気が付けば深窓の令嬢とバイト仲間が僕を奪い合っていた。

イーベル

プロローグ


 憧れのクラスメイト、黛玲子のことを僕は何も知らない。

 腰まで伸ばし黒髪が特徴的な優等生。容姿端麗、頭脳明晰。彼女以上にこの言葉が似合う人間を僕は同世代で見たことがなかった。

 テストの順位では上位一桁から退いたことがない。夏までは水泳部で、休み明けの朝礼では少し気だるそうに表彰台に上っていた。顔立ちも整っていて、少し鋭い目つき、すらりとした鼻と柔らかそうな唇。この間読んだ雑誌のグラビアに混ざっても決して見劣りしない。

 強いて文句の付けるとすれば授業態度が悪いぐらいで、窓際の席でばれないように居眠りをする。目を閉じて静かに呼吸をする。ただそれだけなのに、黛玲子がすると絵になってしまう。よく思わないのは教師ぐらいだ。僕はそういう瞬間を何気なく目にすると、なんだか得をした気分になる。

 知っていることはそんな断片的な情報ぐらいだった。

 好きな食べ物とか、音楽だとか趣味だとか彼女のパーソナルな部分はなかなか見えてこない。

 それは同じ水泳部人間でも同じようだった。比較的距離が近い人間ですら箸にも棒にも掛からないなら、僕なんかは余計にノーチャンスだ。

 このまま彼女のことを知る機会を与えられないままなのだろう。眠い目をこすって授業中にチラ見する程度の距離感のままなのだろう。

 なぜなら僕は争い加わることすらできない、価値のない人間だからだ。もう二度とかつての輝きを取り戻すことはないと理解しているからだ。

 だからバイト先の控室で彼女らしい後姿を見た瞬間、こんなに動揺している。黛のことを考えすぎて頭がおかしくなったのかと思った。

 別に話したわけでもない。正面から見たわけでもない。けれど、制服のポケットに入れた手がじっとりと湿っていた。

 店長の声がやけに響く。いくつか質問で採用面接をしているとわかった。

 黛はアルバイトなんてしなくてもいい人間のはずだ。両親が何をしている人なのかは知らないけれど、噂では大きな家に住んでいて、使用人だって雇っていると聞いた。僕みたいにその日暮らしのために働く必要なんてないし、お小遣いのためになんて俗っぽい理由も考えられなかった。

 つまり、さっき見た人影は積み重なった疲労の果てに見てしまった幻覚だ。そう信じて、僕はプラスチックのトレーを持ってホールへと足を向ける。その途中でピンポーンと呼び出し音がした。

 他の店員に目配せをして自分がテーブルへ向かう。尻ポケットから注文を受け付ける端末を手にお客様と目を合わせた。


「お待たせいたしました。ご注文をお伺いいたします」


 マニュアルをなぞった薄い言葉と機械的な笑顔を張り付けて、今日も灰色の一日を過ごしていく。このまま週の過半数をバイトに費やし、妹たちのワガママに答えて、仕事から帰ってきた母の愚痴を聞いて……多分、惰性で就職をする。きっとつまらない大人になっていく。

 けれど、期待してしまう。そんな人生をぶっ壊してくれる何かを。中途半端に燃えて、真っ黒な炭にも戻れず、真っ白な灰にもなれなかった自分を輝かせてくれる出来事を。そんな都合のいいことあるはずもないのに。

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