幕間 かつての夢、今の夢。

 昔の夢を見た。初めて家出をした日のことだった。きっかけはあまり覚えていない。自分にとって何か耐え難いことが起きたのだとは思う。

 十月十五日。夏休みも明けて一か月経った頃だった。その日は縁日で、自分の家の近くでも人がたくさん集まっていた。

 二階の自室から見た楽しそうな人たち。それが今の自分とは対照的で、自分もそうなりたいと思った。だから貯金箱の中身を財布に詰めて、ベランダに置いてあったサンダルを履いて、二階の窓からこっそりと外に飛び出す。

 最初のうちは周りの雰囲気にあてられて楽しかった。家族ではこんなところに来たことはなかったから。ヨーヨー釣り、リンゴ飴、焼きそば、賑やか屋台とそれに並ぶ人たちを眺めて、スルーした。あの時の私の目的はただ一つ。袋いっぱいに詰まった綿菓子が欲しくて仕方がなかったのだ。

 どこまでも続くように思えた横並びの屋台を進んで、私は綿菓子を探す。けれど、それがすぐに見つかることはなかった。私は次第にムキになって走り出す。ペタペタと音が鳴るサンダルが装備として頼りなかった。

 結論を言ってしまえば、私はどれだけ奥に行っても綿菓子を買うことができなかった。それどころか、人がいた場所から外れ、ただ風が吹く音がする暗がりへ移動していた。

 少し離れた場所にもあるかもと深堀りし過ぎたことにその時になって気が付いた。さーっと体温が急激に下がっていく。

 能動的に自分の家から出なかった私にとって夜は不安の象徴だった。暗い場所は怖い。自分がどこにいるのかもわからない。そういった自分ではどうにもならない無力感が幼い私を支配していく。

 サンダルが石ころに引っかかった。バランスを崩して、私は思いっきり転んだ。

 こんなことなら家出なんてしなければ良かった。自分はさっきまでいた人達に近づきたかっただけだった。自分とは対極で常に楽しそうにしている人たちの真似をしたかった。そんな小さな望みさえ叶わなかったという事実に耐えられなかった。私は、久々に泣いた。


「おい。大丈夫か? 随分と派手に転んでいたみたいだったけれど」

 やや高い、学校でも聞くような幼い声。その声につられて顔を上げるとヒーローのお面を少しずらして被った男の子が私のことを見ていた。立っている場所から見て自分とは反対側から来たみたいだった。


「……へーき」

「んな泣きそうな声で……いや、泣いてるな」

「泣いてない」


 裾で雫をぬぐった。強がって彼を睨んだ。きっと彼は反論する。小学生は何かにつけて白黒つけたがる。ついでに言うなら、自分の思っていることが全て正しいように押し付けがちだ。そういうところが苦手で私はクラスに馴染めていなかった。


「じゃあ我慢できたんだな。俺なら泣いてる」


 だから彼の言葉が染み入るようだった。私が求めているものに近かったのだと思う。少年は自分よりも大人に見えた。立ち上がると右膝がじりじりと燃えるように痛む。私は表情を崩して、彼はその意図を汲んだ。


「どっか擦りむいたか? 絆創膏あるからさ。見せてみろよ」

「……膝がちょっと」

「そうか、じゃあそこにちょっと座れよ」


 彼に促された通りに近くにあったベンチに腰を掛けた。青色のプラスチックが軋んだ。彼は背負っていたザックからプラスチックのケースを取り出して、私の傷を見るや否やいきなり消毒液を浴びせた。


「っ……痛いんだけど」

「ごめん、ごめん。もう終わるから」


 そう言って彼は消毒液をコットンで拭き取って大きめの絆創膏を私の膝に張り付ける。テレビで放送されている魔法少女の柄だった。


「うっし、おっけー。よく頑張ったじゃん」

「……別に」

「そっぽ向くなよ。いきなりやったのは確かに悪かったよ。機嫌治せって……あーそうだ。綿菓子食べるか?」


 ほら、と彼がザックから取り出した。またしても魔法少女物のパッケージ。彼のチョイスは謎だったけれど、私はそれに釘付けになってしまう。

 何せ自分が探しても、探しても見つけることができなくて、途方に暮れて諦めようとしていたものだったから。


「おっ、反応いいな。じゃあ一緒に食べようぜ」

「……いいの?」

「俺がいいって言ってるからいいの」


 彼は袋を開けて自分が先にちぎって綿菓子を口にした。それから私に袋を差し出す。私は彼に倣って袋の中の綿菓子をちぎって食べた。

 夢にまで見たそれは、俗っぽいチープな塊だったけれど、今まで食べた何よりもおいしい気がした。


「これでお前も共犯だな」

「共犯?」

「これ、妹用のお土産だったからさ」

「……じゃあ食べちゃダメじゃない?」

「そ、だから絶対に誰にも言っちゃダメだ。約束だぞ」

「わかった」


 私が頷くと、大きな破裂音がした。暗かった周囲が月明かり以外のもので照らされる。彼の笑顔が薄くピンクに光った。視線を空に向けると、光の束がばらまかれている。


「ここからでも花火を見れたんだな。知らなかった」

「私も」


 自分がどこにいるのかわからない癖に彼に頷いた。さっきまでの気分が嘘みたいに消えてなくなって、じんわりと温かものへと変わった。

 私はその温もりを忘れられない。見知らぬ少年と見ながら食べた綿菓子の味を忘れられない。たぶんあの体験は私にとって本当に必要なものだった。あの時、彼に貰ったやさしさで、今の私ができている。

 だから、夢に見るたびに思う。いつか、あの嫌いな両親に頼らなくてもよくなったら。自分を、自分自身で保てるようになったら。もう一度だけ彼に会いたい。そして綿菓子を半分に分けて、あの景色を眺めるのだ。


 自己満足で、無謀であることは十分に理解している。けれどそれが十七歳の私が抱く、進路よりも大事な夢だった。

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