第3節 -杖の影は人を太陽から守らない-

*6-3-1*

 赤紫色に輝く、アンジェリカの周囲に顕現した無数の矢がイベリスへと向けて一直線に突き進む。

 投擲される瞬間に発せられた大聖堂を揺らすほどの衝撃波。それは、撃ち出された光の矢が音速を越えていることを端的に示していた。

 禍々しい憎しみの色に染まる矢がイベリスを撃ち抜くことを疑う者など、その場には誰一人としていなかったに違いない。

 目の前で仲間が嬲られる光景を悲痛な面持ちで見やる。そんな絶望が大聖堂に満ち満ちた―― その時である。


 奇跡が起きた。


 アンジェリカから見れば正面左側に、イベリスの右側背後に位置していた扉。

 白亜の回廊と玉座の間を隔てる荘厳なる大扉が、またもや爆発したかの如く吹き飛ばされたのである。

 同時に、イベリスの周囲には一瞬にして神々しい青白い蒼炎の壁が立ち上がり、襲い来る光の矢の全てを異次元へ飲み込むかのように燃やし尽くした。

 顕現した光の矢の全てが燃え尽きると、やがて蒼い炎は龍の如くうねりを生じさせて一直線にアンジェリカへと襲い掛かる。


 悪魔であり、サタンである龍。

 即ち、かの年を経た蛇を捕えて千年の間繋ぎ止め、そして――

 底知れぬ所へ投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の歳月が過ぎ去るまで、諸国の民を惑わすことがないようにしておいた。

 その後、龍は“しばらくの間だけ解放される”ことになる。


 ヨハネの黙示録 第二十章二節より語られるドラゴンを再現したかのような御業。

 アンジェリカは自らに襲い掛かる蒼炎の龍に右腕を翳すして言う。

「神は我なり。神を恐れる者よ、大いなる者よ、共に我を賛美せよ」

 手向けられた龍の正体、その意味を悟り述べた言葉は、同じくヨハネの黙示録に綴られし言葉であった。

 その詩を合図として、アンジェリカの絶対の法が効力を発揮する。

 凄まじいまでの勢いでアンジェリカへと迫った蒼炎の龍の目の前に、青白い巨大な腕が数多に顕現したのだ。

 無数の巨大な剛腕が龍の身体を握り潰すように掴み、あっという間に引き裂いた。

 それは炎が消える間際に立てる風の音だったのだろうか。それとも、龍の断末魔であったのだろうか。

 獣の咆哮にも似た、悲鳴のような風切り音が大聖堂中を駆け抜けると共に龍の姿は消失し、青白い炎の残滓が大気へと散る。それと同時に、巨大な数多の腕も赤紫色の塵となって消え去ったのであった。

 アンジェリカは、先程まで大扉が据えられていた場所へと静かに視線を向ける。

 視線の先に立っていた者。それは、深海のように深い青色を宿すアースアイを持つ者。神に忠誠を誓う大いなる修道女の姿であった。

 その気迫、その威容、大いなる神の僕として立つロザリアは、蒼炎を周囲に張り巡らせたままアンジェリカを睨みつけて佇む。

 互いに微動だにせずに睨み合いを続ける最中、ロザリアの周囲で渦巻く蒼炎は勢いを増し再び龍の形を模して肥大化を始めた。

 狙いはただ一つ。燃える憎しみの炎を宿す瞳、複数の王冠を頂く、誰も知ることの無かった2つ目の名を有する悪魔を葬ることだけ。

 しかし、過ぎ去りしこの詩にはこの場で再現されていない前節が存在することをアンジェリカは知っていた。

 知っていたからこそ、彼女の“本当の狙い”がまったく別のところにあると悟ったのだ。

 例え記憶を読み取ることが出来なくとも、心の内が読み取れなくとも。相手が“不可視の薔薇”であろうとも。

「一人の御使いが、底知れぬ所の鍵と大きな鎖とを手に持ち、天より舞い降りる」

 アンジェリカはそう言うと、左腕を頭上に掲げた。その瞬間に、彼女は“何かを掴んだ”。

 否、左手の人差し指と中指で挟み込み、確かにそれを捕まえたのだ。

 彼女の左手の指先から伸びる、青白い炎を纏う大鎌。その獲物を駆るアシスタシアは柄を握る両腕に全身の力を籠めて振り抜こうとした。が、びくともしない。

「鎖ではなく、鎌だったというところが残念ね。狙いは悪くないのだけれど、如何せん――」

 顔を伏すアンジェリカは左手で掴んだものを思い切り下へと引きずり下ろし、大聖堂の床へと叩きつけて言った。

「薄弱に過ぎる」

 アシスタシアが地面へと叩きつけられた衝撃で大聖堂の床が大きく抉れた。

 並みの人間であったなら、全身の骨が砕け散り、二度と動くことが叶わないだろうほどの衝撃。元々抉れていた大聖堂の床の残骸が割れたガラスのようにアシスタシアの身体へと突き刺さる。

 極限まで身体能力が強化された人形であるアシスタシアといえど、尖った残骸への強烈な叩きつけには耐えられなかった。

 彼女が手にしていた大鎌は地面を幾度か跳躍した後、遥か彼方へと吹き飛ばされて大聖堂の床へと突き立ち折れる。

 人形とはいえ、その構造は人間とほとんど変わらない。身体中に走る痛みによって痙攣を起こし、動けなくなったアシスタシアを見下しながらアンジェリカは言う。

「たった一度きりの機会だったというのに、残念ね?」

 頭上に輝く棘の突き出る光輪は尚も輝きを増し、背中に顕現した黄金の翼の煌めきも衰えることはない。その御姿は天使か、悪魔か。

 見下しながら嘲笑を浮かべたアンジェリカは、この場に足を踏み込んだもう一人の敵の元へと歩み寄る為、アシスタシアの身体を“わざと”踏みつけ乗り越える。

 その瞬間、アシスタシアの身体に激痛が走った。

 華奢で小さな体躯をした、非常に軽いはずのアンジェリカの身体。だが、その小さな身体を支えるヒールに全体重を乗せ、アシスタシアが“致命的な怪我を負った場所”を踏み込んだとしたら。

 どうなるかなど自明だ。

 先の彼女の嘲笑とは、激痛に身を震わせるアシスタシアが“最も痛がるであろう場所”を見極め知った上で、さらに“突く”という前触れだったのだ。

「もっと泣き喚いても良いのよ? 綺麗な顔が台無しになるほどに苦痛に歪ませ、身を捩らせ、無様に喘ぎなさい。貴女の刃はもはや、私には届かない。生命に対する絶対の裁治権も、こうなってしまえば形無しね」

 視線だけで後ろを振り返りつつ、クスクスとした笑いを湛えながらアンジェリカは言った。そうして次の標的へ視線を移して続ける。

「総大司教ともあろうものが、笑ってしまうわね。貴女がこの人形で再現したのは自身にとって忘れ難き記憶と思い出。“大切なお母様の面影”。いえ、むしろそのもの。千年の孤独を忘れ去る為に、永劫に忘れられない記憶を再現した至高の芸術。そうして“アレ”を作ったのでしょう? 母の似姿をした者が、無抵抗に痛めつけられる様子はどうだったかしら。ちゃんと、高鳴ってくれたかしら? ぜひ、この場で感想を聞かせて欲しいものだわ」

 ねっとりとした口調でアンジェリカは言い、その視線の先に佇むロザリアの周囲には怒り狂うような蒼炎が渦巻く。

「貴女が教えてくれないなら私の感想を言いましょう。私は昂ったわよ。これまで散々邪魔立てされてきたのだもの。ミクロネシア連邦でも、ミュンスターでも。いえ、遡ればハンガリーの時もそうだったかもしれない。それを指先ひとつ、足先ひとつで捻り潰す快楽、享楽。

 私の道を阻むという罪に対する裁き。狂おしいほどに愛おしい瞬間。この喜びの為にどれほど屈辱を内に秘めたまま耐え忍んできたことか」

 そこまで言ったアンジェリカはロザリアのすぐ目の前に立ち、彼女の青く輝く瞳を覗き込むように見つめた。

「シルフィーの痛みを返すわ。貴女は普通には殺さない。相応しい死に様というものをあげましょう」

 歩み寄る際の笑みは消え去り、怒りと憎悪に満ちた眼差しがロザリアへ注がれる。

 それは偏に、テミスの一柱であったシルフィーに対する想いによるもの。

 アンジェリカが言葉を紡ぎ終えた時、それまで言葉一つ発することなく佇んでいたロザリアがようやく重たい口を開いて言った。

「それで満足するというのなら、如何様にも。既に存在し得ないわたくしの命ひとつで、世界に対する怒りが収められるのであれば安いものですわ。ですが、怨念返しによって得られるものなど虚しさ以外にない。知らぬ貴女ではないでしょうに」

 静かに火花を散らし、激しい睨み合いをする2人の周囲には想像を絶するほど重苦しい空気が満ちる。殺意に満ち、負の重圧だけを感じさせる空間。赤紫色の炎と、蒼い炎とが絡み合っては消える光景は、まるで互いを“絶対に受け入れない”という意思を激しくぶつけ合うかのようであった。



 そんな中、ロザリアが玉座の間の内壁周辺に展開していた蒼炎の防壁の内側では、息を潜めたルーカスが密かに壁伝いに移動し、イベリスの元へと辿り着いたところであった。

 動きを読まれれば即座に殺されてしまうだろう。或いは、アンジェリカは既に気付いていてわざと見て見ぬふりを決め込んでいるのかもしれない。

 なぜなら、特別な力を持たぬ機構の隊員を1人亡き者にすることなど造作もないことのはずなのだから。

 額から流れ落ちる汗に構うことなく、ルーカスは小声でイベリスへ呼び掛けた。

「イベリス、イベリス……!」

 そのように名を呼んでも、彼女は力なく何かを囁くだけで反応を示そうとはしない。

『怪我は…… 無くて当然か』

 身体を構成する全てが光子によって成り立っていると言われる彼女が身体的な怪我を負っている様子はまるでない。

 激しい戦いによる痛みは残っているのかもしれないが、たとえ怪我を負ったとしても見かけ上の傷口はすぐに修復されてしまうのだから。

 だが、倒れ込む玲那斗を目の当たりにしながら、一歩も動けなくなるほどに精神的にアンジェリカに打ちのめされたことは間違いないのだろう。

 こういう時に何の力になることも出来ない自身の無力さにルーカスは奥歯を噛み締める。

 目の前で力なく横たわるイベリスは朦朧とする意識の中で、人には理解出来ぬ言葉の数々を並べ立てるばかりであった。

 ただ、ルーカスには彼女が何を話しているのかこそ分からなかったが、ただひとつだけ理解出来たことがある。

 彼女の発する言葉には何一つ悪意が含まれていないということだ。

 自身を打ちのめし、アルビジアを傷付け、アシスタシアへ報復し、今まさにロザリアへ襲い掛かろうとしているアンジェリカに対する怒りや恨みなどまるで感じさせない。

『どこまでいっても、イベリスはイベリスだ』

 気を緩められる状況ではないが、そうした彼女らしさに安堵感を覚えつつ、ルーカスは呼び掛けることを止めた。

 たとえ言葉が分からなくとも彼女が内心で何を考えているのかを察すると、視線を離れた位置に倒れ込む玲那斗へと向け直す。

『蒼炎による防壁は奇襲計画にないところまで伸びている。大司教様は玲那斗の位置を即座に測ったな。俺があいつのところまで辿り着けるようにしてくれたってところか。イベリス、待ってろよ。今すぐ旦那のところに連れて行ってやるからな』

 辿るべき道筋を確認したルーカスはロザリアの機転と取り計らいに感謝しつつ、アンジェリカに動きを悟られないようにイベリスを抱きかかえると、そのままの足取りで玲那斗の倒れ込む場所まで足早に移動した。


 そうして玲那斗の傍までやってきたルーカスであったが、彼の状況を見て愕然とした。

 遠目から見るよりも遥かに状況が悪い。仰向けで地面に横たわる親友の顔面は蒼白で、自身で身動き一つすることもままならず、息も絶え絶えといった有様だったからだ。

 引き裂かれた隊員服から覗く胸部には、王家の守護石が埋め込まれていたはずのプレートの残骸だけが残り、それが彼の微かな浅い呼吸によって僅かに上下動を繰り返している。

 時折、身体の一部を動かしているように見えるが、それは本人の意思によるものではなく痙攣からくるものではないかとルーカスは考えた。

 言葉なく、抱きかかえたイベリスをそっと下ろし玲那斗へ言う。

「玲那斗、玲那斗!」

 アンジェリカに気付かれないよう、囁くほどの小声でしか呼び掛けることは出来ない。その為、同時に身体を揺さぶってみたが特別な反応が返ってくることはなかった。

 ルーカスは懐からヘルメスを取り出すと、玲那斗の腕を取ってそれを押し当て、生体スキャンを実行した。

 スキャンシステムが故障していないことを祈りつつ、即座にホログラフィックモニターへ表示された応答結果へ目を通す。

『異常無し? 浅くはあるが確かに自律呼吸はあるし、心拍も乱れている様子はない。数字だけで見るなら命に別条があるわけではないが、しかしな。この状態がまともであるわけがない。とすれば……』

 傍から見るだけであれば、いつ呼吸を止めても不思議ではないという状態に見える玲那斗。プロヴィデンスがそんな彼の容態について導き出した答えは、“異常なし”という判定だった。

 だが、機械の目ではなく人間の目から見れば、それが妥当な判定であるとは受け入れ難い。

 この状況を引き起こした、何か別の理由があるはずだ。であるなら、考えられる原因とは何か。

 とはいえ、“答えが分からない”という答えが既にあるなら話は簡単である。人智に解明できない謎を引き起こす要素など、この空間内には一つしか存在しないのだから。

『アンジェリカに何かされたな。その何かってのは…… いや、待てよ。原因不明の体調不良を起こす現象について、ミュンスター騒乱の際にフロリアンから報告が上がっていたはずだ』

 心当たりを見出したルーカスはすぐさまプロヴィデンスのデータベースにアクセスし、とある情報を閲覧した。

『赤い霧。見た者、包まれた者の心象心理に干渉し、その者が最も忌避する状況、或いは対象を具現化するもの。“ウェストファリアの亡霊”を具現化させていた代物か。俺達も2週間前に見たあれのことだな』

 アンジェリカに導かれてアンヘリック・イーリオンへ初めて訪れた際、ラオメドン城壁周囲に立ち込めていた不穏な気配を放つ霧の存在を思い出す。

『そう考えると、玲那斗の肉体的ダメージが一切ないことにも合点がいく。何を見せられたか…… それはおそらく――』

 視線をすぐ傍のイベリスに落とし、ルーカスは確信した。

 自身の仮説が正しければ、この場で有効な治療法などないことになる。ただひとつ出来ることがあるとすれば、彼が心象に描いた忌避すべき空想を消し去る手伝いをすることくらいだろう。

『玲那斗、安心しろ。お前の大好きな嫁さんをすぐ傍に連れてきたからな』

 そう思いながら無二の親友である彼の手を、イベリスの手に重ねて握らせた。



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