フレンチトースト、或いはパン・ペルデュ。貧しい騎士の友たるこの退廃的な食べ物(7)

 お父さんが厳選を重ねて揃えたエールやウィスキー、ワインといった酒類は、なかなかの逸品揃いだと近隣の紳士方の間でも評判だ。この辺りを通る際には必ずうちに寄っていかれる方もいるくらいなので、四葉亭の客層はけっこう良い方なのだと思う。

 だからといって、そんな中上流層の方々ばかりがうちの顧客というわけでもない。何と言っても近隣で唯一の宿屋兼パブだ。労働者階級のおっちゃん達も憩いを求めてやって来る。何せパブというのは、パブリックハウスが語源であるからして。

 ま、例によって例の如く部屋は別々だし、屋内に入るための玄関だって違っていたりするのが、後世にいたるまで根強く残る階級社会の階級社会たる所以だ。

 カウンターの前でエールを飲みながらショーンさん達が駄弁るのを横目に、わたしはせっせと木箱から目的の型を取り出した。きちんと掃除してから空焼きをせねばならないのが手間といえば手間だが、物事には必要な手順というものがあるのだ。

「ふふっ」

 木箱には蓋付きのローフ型が2個入っていた。これこれ。うん、ちょうど良いサイズだ。できれば、このまま貸し下されしてくれんことを。

 目指すは21世紀の生食パンである。さっそく材料を手配せねば。

「お母さーん」

 台所にいるお母さんに声をかける。お母さんは焼き上がったばかりのシェパーズパイを切り分けているところで、それはそれは鮮やかな手つきで皿に移していくのが見えた。ショーンさんらの注文だろう。

「なんだい」

「いま、オーブン空いてる?」

「少しならね」

「充分」

 柔らかいスポンジで型を洗い、軽く水気を拭き取った後、オーブンの空いてる場所に放り込む。工業用の油や汚れを焼き切るのが目的だ。その後、食用の油を塗り、再度空焼きして馴染ませる。コレをしておかないと型離れが上手くいかないのだ。

 とりあえず普通の角食を焼こう。生食に挑戦するのは、それからだ。

「へえ、本当に蓋付きなんだね」

「そうだよ。あ、これ持ってきてくれたショーンさんがさぁ、明後日にはミスター・サイラスが旦那ちゃま連れてくるって言うんだよ」

「おやまあ」

「旦那ちゃま、どんだけ食べたいんだよって話だよね」

 食いしん坊だなあ。

 ぷぷぷ、と笑っていると「いや、あんたほどじゃないでしょ」と皿を取りに来たアマンダが、ジットリした目でこちらを見ながら呟いた。

「えぇ〜っ⁉︎」

「リリーの食べ物にかける情熱は、ちょっと常軌を逸していると思う」

 我が姉ながら失礼な言い草だな。断固として抗議するぞ。

「だって、マズいものより美味しいものの方がいいじゃない」

「そりゃそうなんだけどさ」

 あんたのはそーゆうレベルを越えてると暗に指摘され、うーむと思わず頭を傾げてしまう。なまじ完成形を(記憶だけでも)知っているだけに、どうしても舌が其方に引きずられてしまうのだろうか。

「確かにリリーはこだわりが強いけど、料理で身を立てるならそれくらいの方がいいさね」

 いつの間にかわたしの将来設計が決められていた。いいけどね。

「きちんと妥協もできるし」

「創意工夫の範疇内なら」

 それでどうにかなるならいいけど、どうにもならないレベルというのはある。往々にして基本の材料や味の決め手になる調味料、そしてまだ開発されていない調理器具なんかだ。この時代に真空調理器や瞬間冷凍庫などあるわけがないので。

「そーゆうもんかしら」

 絶妙な焼き加減のシェパーズパイの皿を両手に、アマンダはきれいに整えた眉を顰めた。

「そーいうもんです」

 ふぅんと気のない相槌を返した彼女が、注文の品を運んでいくと、ショーンさん達の間から歓声が上がるのが聞こえてきた。

 パブといえば前世ではフィッシュ&チップスが定番中の定番だったけど、いまはまだ定番になりつつあるというくらいの時期だ。あと、ここは沿岸部から少し離れているので、いつでも食べれるというにはまだまだである。そんなわけで同じジャガイモを使ったメニューでも四葉亭の看板はシェパーズパイだ。

 お母さんの焼くシェパーズパイは絶品なのである。これがまたエールに合うんだよ。ちなみにお父さんの大好物だ。

「型慣らすためにも何回か試作焼かないとなー」

「材料は足りるのかい?」

「小麦粉はショーンさんらが持ってきてくれたから。あ、お母さん、クリームがいる。あと蜂蜜と砂糖も」

「パン種は?」

「せっかくだから新しいので作ろうかな」

 近いうちに型や小麦粉が届くのはわかっていたから用意しておいたのだ。干し葡萄のと林檎のと2種類。まあ、普段からパン種は切らさないよう心がけているので、このために作ったのかというと語弊があるけど。

「さてと頑張ってみますか」

 戸棚から酵母を育てている専用のガラス瓶を取り出す。よしよし、いい具合に発酵しているぞ。

 わたしは篩を取り出して、小麦粉をふるう準備を始めた。



 何回か試作を繰り返し、まあ及第点かなというモノができたのは翌日の夕方近くになってからだった。

「罪深いくらい贅沢だね」

 まだほんのりと温かさの残る状態の生食パンをむしり取り、ぽいっと口の中に放り込んだお母さんが評した。

「まあね」

 見た目はシンプルだが、見た目だけだ。きつね色の表皮の下、真っ白できめ細かなクラムのふんわりもっちりとした歯応え。ほどよい口溶けと濃厚なコク。そして、甘み。

 ただでさえ、焼きたてのパンの匂いの誘惑には逆らえないのに、オーブンから漂ってくる生食パンの匂いはちょっと暴力的なものがあった。その証拠にネッドもアマンダも用もないのに台所をやたらと覗きに来る。

「そのままでも美味しいけど、少し分厚めに切ってトーストしても美味しいよね。もちろんバターたっぷりしみしみにして」

「なんてこと言うんだい、この子は」

 お母さんにものすごい顔をされた。

 パンにバターを塗っただけのものでもお茶請けとして十分だと見なされる時代である。贅沢は敵だとまでは言わないが、過ぎた浪費は歓迎されない。田舎の庶民としては、質素倹約が当たり前だからだ。

「で、このパンを使ってプア・ナイツを作るのかい?」

 お母さんがビミョーな顔をする。

「そうだよ」

「……貧乏とは程遠いね」

「確かに」

 モゴモゴと口を動かしていると、何食わぬ顔でお父さんがやってきた。

「いい匂いだね」

イアンあなた

 苦笑しつつもお母さんはお父さんに椅子に座るよう促す。

「お父さん、はい」

 ちょうどいい。お茶と一緒に試食してもらおう。どうせお父さんもそのつもりだし。苺ジャムがいいかなー。それとも、やっぱりシンプルにバターかなぁ。

 濃い目に入れた紅茶にミルクはたっぷり。

「ありがとう、リリー」

 お父さんの目元の皺が深くなる。

「えへへ。ちゃんと感想聞かせてよね」

「それはもう」

 神妙な面持ちで首肯してみせるお父さんを見て、ティーカップ片手にお母さんはクスリと笑った。

 そこへ。

「あー! 父さんだけズルい!」

 戸口に揃って現れた我が家の長男と長女が、こちらを見て口々に叫ぶ。

「やだ、お父さん! リリーの試食係はあたしなのにィ!」

 ちょっとアマンダ。

「そんなのいつ決まったんだよ」

「いま!」

 おい。

「アホか。リリーが作るモンは最初に俺が味見するんだよ」

 おいおい。

「はァ? 何でよ?」

「ほら、俺ってば兄貴だから」

 自信満々にぴゅーぴゅー兄貴風を吹かせるネッドを、虫を見るような目で見たアマンダが辛辣に評した。

「ばっかじゃないの」

 それには同意する。

 同意はするが突っ込みどころ満載な兄姉どもの勝手な言い草に、わたしがジットリとした目を向けてしまうのも無理はないと思う。お母さんはやれやれとばかりに額に手を当てていたし、お父さんはといえば黙ってお茶を啜っている。

 もう見慣れた日常の光景だけど、こうして家族が揃って団欒できるってことは、わたしってばじつは相当に恵まれているんじゃないか。そんなに前世で徳積んだ覚えはないんだけどな。いや、覚えてないだけかもしれない。うん。きっとそう。

 わたしは物語の主人公になれるような人間でもないので、よくある貧民街に孤児としてだの貴族の令嬢としてだのなんて無茶振りを振られなくて良かった。21世紀の甘やかされた激弱メンタルな惰弱日本人にはキツすぎる。

 誰もがデイヴィッド・コパフィールドではないし、オリヴァー・ツイストではない。モウグリにはなれないし、ましてやキム少年なんて無理に決まっとる。

 ここで何でセーラ・クルーやメアリー・レノックスが出てこないんだと、自分で自分に突っ込みを入れたのはヒミツだ。

「まあ、二人ともお座り」

 お母さんの言葉でピタリと言い争うのをやめたネッドとアマンダが、大人しくスツールに腰を下ろした。

「お前たちにはブレッド&バタープディングがあるから」

「やった!」

 歓声を上げる二人を横目に、お父さんが問いかける。

「いいのかい?」

「残った試作のパンを使って作っといたんですよ。夜のメニューで出せばいいかと思って」

 いまうちには試作した生食パンの残りが大量にある。捨てるような真似は絶対に許されないので、きちんと料理の材料として消費される予定だ。

 ブレッド&バタープディング。要はパンプディングである。みんな大好きカスタード味の例のアレ。

「今夜のお客さんは運が良いよね」

「まったくだねぇ」

 もちろん、この日の晩に出た一番人気のデザートは、ブレッド&バタープディングだったことは言うまでもない。

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旦那ちゃまとわたし しーの @fujimineizm

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