第3話

 混乱したままの脳内ではあったが、更衣室に入ると自然と体が覚えている動きをしていた。

 ブレザーからロッカーに入れておいた制服に着替えて、それから入れっぱなしのワックスで自分の前髪をどかした。

 朝は整える時間がないからそのままだけれど、バイトの時は多少手間だがこうすることにしている。目が隠れたままなのは接客をする上であまりよくは思われない。それにコンプレックスの一つである鋭い目つきでも、ここではメリットだ。なんて言ったって変な客に絡まれなくて済むのだ。

 小さな鏡で出来栄えを確認してから、ロッカーの鍵を閉めて、それから控室に顔を出した。店長が事前に言ってあったのか、何人か人が集まっている。中心にはもちろん黛がいて、バイト用なのか髪を後ろで縛ってポニーテールにしていた。「お疲れ様でーす」と適当に挨拶をすると形式通りの『お疲れ様です』が返ってくる。


「うん、じゃあこれで今日はこれで全員だね」


 店長こと三島さんが頷く。誰よりもここの制服が馴染んだおじさまといった風情の男性だ。

 ここにいるのは黛を入れて四人。どうやら僕が最後だったらしい。この店はそれほど広いわけじゃない。平日にこれだけの人数がいれば十分に回ってしまう。むしろ黛が新しく入ったからそれだけ余裕を持っているのだろう。


「今日から新しく入ってもらう黛さん。軽く挨拶をよろしく」

「はい。黛玲子です。入江君と同じ高校で、クラスメイトです。精一杯やりますが、初めてのバイトで、わからないことだらけなので、色々と教えてください」


 よろしくお願いしますと頭を下げる黛。僕ともう一人のアルバイト、山川はぱちぱちと軽い拍手をした。彼女は我先にと手を挙げる。


「じゃあ入江は放って置いてもいいね。私、山川! 下の名前は美しい海と書いて美海みう。美海ちゃんで、よろしく!」


 バッと明るく自己紹介。眼鏡とお下げが特徴の山川は僕らと同じ高校三年生だ。見た目よし、要領よし、コミュニケーションもよし。三拍子揃ったオールラウンダー。あからさまな欠点もあるけれど、この職場で彼女ほど頼りになる女性は他にいない。

 そんな山川に流されず、黛は普段通りに言葉を返した。


「よろしく、山川さん」

「おっと、つれないか。芯の強い女を連れてきたな、リーダー」


 山川が肩に手を置いてくる。僕は「いいや」と首を振った。


「連れてきてないよ。僕だってさっき聞いたんだ」

「へえ、それは運がいいのやら悪いのやら……」


 含みのある言い方をする山川に「どうして?」と黛が問う。


「だってこんな見つけにくい場所で働くのって、見つかりたくないか、サボりたいかのどっちかでしょ?」


 そう堂々と言う山川を店長が睨む。


「山川君? 後でちょっと話があるんだけど」

「おっと、いけない。店長冗談です。三島カフェジョークだから、これ」

「……ならいいけどね」


 店長がため息をつく。山川はそれなりに要領がいいけど、そういうところがある。店長も手を焼いているのだろう。何なら僕も手を焼いている。優秀なんだけどな……サボりさえしなければ。

 僕は黛の肩に手を置く。


「黛、こんな風にならないようにな」

「え~、そんな言い方はないでしょ……」

「それはサボらないようになってから言ってくれ」


 店長が「コホン」と咳払いをした。


「学生だともう一人、犬井君って子がいるんだけど、今日はお休みでね。また今度紹介するよ」

「犬井さんは山川と違ってちゃんと仕事ができる人だから、安心していいぞ。困ったとき頼りになるからちゃんと顔を覚えておくことをお勧めする」

「わかった。ありがとう入江君。覚えておくよ」


 黛が頷いて、話が一区切りした。店長が「よし」と呟く。そろそろ仕事を始める意思表示だった。


「じゃあ仕事をしよう。山川君はホール。入江君は黛さんに簡単に仕事を教えてあげて」

「教えるのは店長じゃなくていいんですか?」

「山川君ならともかく、入江君なら大丈夫だ」

「店長、その言い方は山川、傷つきますよ~」

「山川がそうやって自分で言ってるうちは大丈夫だ」

「ぶー」


 山川は僕の言葉に不貞腐れながら、ズカズカとホールへ向かっていった。店長も厨房へ引き上げていく。

 それから僕は簡単なことから黛に教えた。注文の取り方、お客さんとの接し方。店長へのオーダー伝達、その他もろもろ。彼女はやっぱり呑み込みが早くて、二週間もすれば僕と同じぐらい仕事ができるだろう。

 客が捌けて、バイトも終わりに近づいた頃。僕たちは皿洗いを終えて、食器を拭いていた。厨房には二人だけ。店長と山川がホールへ出ていて、やけに静かに感じた。

 沈黙に押し潰されそうで、少し苦しい。耐えきれなくて、打開策をとして気になっていたことを一つ彼女に聞いてみることにした。


「……黛はどうしてバイトをしようと思ったんだ」

「どういうこと?」

「志望動機だよ。店長になんて言ったのかなってさ」


 黛がバイトをする理由。昨日、面接をしていた彼女を幻と断定していたのはそれが思いつかなかったからだ。仕事をしている間、自分の中にずっとあった引っかかりを解消しておきたかった。

 黛は皿を拭くこと二枚分のインターバルを挟んで、それから一度深呼吸をする。


「話をしたかったの」

「話? 話って、何のだよ」

「えっと、その……。昔からずっと苦手だった、から」


 僕が彼女に聞き返すと、すぐさま目をそらした。

 普段の黛は無口だ。今日だけで去年聞いた台詞の文量をはるかに超えている。その理由が苦手意識にあったのなら、納得のできる話だ。その割に今日はガツガツと話をしてきた気がするけれど。

 まあともかく、苦手なところを治そうとする心意気は素直に感心した。僕には絶対に真似できることではない。


「じゃあ、黛は苦手克服のためにアルバイトを始めたんだな」

「そ、そうなんだよ! 良くはないとは思っていたんだけど、なかなか治せなくて」


 黛は早口かつ大きめな声で言った。この事実を知られたことがよっぽど恥ずかしかったらしい。そりゃあ、言い出すのも渋るはずだった。


「その点入江君はすごいよね。注文の受け答えもばっちりだし。なんだろうね。物怖じしないというか、胆力があるというか……。ほら、今日の昼なんかも──」

「頼むからそれだけは忘れてくれ」


 そのまま二度と思い出さないで欲しい。黛は首を傾げた。


「なんで? 参考にできると思うけれど」

「あれは参考にしたら絶対にダメだ。悪い例の筆頭だよ。……まあともかく黛が頑張って変わろうとしているってことはよくわかった」

「うん。だから私は入江君ともいっぱい話をさせてね」


 彼女が今朝、数学の授業中に見せた笑みを浮かべる。今日はやけに目があう日だった。自分とは対照的に綺麗で、大きくて引き込まれるそれに僕はすっかり魅了されてしまったと言ってもいい。


「わかったよ。なるべく話をしよう」

「ありがとう。よろしくね、リーダー」


 食器を仕舞い終えたタイミングで差し出された手。それに触れるかどうかすごく迷った。けれど僕はあっさりと下心に負けた。暖かくて柔らかい、仕事をあまりしていない手だった。

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