第2話


 購買で丸ごとソーセージ、自動販売機でコーヒーを二つ買った。一つは微糖でもう一つはブラック。僕はコーヒーをブラックで飲むことはほとんどないけれど、黛は食後に好んで口にしていた。僕はこの昼休みに黛に話しかけるつもりだった。

 さっきまで緊張に緊張を上塗りしたみたいな態度だったのに、いったいどんな風の吹き回しだと五十嵐は笑うかもしれない。

 けれど、これはちょっとしたケジメみたいなものだ。本当に自分が困ったときに助けてもらったのだから、何かしら報酬があってしかるべきだと僕は思う。

 テレビの中の正義のヒーローだとかはそんなものを求めないだろう。でも、彼女だって女子高生だ。ちょっとしたご褒美ぐらいあってもいい。

 ……なんて、それっぽい理由を並べてみたけれど、本音を言ってしまえば僕は訂正をしたい。黛にとっての自分の印象を最悪なままにしておきたくなかった。ほとんど話したことのない僕たちだけれど、このまま関わることなく消えてしまう関係性かもしれないけれど、それでもほんの少しでも良い思い出にしておきたかった。

 誰だって最後の思い出が自分の失態だなんて嫌だろう? 少なくとも僕はそうだ。

 さっきはテンパっていただけ。本気を出せば僕だってもう少しまともに話せるんだ。そう自分を奮い立たせて階段を上り、まばらな人影の隙間を縫って自分の教室へと足を踏み入れた。窓際では今日も黛が小さな弁当箱を広げている。

 今朝の黛の足取りをトレースしながら、最初の一言を考える。なるべくスマートにコーヒーを渡せて、なるべくかっこよく、そのままスムーズにお礼が言えるように考える。缶コーヒーを机に置いて、彼女を見る。

 黛は艶やか黒髪を揺らしながら不思議そうに僕を見た。近くで見ると肌がきめ細やかで綺麗だった。正装が必要な場所にジャージで入ってしまったような緊張感。それが僕を支配して、考えていた台本をすっ飛ばし、口を勝手に動かしてしまう。


「お嬢さん、食後のコーヒーはいかがですか?」


 いや、まだ飯食ってんだよ! この馬鹿! 

 かつてないスピードで脳内からバッシングがフィードバックした。正直、さっきの黒板にいた時よりも冷や汗がすごい。今すぐ背中を見たい。たぶん汗でぐっしょりでインナーが透けて見えるだろう。

 黛のきょとんと、呆気にとられたような表情を捉えた。それが僕のメンタルにダメージを与える。心をサンドペーパーで削られているみたいな気分になった。


「おっ、なんだ? ケイの奴とうとう自爆特攻したか」


 五十嵐、聞こえてるぞ。後で覚えてろよ。いや……わかっている。悪いのは僕だ。全部僕が悪い。五十嵐の言いたいこともわからなくはない。許せないけれど。

 性に合わないことをするものではないな、ホント。人生はチャレンジだって言っている奴のこと一生信用できなくなった。

 周囲がざわめき出す。黛が昼休みに今まで誰かに誘われたことは一度もなかった。人気がないからではない。誰もが遠慮するというか、高嶺の花すぎて近寄りがたいのだ。故に周囲の驚きは当然だった。……まあそれ以上に僕のアプローチが斜め上過ぎて呆れられているというのもある。というかそれで間違いない。

 もういい。ここまで来るともう印象の修正は不可能だ。僕と黛の貸し借りの清算だけでいい。缶コーヒーを手放すと机と缶がこすれる音がした。


「……さっきの事は、その、忘れてくれ。それと、一限の数学は助かった。ありがとう」

「結局入江君は間違えていたけどね」

「……できることならそれも忘れてくれ」


 思い出すだけでも色々と恥ずかしい。もうまともに黛の顔を見ることができない。あの無垢な表情が自分への嫌悪を現すものに変わっているのを見たくなかった。

 一方的に言うだけ言って、自分の席へ向かった。

 伏せていた視線を上げると自分の席の隣で五十嵐がニヤニヤとしているのが見えた。ああ、これはしばらくネタにされること間違いなしって感じの雰囲気だ。憂鬱な気分のまま、タイル一枚分進む。これが自分の出した勇気にふさわしい結末なのだと噛み締めた。

 けれど、ブレザーの裾が引っかかったように動かない。五十嵐をはじめとしたクラスメイトたちの表情が変わった。

「待って」


「馬鹿な、ありえない……」と誰の物かわからないつぶやきを僕は鮮明に記憶した。僕の気持ちをそのまま引き出したみたいな台詞だったからだ。

 裾を掴む手は普段机上を越えて動くことはない。昼休みにあの声を聴くことはない。その全てが自分に向くことは絶対にない。僕が世界に勝手に定めていた仮定。それが全てぶち壊された。

 振り返ると黛は僕の顔を舐めるように眺めて頷いた。いや、何に納得したんだよ。


「入江君、お昼一緒にどうかな? 君はこれからでしょ?」


 彼女が一瞬何を言っているのかわからなかった。字幕が全部カタカナで再生されたみたいだ。数秒の間を置いてようやく彼女の言葉を理解する。

 混乱して気を配れなかった周囲の目線も感じ取れるようになった。男女入り乱れて鋭い目線が突き刺さる。


「せっかくだし、食後のコーヒーに付き合ってもらえるかな」


 そんな周囲を気にも留めないで彼女は僕に返事を急かした。冷えた缶を手首のスナップでフリフリとして今か今かと待っている。


「そりゃあ、もちろん。願ってもないけれど……いいの?」

「いいって、何が?」

「いつも一人で食べてるからさ」


 たぶん誰もが聞きたかっただろう。さっきまで針のむしろだった周囲の空気が弛緩する。


「今日は機嫌がいいからね。たまにはこういうのだって悪くはないよ」


 逆に機嫌が悪い日は一緒に食事をしないわけか。ということは普段は年中機嫌悪いのだろうか。ちょっと心配になる。


「そういうことなら……」

「じゃあ、決まりだね。そこ座りなよ」


 空いていた椅子に腰を掛け、ビニール袋から丸ごとソーセージを取り出して封を切った。一口かじって、微糖の缶コーヒーを口にした。それ以外に何をすべきか思いつかなかった。そんな僕を見かねて黛が口を挟む。


「入江君はコーヒーが好きなの?」

「まあ、それなりに。微糖しか飲めないけど」

「意外だね。何となく、見栄張ってブラックとか飲んでそうな気がしたんだけど」


 口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、そっぽを向いて咳き込んだ。

 確かにそんなことをしていた時期はあった。小学生ぐらいのことだが、あの時の自分は何よりも大人に憧れていて、早く大人になりたくて、ガキのくせにブラックを買ってそのたびに中途半端に残したものだ。


「おっと、大丈夫かい」

「大丈夫、少しびっくりしただけ」

「そっか」


 一足先に弁当を食べていた彼女は昼食を終えて、弁当箱を重ねて片付ける。それから僕が置いた缶コーヒーのプルタブを起こした。


「逆に聞くけど、黛は見栄を張っていつもブラックなのか?」

「そういう風に見える?」

「いや、そうは見えないけど」

「けど?」

「聞いてくる奴の大抵は見栄張って飲んでる癖して、他人の見栄を暴きたい……みたいな。そんな気がする」


 この会話のタイムラグ。虎の尾を踏んでしまった感じ。自分のミスを確信した瞬間だった。せっかく窮地から脱したのに僕って奴は……。恐る恐る黛の顔を覗く。でも黛の表情は自分の想定とずれていた。


「……当たり。ちょっとビックリしちゃった」


 驚きと関心が入り混じったような感じ。帰ってきた言葉の温度に安堵する。どうやら虎の尾は踏んでいなかったらしい。


「最初は見栄だったし。今は……味と見栄が半々かな」

「意外と子供っぽいところもあるんだな。黛も」

「何それ。私たち未成年だし。別に子供っぽくていいんじゃないかな」

「それもそうか」


 でも、そういう考え方は大人っぽいなと僕は思った。子供だから子供らしく、大人だから大人らしく。どうしても背伸びがしたい僕には無い思想だった。


「やっぱり黛は、しっかりしてるな」

「そんなことはないと思うけれど、どうしてそう思うのかな」

「どんなことにもちゃんと、自分なりに答えを創ってる気がする。数学みたいに」


 さっき助けてもらったときのことを思い出しながら黛を表現する。彼女は自分と明らかに違う。常に芯が入っているように、行動指針がぶれない。そんな真っすぐさに僕は心打たれていた。……今日はなんだかブレまくりな気がするけれど。

 黛が缶コーヒーを一口含んで目を閉じる。十秒と少し間を取った。会話の間に挟むにしては随分と長い間だった。再び黛と目が合う。


「……理由がないことは嫌いだからだよ。曖昧なものは好きじゃない。だから自分の中はなるべく具体的にしておきたいってだけ」


 黛の言葉を噛み砕く間もなくチャイムが鳴った。「そろそろ準備しなきゃ」と呟く。気まぐれで起きた最初で最後のチャンス。それがもうすぐ終わりを告げる。その前に、聞いておきたいことが一つあった。

「黛」と名前を呼ぶ。彼女は「何?」と振り返った。


「じゃあ……さっきはどうして助けてくれたんだよ」

「さあ、どうしてでしょう?」


 おとぼけて黛は微笑む。意外と悪ふざけもできる質らしい。彼女のこれまでの振舞いからすれば有り得ないことだが、今日だけで彼女の印象がどんどん変わっていく。


「……もったいぶるんだな」

「そのうちわかるから焦ることないよ」

「そのうちって具体的には?」

「内緒」


 自分の唇に人差し指を当てて、黛は自分のロッカーに向かった。その背中を追いかけることは時間的にできそうにない。周囲の目線に耐え、自分の支度をして迎えた残りの五限と六限。その間ずっと黛に伏せられてしまった理由を考えていた。その答えが出ることもないまま放課後を迎える。

 教室から直接バイト先に向かうため、手早く荷物をまとめた。既に解放されていた引き戸のレールを跨いだところでクラスメイトに声をかけられる。夏休みが明けたというのに名前を未だに覚えられていないことが申し訳なかった。


「おい、入江どういうことだよ」

「どういうことって、何がだよ」

「昼のあれ! 黛に話しかけてたじゃないか」


 僕も理由を聞きたい。あれだけ会話にバッド判定が付きそうなミスをかましておいておきながら、結果として黛と楽しく会話できてしまった。それが不可解でならない。

 彼を皮切りに、他のクラスメイトたちが男女入り乱れて近寄ってくる。初めての体験にうろたえて、ヘルプを五十嵐に求めようとしたけれど、彼は部活に一直線だ。もう教室には居ないことを失念していた。


「何か弱みを握ったのか?」

「握ってない」

「私にも紹介して」

「紹介できるほど仲良くないよ」

「じゃあ、いったいいくら貢いだんだよ」


「そうだ、そうだ」と詰め寄るクラスメイト達を目線で制した。俺をなんだと思ってやがる。バイトをしているからと言ってお金持ちってわけではない。何なら俺よりもお前らが黛に貢げる環境下にいる。それに、俺の稼いだ金はそんなつまらないことに使われていると想像されたことに腹が立った。


「やかましい!」


 一言発した後、周囲の反応が芳しくないことを察する。ああ、やっちまった。接客業に従事する人間として失格だ。落ち着けば冗談の類だとわかるだろうに。店長が見ていたら間違いなくどやされる。一呼吸して気持ちを落ち着かせた。

 ……僕の時間だって無限じゃない。当然のことながら限りがある。出勤時間までのカウントダウンはもう始まっている。だから適当なことを言ってこの場から逃げることにした。修正するのも面倒だし。どのみち彼彼女らの望む答えは持ち合わせてない。


「悪い。今のは無し。まあ、強いて言うなら……」

「強いて言うなら?」

「貢ぎ先は学校近くの酒匂神社。賽銭箱に五円だ。ゲン担ぎも案外馬鹿にできないな」


「それじゃ」と間髪入れずに歩き始める。

 何か言いたそうな声を漏らすクラスメイトたちだったけれど、僕が一クラス分離れるともう追ってくる気配はなくなっていた。

 階段を下って、下駄箱のスニーカーを手に取る。つま先で床を二度叩いて、校舎から出た。ブレザーのポケットのスマホが振動する。

 出勤直前の連絡は確認しないと面倒なことが多い。客の入り方によっては急がなければいけないことだってある。念のため足を止めて電源ボタンを入れた。


『駐輪場で待つ』 黛


 黛。その苗字の知り合いは記憶にある限りでは一人だけだ。でも僕は彼女に連絡先を教えていない。クラスのグループにも黛は誘われていなかった。

 名前だけ変えたクラスメイトのいたずらか、はたまた、今日の昼の光景を見た何者かによる逆恨みからの報復か。どちらかはわからないけれど、用心するに越したことはない。

 なぜなら、うちの学校では自転車に貼るステッカーに本名を書くことを義務付けられている。特定は容易なのだ。今のご時世、この校則に疑問を抱くけれど、修正には至っていない。

 屋根の下の駐輪場。自分の自転車を陰から眺める。そこには荷台に腰を掛けて、退屈そうに両足をぶらぶらとさせている黛の姿があった。まさかの本人である。流石に予想していない事態だった。エンカウント率が明らかにアップしている。世界に修正が入ったみたいだった。

 黛が「遅い」と淡白に心情を吐露した。彼女にしてはわかりやすく、少し眉間にしわが寄っていた。それを収めるために落ちついて接する。


「ちょっとクラスの奴らに捕まってたんだ。それに約束なんてしてなかったし、連絡に気が付いたのはさっきだ」

「じゃあ隠れていたのは?」

「……果し状が送られてきたのかと思ったから」


 不思議そうな顔をして、ポケットからスマホを取り出してちらりと確認した。


「……手短に打ちすぎたね。これは私が悪かった」


 黛が荷台から降りて、僕のママチャリが晴れて自由になる。バイトに直行したいところだけれど、僕は黛に呼びつけられている。このままサヨナラというわけにもいかないだろう。


「それで、何の用事?」

「答え合わせをしようと思って」

「答え合わせ? 何の?」

「私が内緒にした話」


 黛が内緒にしたこと。僕が五限と六限を費やした問いかけ。理由のないことが嫌いな黛が理由もなく自分を授業中に助けた理由。僕はまだその解を導くことができていなかった。正直気になっている。クラスメイトたちも聞きたがっているに違いない。


「ちなみに、正解すると私が貰えます」

「冗談でも他の奴にそんな言い方をするなよ。後悔するぞ」

「入江君に言ったから後悔はさせないってこと?」

「そういう言葉遊びは今してない」


 黛は頭の中が愉快なんだな。話してみるまでわからなかったが外面とのギャップがものすごい。そんなところを知っているのは恐らく自分だけだ。そう思うと得をした気分にはなる。……頭は痛くなるけど。

 幸いバイトにまで歩いていける程度には余裕がある。ちょっとぐらい付き合っても問題ない。


「まあ、良いよ。答え合わせしようか」

「ありがとう。それじゃあ本題にさっさと行こう」


 ママチャリの鍵を開けて、ストッパーを上げた。それから校門に向かって並んで歩く。


「問一、私はなんで入江君に話しかけたでしょうか」

「さっぱりわからない」

「答え合わせをしようとか言っておいて、諦めが早すぎないかな?」

「別に早くない。そうだな……例えば黛。条件の出ていない証明問題を解けるか? 僕から見れば黛の考え方は難しいよ。だって、ほとんど話したことだってないんだから」


 彼女について僕が知っていることは外面と内面の差が激しいことぐらいだ。貴重な情報だけれど、決定打にならない。知っている分むしろ混乱してしまっている。


「そう……じゃあ、条件を追加していこうか」

「……条件ね」


 なんだか話が長くなりそうだ。


「歩きながらでいいか? この後用事があるんだ」

「構わないよ」


 黛は頷いてから隣で人差し指を立てた。


「条件いち、当然理由がある」

「なきゃ問題にならないだろ」


 一発目から突っ込みどころが満載だ。まともに解かせる気はあるのだろうか。こっちはそれなりに気になっている。おちょくられただけとかだったらしばらく立ち直れそうにない。


「次は?」

「そうだね……条件二、動機は昨日生まれている」


 心当たりがない。

 昨日僕はバイトに出ていて、職員以外の誰にも会っていない。いや、幻の黛には会ったけれど、それは僕の中で完結した話だ。彼女の動機にはなりえない。


「まだ駄目だ。次」

「それでは条件三、私は連絡先を……おっと、これは答えになっちゃうね。やっぱりなしで」


 黛は濁したけれどその先は予測できる。連絡先を入手した方法だろう。気になっていたことだ。彼女はいったいどうやって僕の連絡先を知ったのだろうか。しかもそれは、今回の彼女が僕に関わる動機に直結しているらしい。

 校門を跨ぐ。ついでに黛に尋ねる。


「黛、家はどっちだ?」

「家にはまだ帰らないから大丈夫。しばらくはついていくよ」

「そうか。じゃあ次の条件を頼む」

「はいはい。続いて条件四──」


 彼女の告げる条件が数を増していく。そのどれも気になるところをギリギリ避けるもので彼女の言う理由に結びつかない。

 その間に学校前の坂を下って、橋を渡って、砂利道を歩いて、条件が九つを数えたあたりで目的地の喫茶店『三島コーヒー』が見えてきた。

 入り組んだ住宅地に潜むこの店は、近くの人間からはそこそこ需要がある。結局、彼女の問いの答えがわからないまま、店の目の前についてしまった。


「ごめん、僕はここで。バイトだからさ。続きはまた……」

「うん。時間切れだね。じゃあ、最後にもう一つだけ」


 彼女が僕の勤務先の喫茶店を指す。


「条件十、私たちは同じ場所に向かっている」


 彼女の言葉は自分が昨日見た人影が幻でないことを意味していた。昨日の面接は幻じゃなかった。彼女が朝、ちらりと僕を見たのは気のせいではなかった。自分の想定に全てチェックマークが付けられていくようだった。


「ということで、今日から同じバイトとして働くことになりました~」

「嘘だろ……」

「嘘じゃないって。ほら、バイト先のグループにも入っているし……って聞いているのかな?」


 カメラ越しに話しかけるみたいに彼女が手を振った。まるで現実が画面の向こうに行ってしまったみたいだった。この戸惑いに折り合いをつけることができるのはたぶん相当先になる。そう確信した。

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