8話


 放課後になって黛が慌てて教室を出ていった。彼女にしては随分と珍しい行動だ。普段の彼女は常に余裕を持ち、先んじてことを運んでいく傾向がある。けど、あくまで個人単位での話だ。流石にバイトのシフトには敵わないらしい。

 普段の僕もあんな感じで教室を出ているんだろうな、なんて考えながら席を立つ。今朝も黛には話したけれど僕は今日休みなのだ。特に用事も持ち合わせていない。そのまま家に帰るだけのスケジュールなんて久々な気がした。

 せっかくなのでどこかに寄り道をしてみようか? ファミレスや喫茶店は普段から賄いを食べているから除外するとして、この近くに何かいい暇潰しスポットはあっただろうか……。そんなことを考えていると筋骨隆々な坊主頭。左肩に鞄をかけた五十嵐が僕に話しかけてきた。


「おっ、珍しいな。今日はオフか?」

「ああ、流石に毎日働けるほどタフじゃない」

「そりゃそうか。まあ、普段の授業態度からでも疲労がにじみ出てるもんな」


 五十嵐がへらへらと笑いながら正面に立った。

 遺憾だ。僕はそこまで授業態度は悪いつもりはない。むしろ、品行方正で真面目な生徒だと──いや、そういえばこの間数学で居眠りしたばかりだった。進学を考えてはいないとは言っても、怒られるのは好きじゃない。あのようなことは少なくしないとならないだろう。


「それよりも五十嵐は急がなくていいのか? 部活出るんだろ?」

「んや、今日は俺もオフ。根詰めすぎるとオーバーワークになる。大会前に怪我だけはしたくないからな」

「……そうだな。身体は大事にした方がいい」

「ケイ、なんか爺ちゃんみたいなこと言い出したな」

「僕は本気で心配してんだよ、バカ」

「あ、バカって言ったな! バカって言うやつがバカなんです~」

「うわ……小学生以来だな、そのフレーズ。この歳になって使う奴いるんだ」


 身体はでかいのに悪口の成長が感じられない。それだけ言い慣れていないということなのだろうか。いや、こいつの場合ボキャブラリーが更新されていないことも考えられる。まあ、深く突っ込むのはよしておこう。


「でもまあ……ケイに言われると重いな。下手するとコーチや監督よりも説得力がある」

「だろ? そこに関しては一家言ある」

「……あんまり誇らしげに言うなよ」


 身体って言うのは自分が思っているほど思い通りにはならない。そのことを僕は学んで、よく知っている。彼に僕と同じ思いはして欲しくなかった。

 五十嵐が目を伏せて、首を横に何度か振る。


「重い話になったな。やめようぜ、この話。せっかくのオフなんだから」


 その件に関しては僕も同感だ。この話をいつまでも続けていたって事態は何も変わってはくれない。だから「そうだな」と返事をした。


「五十嵐、せっかくだしどっか寄って行こう。オフが重なるのなんて久しぶりなんだからさ。いい感じに暇をつぶせる所はないか?」

「ケイのバイト先」

「五十嵐、お前は僕が休みの日まで職場に顔を出したいと思うのか?」

「出してそうだけど?」


 そう言われてしまうと否定できないのは確かだけどさ……。そんな「違うの?」みたいな目で僕を見ないでくれ。


「……まあ、今回は無しだ。他にないか?」

「じゃあ、バスケットコートに行こうぜ。お前ん家の近くにあっただろ? 勝負しようぜ。ワン・オン・ワン」

「なんでお前と勝負しなきゃいけないんだよ」

「そりゃ、お前が勝ち逃げしたからに決まってんだろ。ずっと前から言ってるじゃないか」


 当然のように五十嵐が言う。

 僕は以前から五十嵐が勝負に誘ってくる度に断っていた。五十嵐が何で僕との勝負に拘るのかがわからない。それに今の僕と彼が勝負したとしても一方的な内容になるだけだと思う。


「勝ち逃げってなぁ、別に僕はお前に勝ったつもりはないぞ」

「それでも勝ちは勝ちだ。リベンジをさせろ」

「今の僕との勝負に価値なんてないぞ。時間の無駄だ。他のことをやれ」

「俺にはあるんだよ!」


 むんっ、と両の拳を握って意気込む五十嵐。何が彼をそんなにも駆り立てるのやら……。僕は彼に両手の掌を向けて、落ち着けとジェスチャーをする。


「だとしても、また今度な。今はそれどころじゃないんだ」


 荷物をまとめて、二人で教室を出る。階段を下っていると、その途中で彼は思い出したように切り出した。


「……それって、黛からの誘いを断ったことに関係してる?」


 なんで五十嵐が知ってるんだ。いや、登校中だったし、知っている人間がいるのは不思議ではないか。噂として広まってしまったのだろう。

 その過程でどんな尾ひれがついているのかはわからないから不安になるが……広まったものは仕方がない。割り切って自然鎮火されるのを待とう。というかそれしかできない。


「それとは関係がない」

「そうか、ちなみに断ったのは本当か?」

「……マジ。本当に不本意ながらだけどな」

「だろうな。お前が黛の誘いを断る理由が思いつかない。ちなみに何で断ったんだよ」

「バイトのシフトが入っちゃったからだよ」

「んなこと構ってる場合かよ」


 僕もそう思う。本来であればバイトをサボってでも実行しなければならない出来事だ。それぐらい僕にとって、黛からの誘いは一世一代の大イベントなのだ。五十嵐もそのことをよくわかっている。けれど、そうできない事情も僕にはあった。


「半端な勤務態度を見せるわけにはいかないんだよ」

「……お前そこまでワーカホリックになってるとは思えなかったけど」

「ああ、いや、そういうわけじゃない」

「じゃあどうして」


「ここから先は他言するな」と武士のような前置きをして、五十嵐が頷くのを確認してから再び話始める。


「黛が先月末からバイト先で働いてるんだよ」

「なんだそれ、聞いてないぞ」

「言ってなかったからな。それに僕がまだ受け入れられていなかった。一杯一杯だったんだ」


 勢いよく食いついた五十嵐を両手で宥める。気分はさながら闘牛士。赤い布があれば完璧だ。冷静さを取り戻した五十嵐は人差し指をこめかみに当てて、考える素振りを見せる。


「なるほど、最近仲良くなった理由はそれか? だから昼にあんなに話せたりしたってこと?」

「まあ、そんな感じだ」


 正確に言えばあの時この関係性を知っていたのは黛だけで僕は知らなかった。けれどそれを言い出すと僕の奇行っぷりが露呈するので黙っておく。未だに思い出しても頭が痛くなる。


「それで、真面目なイメージを崩したくないから断った、と」

「それもある」

「別にいいんじゃね? そもそも真面目に思われる必要ってある?」

「突拍子もないことを言い出すな、少なくとも不真面目に思われるよりはいいだろ」


 人差し指を立てて「チッチッ」と左右に振った。うぜえな。


「どうかな、不良の方が女ウケが良かったりする場合もあるだろ?」


 ああ、なるほど。確かにそういうこともあるのかもしれない。ステータスを真面目に全振りした人間よりもある程度「遊び」があったほうが面白かったりするしな。


「でも、黛がそういうのがタイプってのも限らないだろ」

「そうか? 黛自身がどちらかと言えば不真面目寄りじゃん。シンパシーとか感じるところがあったりするかもよ」

「……確かに」


 黛は割と居眠りもするし、最近関わっていると意外とふざけるタイプであるのはわかってきた。そうしてみると五十嵐の言ってることは的外れではないかもしれない。


「でも、僕がなりたい人間はそういうのじゃない。だから、そういうのは無しかな」

「真面目だねぇ……。でも、そんなどっちつかずの状態でずっと放置しててさ、誰かにかっさらわれても知らないぜ?」

「……どういう意味だ」

「別に。言葉通りの意味だよ。ただでさえ黛は人気が高いんだからさ。狙っているのはお前だけじゃないって話」


 五十嵐の言ったことは当たり前のことだった。けれど、僕はこれまで考えることを避けていた。僕は黛に憧れている。けれど彼女は自分とは違う人種で、手に入らないのが当たり前で、近づくことすらためらわれた。諦めることに慣れていた。

 けどここ数日になってその前提が大きく崩れた。僕が見える世界が大きく変わってしまった。彼女を知るたびに諦めがつかなくなっていく自分がいた。

 もしもこの気持ちが本物で、嘘がないのなら。僕はこれまでの姿勢を変える必要があるのだろう。不相応だと笑われるとしてもアプローチをするべきなのだろう。

 これから先、後悔しないように。

 僕は「そうだな」と五十嵐の言葉を肯定した。

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