば当たり前のことだけれど、私はなんとなく入江君しかそういう役職にいないのだと勝手に思っていた。


「お疲れ様です」と頭を下げてからロッカーに引き上げる。制服のシャツのボタンを上から外して、冷めた空気に肌を晒す。こうしているとなんとなく水泳部に所属していた時のことを思い出す。泳ぐことが好きだった。水中にいる間だけは私は他のことを考えずにいられるから。それは私にとって何よりも大切な時間だった。だから、その場所から去る準備をするロッカーはあまり好きになれなかった。

 金属の扉が軋む音がした。自分以外の誰かが更衣室に入ってきたのだ。その正体はすぐに明らかになった。三つ編みに黒ぶち眼鏡。その特徴はこの喫茶店に一人しかない人物の物だった。


「おっ、レイちゃんも上がり? お疲れ様~」

「うん。山川さんもお疲れ様」

「そのさん付けもうやめない? 同い年なんだからさ」


 そう言いながら彼女は私のむき出しの肩に触れた。私の体温よりも格段に冷えた指先に私は驚いて声を上げてしまう。


「いいね~その反応」

「……私は良くない。びっくりするでしょ」

「ビックリさせたかったの。だってレイちゃんあんまり表情崩さないじゃない?」


 山川さんはそう言って不敵に笑った。

 確かに私はそこまで表情が豊かなではない。けれど、それでこのような仕打ちを受けるのは納得がいかなかった。


「とてもびっくりした。これで満足かな?」

「そんなに怖い顔しないでよ。悪かったからさ」

「……そんなに怖い顔してた?」


 お手上げと言わんばかりに両手を挙げる山川さん。それを見て私は右手で顔を覆った。彼女は「良いよ、気にしてない」と応えた。それから私の隣のロッカーの鍵を開ける。


「レイちゃんはもうバイト慣れてきた?」

「そうだね。まあ、慣れてきたと思うよ」

「リーダーがいなくても案外何とかなるでしょう?」


「そうだね」と私は頷いた。

 仕事は彼がいなくたって何とかなる。そうならないといけないだろう。けれど、私にとってこの場所は、本当の彼と会話できる数少ない場所でもあった。だから少し物足りなさはある。

 ロッカーの内側に貼っていたシフト表をなぞった。デジタル版ではないそれは自動で更新されることはない。十月十五日。入江君がシフトに入ることになった日付。そこには代わり映えのない、名前だけ聞いたことがある人達が並んでいる。一番上の人物に私は斜線を引いていた。


「犬井さん、だったっけ。さっきの人」

「ん? ああ、そうだね。犬井信二さん。大学生。多分今働いている人の中だったら一番バイト歴が長いベテランだよ」

「あの人が休みになったから、入江君が出ることになったんだよね」


 私の計画がずれ始めた原因に触れる。それを解決しない限り、私の望む未来は訪れることはない。だから、この店の事情に詳しい山川さんに話を聞いておきたかった。


「そうだね。まあ、よくあることだよ。都合だのなんだの、それっぽく言ってるけど結局のところ、アルバイトなんて責任感の軽さが売りみたいなところはあるしね」

「……それは、山川さんが思っているだけなんじゃない?」

「ちょっ、そんなことは……さてはリーダーに情操教育されたな? 私は続けているだけマシな部類だって」


 そうなんだ。私はそこまでアルバイトの経験がないからわからなかった。どうやら、世の中にはもっと無責任な人がいっぱい居るらしい。


「けど、どうして犬井さんのことを聞くの? もしかして、興味あるの? ああいうのがタイプだったりする?」


 山川さんは興味津々に、新しいおもちゃを見つけた子供みたいな表情で私を見た。首を振って「いや」と返す。


「趣味じゃない」

「うわ、即答。犬井さん泣くよ~」

「それは嫌だな。面倒そうだし」


「ハハハ」と山川さんは乾いた笑いを漏らす。それから「じゃあ」と前置きして、こちらを見た。一瞬だけ視線が射貫くものへ変わる。彼女がそのような目をするのを初めて知った。


「レイちゃんは、どんな人がタイプなの?」


 空気が少し冷めた気がした。これはたぶん探りだ。十中八九、私の予想は当たっていたのだろう。彼女は私にとっての障害であることは間違いない。そう確信できる殺気のようなものが溢れ出ていた。

 本来、私は敵対することを望まない。一方的に敵対視することはあっても、気づかれて警戒されることは勝率が下がる。だから、相手が気付いた時には勝っている。そんな状態こそが私の理想だった。

 けれど、それは横並びでのスタートだったらの話。山川さんは私の何歩も先にいる。ならば存在をアピールして、こっちに気を払ってくれた方が勝算はあるはずだ。

 それに私はこの場所以外にも彼に接触できる。行動回数では間違いなく有利。ならば、狙うは相手の遅延、そして物量による正面突破しかない。

 覚悟は決まった。決めるしかなかった。この先にある目的のためにも。


「私は……入江君がタイプだよ。ずっとね」


 胸に手を当てて、自信満々にそう答えた。虚勢、ブラフ上等。少しでも警戒心を持ってもらえるように回答を押し付ける。掌はじっとりと湿っていた。

 山川さんが目を閉じて、長くため息をつく。眼鏡の下から指を入れて目柱を抑えた。それからもう一度私を見る。


「そっか。奇遇だね。私もなんだ」


 不敵な笑み。私の介入なんて意に介してもいないと言わんばかりのそれに圧倒されそうになる。けれど、その気分だけは表情に出さないように努めた。そうしてしまったら彼女の圧に負けて飲み込まれてしまうような気がしたから。自分の気持ちを上塗りするために慣れない作り笑いをする。


「山川さんが入江君をそんな風に見てるとは思わなかった」

「そういう風に見せていなかったからね。けれど、これでそうも言っていられなくなった。私たちはお互いの幸せを奪い合うことになる」

「……そうだね」


 それは紛れもない事実だ。私たちが望む関係性。その席は一つしかない。どちらかは間違いなくその席には座れない。残酷だけれど、私たちは受け入れざるを得ない。


「でも、その前に停戦協定を結びたい」

「……待ってレイちゃん。なんて? 戦いを吹っかけておいていきなり停戦協定?」

「うん。ちょっと、私だけでは解決できないことがある」


 山川さんの琴線に触れたのかムッとした表情を見せた。それからロッカーの中へ手を伸ばす。ロッカーの扉で表情が隠れて、淡々とした言葉だけが耳に入る。


「そんなの知らないよ。レイちゃんとリーダーとの間にどんな問題があるのかはわからない。でもそれで私が足を止める理由にはならないでしょ?」

「ごもっともだね。でも、今回に限って私達は手を結べると思う」

「……それはどうして?」


 顔を出して彼女が睨む。眉間にしわが寄っていた。彼女の警戒心を解くように、ゆっくりと落ち着いて語りかける。


「十月十五日」

「……リーダーが犬井さんの尻拭いをする日だよね。それがどうかしたの?」

「とぼけなくていいよ。私が思いつくんだ。山川さんが思いつかないはずがない。その日に地域の夏祭りがあることは知ってるよね」

「何が言いたいの? 回りくどいのは好きじゃないんだよね。私」

「そうだね。単刀直入に言おう」


 人差し指で山川さんを指差す。教壇にいる教師の気分をほんの少しだけ味わえた気がした。それから自分の回答を口にする。


「私はね、入江君の休みを取り返したい。それから夏祭りに誘いたいんだ。山川さんだって、そうしたいでしょう?」

「……できるなら、ね。けど、そんな簡単なことじゃない」

「不可能を可能にするための停戦協定だよ。入江君を休みにした後は自由行動。各自好きなように動けばいい。彼と忘れられない一夏の思い出を……ってね。悪くない提案だと思うんだけど……」


「どうかな?」と私が山川さんに問う。長考の後、彼女は頷いた。

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