7話
いつもの通学路を自転車で走り抜けていく。途中で自分と同じ制服の男女が歩いているところを追い越していく。その途中でやけに目立つ黒の長髪、その特徴が当てはまる人物は一人しかいない。本来であればもう少し後ろの時間帯に登校しているはずだけれど、彼女にだって気まぐれはあるのだろう。
速度を落として黛の横につけ声をかける。それはこれまでの僕だったら考えられない行動だった。
「おはよう、黛。今日はちょっと早いんだな」
「ああ、入江君おはよう。今日は早く起きちゃって」
「そうなんだ」
僕が頷くと黛が「ところで」と前置きをする。僕をじっと見る目つきは真剣そのものだった。こういう彼女はなかなか見られない。
「来月の夏祭りに行かない?」
彼女から飛び出てきた言葉に大層驚く。突拍子が無くて、それでいて偶然にも妹との会話がダブっていた。
それから言葉が出てくるのに時間がかかった。ちょっと待てよと。もしかしてこれはギャグで言っているのかと迷ったのだ。真剣な表情からのボケは鉄板と言えば鉄板だし。
「……どうして急に夏祭りなんだよ」
「バイトの給料が出た後で、うってつけの遊び場所だなぁって思ったからだよ」
「ああ、そういえばそんなタイミングだったな」
やっぱり給料日は誰もが一瞬で記憶するのだ。僕もバイトを始めたばかりの頃、給料日だけは真っ先に覚えたような気がする。
「稼いだお金をどう使うのか考えるのも、アルバイトの醍醐味だよな」
「うん。今から私もウキウキだよ」
「夏祭り、そんなに楽しみなのか?」
黛といい、妹達といい、今日の女性陣はやたらと夏祭り推しだな。何かあるのだろうか。
僕も夏祭りは好きだ。
「だって、浴衣でしょ。屋台の食べ物でしょ。それらが自分のお金で買えるのがわくわくするし……それに花火だって見たい」
黛は指折りで楽しみを数えて、微笑んだ。
花火……最後に見に行ったのはいつだっただろう。確か小学生の頃に行ったきりだった気がする。中学生以降は部活も本格化してそんな暇なかっただろうからな。
「ねぇ……入江君聞いてる?」
「え? ああ……悪い。ちょっと考えごとをしていたんだ。何だ?」
「入江君は私の誘いを受けてくれるのかな? って」
それは願ってもいないことだ。僕にとって彼女の誘いは最上の物だった。けれど、僕は首を横に振った。不本意ながら。本当に渋々。
「……ごめん、行けない」
「どうしてダメなの?」
意外だったのかきょとんと首を傾げた。なんでそんな顔をするんだろう。彼女はわかっているはずなのに。
「黛は意地が悪いね」
「私がいじわる? どうして?」
不本意そうな彼女の表情。それを見て僕は事情をなんとなく察した。
「……十月のシフト表は見た?」
「見たよ。でも、入江君バイト入ってなかったはずでしょう?」
「やっぱり」と僕は呟いた。十月十五日。その日は確かに昨日まで予定で埋まっていなかった。けれど、状況が変わったのだ。
昨日の今日だ。自分が当事者では無ければ確認なんてしないかもしれない。そうなると意地悪だったのは僕だったかもしれない。
「欠員が出てな。昨日急遽ヘルプを頼まれてさ。予定もなかったし、請け負ったんだ」
「そうだったんだ」
「グループに連絡出てないか? 『シフト表更新』って」
僕が促すと黛がスマホをちらりと見た。「ホントだ」と彼女が頷く。僕は彼女に業務連絡についてまだ教えていない。色々と一度には覚えきれないと思ったから、後回しにしていたのをすっかりと忘れていた。
登校中に仕事の話をするのは気が進まないけれど、知らないと不便なのは間違いない。だからここらで教えておくことにした。
「グループラインには休みの連絡とか、シフトとか色々店長が情報を載せてくれるから、仕事に行く日は特に確認しておいた方がいい、ある程度状況がわかっていた方が働くのが楽になる」
「そこまで変わる?」
「結構な。『一人病欠で、ヘルプが誰も来れない』ってわかったら忙しくなるのは想像がつくだろ?」
「そっか」と黛が頷く。
僕が彼女に話した例は極端だ。そんなことは滅多にない。基本的にはヘルプは付いてくれている。ただ、よくある例はわかりづらいのだ。『サボりがちな奴がヘルプに来るから、むしろ忙しくなる』なんて彼女にはあまり伝えたくはない。休みの日に引きずり出されてモチベがいつもより下がるのはわかるけどさぁ……普段よりもサボりに力を入れるのは止めてくれ。頼むから。
「何かあった時はここに連絡すれば、店長が対応してくれる」
「じゃあ私が体調不良で休みたいときはここに連絡するんだ?」
「そういうこと。後は店長が空いてる人員に電話かけて、出れる奴がヘルプに行く。誰が代わったかもここでわかるから。もし代わってもらったらお礼を言っておくといいよ」
「わかった。ありがとう、入江君」
黛が儚げに微笑む。ブレザーのポケットにスマホを入れた。僕は「どういたしまして」とたどたどしく言葉を返して、強くハンドルを握った。
僕は未だに黛と話すことに慣れていない。僕にとって彼女は、遠くから眺める柵に囲まれた美術品のようだった。
自分に向けられている笑顔をちゃんと受け入れることはまだ難しい。月曜日の自分から見たら贅沢な悩みだと思う。けれど、それだけの異常さが近日は感じられていた。
「でも、残念だな。色々と教えて貰ったお礼にイイことしてあげようと思ったのに」
彼女の唇がやけに艶っぽく見えた。そういう性癖がないにしてもフェチになってしまいそうになる。周囲の生徒がひそひそと話しているのがわかった。
それにしても何だ? 良いことって⁉ いや、めちゃくちゃ気になるんだけど! 遠くに見える山々に叫びたくなる。
黛に夏祭りに誘われた時点でもすごく良いことだと思うのに、プラスアルファで何かついてくるのか⁉ そんなの反則だろ。めちゃくちゃバイトサボりたくなっちゃうじゃん。
「……イイことってなんだよ」
「別に、入江君には関係のないことでしょ」
「まあそうだな」と僕はそっぽを向いた。彼女がにやけているのがチラリと見えた。
そっか、教えてくれないんだ。まあ一度断ったことだし、深堀りはできないな。本当に惜しいことをした。スケジュールを今すぐ組み直したい。
最悪の手段としてバイトをすっぽかすなんてものもあるけれど、それは止めた。目の前で堂々とサボり宣言をするのは自分の評価を下げかねない。話を変えて、この煩悩から距離を置くことに決めた。
「そういえば、今日は僕がいない日だったけど大丈夫そう?」
「大丈夫だと思うけれど、どうしてそんなことを聞くの?」
「そういえば初めてだったなと思ってさ」
「心配してくれるんだ?」
少し離れている道を眺めていた僕の視線に黛が割り込んでくる。意外とこの話題に食いつきがよくて助かった。
「まあ、それなりに。まだ時間たってないし、慣れないだろ?」
「大丈夫だって。山川さんだっているしね」
「ああ、そっか」
完全に知り合いがいないわけではないなら一安心か。黛は自分から積極的に行くタイプではない。だから山川のようなタイプが一人いるとコミュニケーションは円滑に進むだろう。
「だったら居心地は悪くはないな。仕事は忙しくなりそうだけど」
「あっ、ひどいこと言うね。山川さんに言いつけちゃうよ」
「それは勘弁して欲しい」
あいつに聞かれたら何を言われるかわからない。加えて手痛い反撃がやってきそうだ。
僕は苦笑いを浮かべて、校門をくぐる。
「入江君、山川さんとは、長い付き合いなの?」
「それなりに長いよ。一年の時からバイトで一緒だったからな」
「じゃあ付き合いはそろそろ三年目なんだ?」
「そういうことになるな」
僕と山川はアルバイトを主軸に高校生活を送っている。だから下手したらクラスメイトよりも交友を深めているかもしれない。
「……そうか。もうそんなになるんだな。腐れ縁というか、なんというか。最初はどっちかが音を上げて、さっさと辞めると思ってたんだけどな」
見ての通り山川は気が付いたらすぐに弱音吐く。それにサボる。加えてお客さんの愚痴を漏らすし、あとサボるし。でも、仕事はできるのが無性に腹立つんだよな。
逆に僕は物覚えが悪い方だったから、最初のうちはフォローして貰っていたりもした。彼女がいなければ僕はここまでアルバイトを続けることはなかったかもしれない。
そういう意味では僕は彼女に感謝すべきなのだろう。
「……いいな」
「何が?」
「働いているときの二人の阿吽の呼吸というか、アイコンタクトで通じ合える……みたいな感じがするから」
今度は黛がそっぽを向く。僕らの隙間を縫う風が少しだけ冷たく感じた。
「そんなに良いものかな?」
「うん。信頼関係を築けているって感じがしてさ。私にはそういうの無いから……。羨ましい」
「そりゃあ、働いて数日じゃ、そうはならないだろ」
そうなられたら逆に怖い。お前は僕の何を知ってしまったんだってなる。
彼女が黙って、歩みを進めた。足音のサイクルが早まった気がする。無言の時間が続くのが息苦しくて、僕は言う。
「でも、まあ……いつかなれるって」
「本当にそう思う?」
「ああ、もちろん」
僕がそう言うと黛は「そっか」と呟いた。
「じゃあ、山川さんを目指して頑張るよ」
「その目標は『山川に負けないように』に再設定した方がいい。サボり魔を目指さないでくれ」
「そうだね」
黛がくすりと笑って「じゃあ、またあとで」と手を振った。僕も「また教室で」と手を振った。歩いていく黛を僕は見送る。風で揺れる黒髪が綺麗だった。目に焼き付けるようにじっと見て、それから駐輪場へ向かった。
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