1章 問題文に問題がある問いは成立しない。

第1話

 机に上半身を預けて、うとうとしながら朝礼が始まるのを待っている。徐々に人が集まってざわめき始める教室。この時間は思う存分に気が抜けて僕は好きだった。

けれど、平穏はいつの時代も長く続かないもので、自分の前髪が何者かにかき上げられる。日光が当たって顔をしかめた。こんな悪戯をしてくる奴は一人しか思いつかない。鬱陶しいと思いながら目を開けた。


「ひっでぇ目つき、今日も相変わらず眠そうだな。ケイ」


「ヨッ」と陽気な声の後椅子を引く音がした。バスケ部所属の坊主頭。筋肉質で羨ましいほどの背丈を持つ男。五十嵐涼介。常に女子から熱い視線を送られる男だった。

 眠い目をこすって上半身を起こす。五十嵐が来たということは朝練を切り上げた後で朝礼まであと少しなのだろう。伸びをしてから五十嵐の顔を見た。


「まあな。昨日もバイトもあったし」

「ここんところずっとだな。そんなに稼いで何が欲しいんだ?」

「別に。うちは貧乏だからな。小遣い出ないんだよ」


 ついでに言うなら生活費も怪しい。うちは母一人、子三人の火の車で、絶賛回転中だ。ワガママな双子の妹は中学に上がったばかり。母も会社員をしているとはいえ、無理は利かない。僕も立派なバイト戦士として立ち回らなければならないのだ。眠気はその代償と言えた。


「そっか、大変だな。俺も冬に短期バイトしないと」

「なんか欲しい物でもあんのか? お前は小遣い貰ってただろ」


 確かそれなりに家から支給されていると聞いた。正直、すごく羨ましい。自分が思春期の数時間を生贄に賃金を身内だからとポンと渡される環境が。無いものをねだっても仕方がないことはわかっているつもりだけれど、簡単に割り切れない。


「んや、練習試合の交通費と食費にほとんど消えてな」

「交通費はともかく、食費って……バカデカい弁当箱はどうしたよ。ごはん数リットルとおかずがアホみたいに敷き詰められてるヤツ」


 身体作りの一環として彼らバスケ部にはタッパーが支給される。それに大量の米とおかずを敷きつめることが義務なのだ。あれを食べきるのはなかなかに骨が折れそうだった。

 五十嵐はぺろりと舌を出して親指を口元に添え、どや顔を決めてこう続けた。


「ああ、あれは……早弁で消える」

「一日何カロリー摂取してんだお前は」

「今更数える気にもならないな」


 五十嵐と同じ家計簿をつけるのは絶対に遠慮したい。多分ハゲる。食費だけでいくらかかるんだろうな。

 そんなことを考えていると、がらりと教室の扉が開く音がした。時間は八時二十五分。朝礼きっかり五分前。この時間に規則的に表れるのが彼女、黛玲子の習慣だった。一年、二年と同じクラスだけれど、記憶にある限りではこの時間を逃したことはない。

 黛は誰にも目をくれることなく真っ直ぐに自分の席へと向かう。クラスの男子がほとんど彼女に目を奪われている。このまま視線を受け流して、席について気だるそうに窓の外を眺める。それが彼女のルーティンだった。

 でも今日はそれが乱れた。波形にノイズが入ったみたいに一部分だけ行動が変わった。ちらりと、僕のことを見た。たったそれだけのことなのだけれど、ここ二年彼女を見続けていた僕から言わせてもらえば、それだけでも驚きの行動である。それだけ彼女の行動は規則的だった。意図が見えた。

けれど、今はそれが見られなかった。何故だろうか。考えても答えは出ない。


「ケイ、じろじろ見すぎ」


 頭に軽いチョップが入った。五十嵐がニヤニヤと僕を見下ろしている。こいつには僕が黛のことが気になっているのは知られていた。彼と過ごしたのは高校に入ってから二年年強だが、僕は隠し事をできないタイプだった。


「相変わらず黛のこと好きだよな。お前」

「……悪いかよ」

「別に。ただ、怪しまれても知らねーぞってだけ」

「それは、まあ……確かにそうだな」


 五十嵐の言葉に納得してしまう。黛の視線は自分に対する警戒の表れだとしたら頷けるものがあった。そうでなければ彼女の行動に説明がつかな──いや、僕の視線を感じ取って警戒って、エスパーかよ。余計説明できない。

 予鈴が鳴った。五十嵐が「じゃあな」と自分の席へと引き上げていく。

 黛は窓際の席で遠くを眺めていた。いつも通りだ。やっぱり、あれはただの気まぐれだったのだと思う。僕の後ろでクラスメイトが何かしていたのかもしれないし、気になる物音がしていたのかもしれない。はたまた僕の勘違いで、彼女は別に僕なんて見ていなかったなんてこともありあえる話だ。だとしたら僕は自意識過剰すぎる。

 ため息を一つして、脳内での審議に決着をつけた。教室に入ってきた担任の話を聞き流していると限界を迎えた。意識がゆっくりと落ちていく。

 周りの声がおぼろげにしか聞こえない暗闇。それが心地良くて、いつまでもそうしていたかった。けれど、それを邪魔する声と共に机が揺さぶられた。


「おい、起きろ。入江! おーきーろ!」


 意識が覚醒する。その声は普段もっと遠くから聞こえてくるからだ。数学の先生が近くで直々に僕を起こしに来ていた。

 バッと体を起こして先生と向き合う。小太りの中年体系の彼は意地の悪い笑みを浮かべていた。こういう時はたいていろくでもないことを考えている。

 他の生徒が餌食になっているのを見て把握していた。よりにもよって数学で寝たらダメだろうに……。


「ようやく起きたな。昨日はさぞ熱心に夜中まで予習をしていたと見える」


 いや、してない。ギリギリまでバイトをしていた。というかそれを知っていて言っているのだろう。まあ教師になるような人間からすれば学生の本分である勉強を放ってバイトをする、なんて行動が許せないのだろう。


「でも、それで授業中寝てしまっては駄目だろう。ちゃんと成果を発揮してもらわなければな」

「はぁ」

「黒板に書いてある問二をお前に解いてもらおう。いいな! ……ったく今日は居眠りが多くて困る」


 そう言って黒板の近くへ戻るとパイプ椅子に腰を掛けた。軋む音が派手で、怒っていることをそこまでわざとらしく表現したいのかと腹が立つ。いや、全面的に寝ていた僕が悪いのだけれど。

 仕方がなく席を立った。ひそひそと話を続ける同級生の間を縫って黒板の前に向かう。問一には既に他の生徒がいて、それが黛であることは一瞬でわかった。ほんの少し足を止める。

 別に気まずいとかそういったことはない。けれど、彼女と意図的に近づくというのは初めての試みだ。初めてアイドルの握手会に行く感覚に近い緊張感が僕の中にはあった。


「どうした? 入江、早くやらんか」

「は、はい」


 先生に促されて前に出た。自分のした失態と、黛が近くにいるという緊張感がごちゃ混ぜになってわけがわからない。とりあえず問題、問題を解かないと。

 白のチョークを手に取ろうとして、自分の近くにはないことに気が付いた。全てが黛の近くにある。彼女は背伸びをしながら書いているから、黒板と体の隙間はほとんどない。

 手を伸ばせば接触することは間違いない。無言で取るのは気が引けた。でも、声をかけるの? あの黛玲子に? 僕が? 

 悩んでいると黛が背伸びをしながら僕の方を見た。近くで見るとまつ毛が長い。二年以上見てきたはずなのにそんなことを初めて知った。


「何?」


 他の人全てを突き放すような冷たい声色だった。キッと睨む目つきに気圧される。問題も解かないで自分のことをじっと見られていたら誰だっていい気はしない。

 会話に失敗しないように一呼吸を置いて、彼女を見る。


「ごめん、いや、あの、その……えーと、チョーク、チョークが取りたくてさ」


 いや、そこまでどもることないだろ。バイト先でもここまで緊張して言葉が出てこないなんてことはない。にもかかわらず今日はこのざまだ。日本語ネイティブかどうか疑われるぞ。

 長々と自分にダメ出しをしていると、黛はちらりと視線を落として三本まとまっているチョークを見た。


「チョーク……ああ、なるほどね」

 黛は白のチョークを一本引き抜いて僕に手渡す。僕は軽くお辞儀をして受け取った。


「……どうも」


 問題に目を向ける前に先生の貧乏揺すりが目に入った。そんなにプレッシャーをかけないでくれよ。頼むから。そんなに僕が賢いわけじゃないって先生だってわかっているでしょ? 時間をくれ、時間を。

 えーと。これはどうやって解くんだ? 予習なんてしてないし、授業も聞いてなかったんだから理解できるはずもない。かといって「わかりません」とも言いにくいしな……。

 どうしたものかと、左手で頭をかいた。仕方がない。わからないものはわからないんだから怒られてでも素直に──


「入江君」


 ぼそっと黛が呟く。目線は黒板のまま、考えるふりをして僕にだけ聞こえるようにしてくれている。聞き逃さないようにチョークを手に持ったまま意識を向けた。


「私が解いていたのが例題の復習。解き方の参考にして。それと、六乗は三乗の二乗だからね。それじゃ」


 一行の問題に一行の回答。その言葉を残して彼女は立ち去っていく。いや、情報量少ないな。そりゃあ六乗は三乗の二乗だろうけどさ。で、肝心の問題は……


(1)x³–8

=(x–2)(x²+2x+4)


 これも情報量が少ないけど、とりあえず因数分解をしているのはわかった。黛の口ぶりからして僕の問題も因数分解。で、僕の問題は? 


(2)a⁶–b⁶


 ……いや、六ってなんだよ。二までならわかるよ。中学レベルだしさ。六? 六って六でしょ? 本当に因数分解できんのかこれ? 貧乏ゆすりが激しくなってきたし……本格的にまずいぞ、これは。

 どうする? 諦めるか? いや、待て。さっき黛はなんって言ったっけ? 「六乗は三乗の二乗」だろ? あのときは理解できなかったけれど、黛が無意味なことをいうわけがない。きっとこれもヒントなんだ。ひとまず変換してみるか。


=(a³)²– (b³) ²


 ……ああ、わかった。これ、中学レベルだったのか。やっと黛が言っていたアドバイスを理解できた。確かに一言で言うなら「六乗は三乗の二乗」だな。つまり答えは……


=(a³+b³)(a³– b³)


 チョークで解答を書き終えて席に戻る。わずかに舌打ちが聞こえて、そのあとに解説が始った。首の皮一枚で乗り切ったことにホッとして、黛の方を見る。彼女も僕を見ていた。目が合ったのはこれが三度目、微笑んでいるのを見たのは初めてだった。

 妙な満足感を抱きつつ、席に着くと先生と目が合う。


「おい入江、これまだ因数分解できるぞ」


 ……あれ?

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