フレンチトースト、或いはパン・ペルデュ。貧しい騎士の友たるこの退廃的な食べ物(3)

 その馬車が到着したのは、ちょうどお昼前のお茶の時間の頃だった。

 四頭もの馬の手綱をトムさんは巧みに捌き、ピカピカに磨き上げられた黒塗りの車体を玄関の前で停める。大型の立派な馬車だ。

 鉄道のおかげでロンドンからの移動時間は短縮され、随分と楽になったとはいうものの、いまだ八歳の男の子にこの長距離移動はキツいものがある。負担がかからぬように、少しでも休めるようにという選択だろう。

 いつもはもう少しくだけた感じのお父さんが、この時ばかりは緊張を隠せぬ面持ちで一行を出迎えている。その様子はお館で働いていた頃を彷彿とさせるには充分で、隙のない真っ直ぐな背中には感心させられた。

 トムさんの隣に座っていた男の人が素早く御者台から降りる。同時に馬車の内部で錠をあげる音がして扉が開いた。

 う、ひゃー!

 危うく変な声を上げてしまうとこだった。隣のアマンダも目を見開いて固まっている。姉の口が半開きになったままだったので、慌てて彼女の横腹を肘打ちして正気に戻す。でないと、後でお父さんからこってり搾られるハメになる。

 それにしても。

 降りてきたその人は尋常ではなかった。

「ようこそ、ミスター・サイラス」

「お久しぶりですね、ミスター・ロバーツ」

 予想していたよりも、ずっと若いように見えたけど、正直、正確な年齢のほどはよくわからない。二十代の若者にも見えるし、四十代の壮年であってもおかしくない。どうやらずば抜けた美貌というものは年齢を不詳にさせるらしい。

 お父さんやネッドも容姿は整っているが、ミスター・サイラスは何というかもう次元が違っていた。

 輝くアッシュブロンド、希少な宝玉を思わせるラピスラズリの双眼。およそ190㎝はありそうな身長に、補正なんてまったく必要なさそうな均整のとれた身体。どちらかというと顔立ちそのものは甘めだが、柔弱な印象は欠片も感じられない。

 あまりの迫力に、思わず平伏しそうになるくらいだ。ほら、前世も現世もヒラヒラの庶民なんで、わたし。

 え?これで貴族じゃないの?マジで?嘘でしょ?

 執事?

 ウッソぉだぁ〜。魔王ルシフェルとか妖精王オベロンとか人外じゃないの?

 ……執事だけに。

「さあ、坊っちゃん」

 どう見ても魔王にしか見えない執事が、扉の奥にいる人物に向かって呼びかける。返ってきた声は、子供らしい澄んだボーイソプラノだった。

「坊っちゃん、じゃない」

 ひょいと顔を覗かせた金髪の男の子は、そばかすの散った頬を膨らませ訴えた。

「ちゃんと旦那さまと呼ぶのじゃ、サイラス」

 上等なツイードのジャケットとズボンに身を包んでいる彼は、明らかに裕福な上流階級の子供である。八歳としては小柄なようだが、いかにも健康そうで快活に見える。びっくりするくらい普通っぽい。と、言うかモブ顔だわ、坊っちゃん。

 ハイハイとおざなりにうなづいた執事が小さな主人の身体を持ち上げ、ちょっとばかり強引に馬車から降ろすと、控えていた従僕らしい青年が丁寧に扉を閉めた。

 ミスター・サイラスの存在感が強烈すぎて目立たないものの、ストロベリーブロンドの彼もなかなかのハンサムガイである。父といい、トムさんといい、容姿が良くなければ貴族に雇ってもらえないのかと思ったが、よくよく考えなくてもこの時代はそういう時代なのだった。うん。

「こちらは四葉亭の主人であるミスター・ロバーツ。直接お会いするのは初めてでいらっしゃいましたね」

「うむ。初めましてだ、ミスター・ロバーツ」

 精一杯、領主らしく振る舞おうとしているのか、生真面目に挨拶する少年に父の目元が和んだ。

「どうぞ、ロバーツと。お会いできて光栄でございます、マイ・ロード」

「世話になる」

「心得てございます。お疲れでございましょう、ひとまずお入りくださいませ。後でお茶をお持ちいたします」

 坊っちゃんとミスター・サイラスがお父さんと一緒に玄関の奥へ消えると、見送っていたネッドがトムさんに合図して馬車を移動させるべく先導するのが見えた。

 さて。

「……お姉ちゃん?」

 おーい、戻ってこーい。

 アマンダの目の前で手を振ってみる。

「しょーがないよ」

 振り向くとストロベリーブロンドの青年が苦笑していた。

「ミスター・サイラスを初めて見た女性は、大抵そちらのお嬢さんみたいになる」

「そうなんだ」

「君みたいな方が珍しいかな。俺はショーン・マクブライト。見ての通り、エルダーストーン伯爵家の従僕」

 従僕らしく背も高く体格もいい。お父さんとは初対面みたいだったけど、それなりに経験は長そうだったので、ロンドンのお屋敷でのお勤めが主だったのかもしれない。

「四葉亭のリリアン・ロバーツです。こっちは姉のアマンダ」

「よろしく」

 差し出されたショーンの手は、手袋越しでもわかる拳ダコがあった。



 本来ならうちで一番良い客室でというのが筋というものなのだけれど、どうやら坊っちゃんはそれでは味気ないと感じたようで、キッチンにも近い奥の少人数用ダイニングでお茶と軽食を召し上がることにしたらしかった。

 坊っちゃんの教育係を兼ねているミスター・サイラスによると、いくらお茶とはいえ主人と使用人が気軽に同席などすべきではないとのことだが、いかんせん坊っちゃんの年齢が年齢なので、作法の勉強のためにも時々一緒のテーブルにつくこともあるみたいだ。

 お茶の時間も勉強だとは、貴族の子供もなかなか大変だなとは思う。

「ブランチになりますがよろしいですか?」

 一息つきたいだろうし、身体も冷えただろうからとお母さんが用意していたホットジンジャーを持っていくと、お父さんとミスター・サイラスが話し合っているのが聞こえた。

「構いません。ロンドンを出たのが早い時間でしたので、ちょうど良いでしょう」

「坊っちゃんの正餐の時間は昔と変わらず?」

「そうですね。いつも1時ごろにお召し上がりです」

「なるほど。こちらで少しゆっくりしていかれますか?」

「そのつもりです」

「では、出立のお時間は?」

「2時頃が適当かと」

 坊っちゃんは大人しく奥のテーブルに着いて、持参していた本を読んでいる。ちらりと見ると、タイトルはThe Blue Fairy Book とあった。おお、凄い。ラング博士の『あおいろの童話集』じゃないか。さすがだなー。

 それにしても、直接持っていいものかどうか悩むな。

「リリー」

「これ、お母さんが」

 三人分のマグの乗ったトレイを持ち上げて見せる。

 あれ、一人いないや。

「ショーンさんは?」

「彼には少し用事を頼んでいます。大きくなりましたね、リリー」

 ミスター・サイラスとは頭二つ分以上の身長差があるため、自然とわたしが見上げる状態になる。首がもげそう。

「……お会いしたことございましたか?」

 思わず首を傾げていると、お父さんとミスター・サイラスは顔を見合わせて笑った。

「ええ、あなたが生まれて間もない赤ん坊だった頃に」

 それは会ったことがあるって言わないんじゃないかな。

 我ながら微妙な感じの表情になってしまう。ますます笑う大人二人を見て、年長者ってそういうトコあるよねとジットリ睨んだ。

 まぁ、斯くいう自分にしても、その立場になれば同様にやってしまう自信はある。だって、前世でしたし。

 ふん。

「坊っちゃんにお出ししても?」

「ええ」

 坊っちゃん……さっきからチラチラとこちらを伺っているのが丸分かりだよ……。

 生温かい目になってしまうのも宜なるかな、である。

「これは?」

 テーブルの上に置いたマグからゆらゆらと湯気が立ち昇る様を、坊っちゃんは不思議そうに見つめた。

 くりくりのどんぐり眼は南国の海みたいなブルーだ。

「家内特製のホットジンジャーでございます」

「身体が温まりますよ。熱いので気をつけて。ゆっくりとお飲みください」

 素直に首肯した坊っちゃんは、読んでいた童話集を傍らに置いてマグに手を伸ばした。

 子供も飲みやすいように蜂蜜マシマシで割ったので、生姜独特の辛味もだいぶ和らいでいるはず。

「からい」

 あ、あれ? おかしいな、坊っちゃん用のはかなり甘くしたんだよ。

 狼狽えるわたしを見て、ミスター・サイラスが苦笑した。

「慣れてないだけです。坊っちゃんはまだあまり刺激のある食べ物は食べさせてもらえないので」

「坊っちゃん、と言うでない」

 唇をアヒルみたいに尖らせて坊っちゃんが抗議する。

「坊っちゃんは坊っちゃんでしょう」

「違う。旦那さまじゃ」

「若さま以前の分際で何を仰っておいでで。弁えなさいませ」

 おう……鼻で笑った。つよつよだわ、ミスター・サイラス。さては見た目通りドSなのですね。わかります。

 それにしても何でこんな爺むさい喋り方なんだ、この子。

「お祖父さまは伯爵じゃった。お祖父さまの跡を継いだわしも伯爵じゃ。だからじゃ」

 あぁ、真似っこなのか。

「そもそも年季と貫禄が違います」

 ホットジンジャーを飲みながら職業執事、本性魔王が評する。あなたは貫禄ありすぎですよ。たとえ坊っちゃんと同じ年齢だった頃でも、誰一人としてあなたを侮ったり馬鹿にする者はいませんよ。恐ろしい。

「祖父上さまは祖父上さまですよ、マイ・ロード」

 お父さんが微笑む。

「そ、それはそうなのじゃが……そうなのじゃが……」

「マイ・ロード?」

「ちゃんと立派な伯爵になると、お祖父さまと約束したのじゃ」

 ぼ、坊っちゃん……!

 うるっときた。が、

「ダメですよ、坊っちゃん」

 ミスター・サイラスのダメ出しが入った。

「確かに貴方はエルダーストーン伯爵です。しかし、貴方はまだ子供なのだから大人しく守られていらっしゃい」

「……む」

「今は健やかに成長していただくのが、私を含めた皆の一番の望みです」

 ミスター・サイラスの指摘は正しい。伯爵家にお仕えしている者も、領地で暮らしている人々も、彼が健康で無事に成長されることを願っている。

「もちろん身体だけ大きくなられても困りますがね。きちんと研鑽を積み、経験を重ねていただくことこそが、貴方の言う立派な伯爵に近付く道というものです」

 the正論、である。

 スパルタだなぁ、ミスター・サイラス。にしてもこれ、八歳の男の子には厳しいんじゃなかろうか。理解していたとしても。

「どうせ、あっという間に成人されるのです。それまでの猶予ですよ」

 これくらいのホットジンジャー、いい大人は平気で飲めますしねと続ける執事の言に、いい大人とは……という疑問を抱いてしまったのは、おそらくわたしだけではなかったはずだ。



※ アンドルー・ラング博士のThe Blue Fairy Bookが出版されたのは1889年。『あおいろの童話集』はアンドルー・ラング世界童話集の第1巻にあたり、12冊の叢書のタイトルは全て色の名前がついてます。

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