*4-2-6*

「良い風だ。景色がとても美しくて、眺めも素晴らしい」

 背後から差す温かみのある照明によって、うっすらと浮かび上がる漆黒の海。月もほとんど新月に近く、夜空に星が輝くわけでもない。

 海も空も、ただ暗いだけの夜景。それでも、彼女は“美しくて素晴らしい”という。

 無邪気な笑みを見せる彼女を微笑ましく見つめ、フロリアンは自身も水平線の向こう側へと視線を向けた。

「素晴らしい眺め、か。もっと星が輝いて、海が月の光で揺蕩う様子でも見られたら良かったんだけど」

 偽りのない本音である。愛する彼女と共に眺める景色は、常に最高のものであってほしい。

 しかし、彼女は首を横に振って言う。

「今の私にとっては、この目に映るもの全てが“素晴らしい”。たとえ月が隠れていようと、星が瞬きを潜めていようと、水平線の彼方が暗かろうとね」

「どうして、そう思うんだい?」

 フロリアンが問うと、彼女は深く息を吸って胸を大きく膨らませ、ふっと息をつくと同時にとても満たされた表情をして言った。

「決まってるじゃないか。君と一緒に見る景色だからだよ」


 黄金色のウェーブがかった髪は今日も艶やかで、透き通るような白い肌に宝玉のように輝かしい赤い瞳を持つ彼女の神々しさ。ただ“美しい”というだけでは形容が足りない。

 それでは足りないのだ。あまりにも言葉が弱々しい。

 黒のゴシック風パーティードレスに身を包んだ彼女の姿は天使のようでもあり、女神のようですらある。

 フロリアンは今自身の目の前に佇む、何年も前から交流を重ねてきた最愛の人の姿を瞳に捉えて離さなかった。

 マリア・オルティス・クリスティー。彼女がどんな人生を歩み、どんな経緯を経て此処に存在し、どんな立場であるかなど今この瞬間においては全て些事だ。

 彼女は自分と眺める景色が美しいと言ってくれたが、自分は周囲の景色よりも常に彼女だけを見続けていたいと思う。

 マリアの喜ぶ顔、マリアが無邪気にはしゃぐ姿。時には苦痛や悲しみもあるだろう。そういったことも含めて彼女の全てをこの目で捉えていたい。

 この世界が例え明日か明後日終わるのだとして、終焉を迎える世界の中にあっても彼女と2人だけでいられるのだとすれば“自分は”それで満足だと思う。


 もっと、もっと近くで。

 もっと、もっと長く一緒に。


 だが、このようなことを彼女に言えば怒られるに違いない。

 アンジェリカの計略によって、未曽有の大災害に巻き込まれた世界の行く末に全ての責任を負っているような立場こそ、今の彼女が身を置くものである。

 思っても言葉には出来ない。してはならない。


 しかし、それでも。思わずにはいられないのだ。

 彼女と2人で紡ぐ幸せのことを。



 フロリアンは頭の中で自分よがりな考えを巡らせた後、それを一旦片隅へと追いやった。

 1階ホールの喧騒は遥か彼方。彼女と簡単な夕食を楽しみ、ほんの少しだけ社交ダンスを楽しんでからここへ来た。

 ごく一部の人間しか立ち入りを許されていない3階バルコニー。

 広いバルコニーではあるが、周囲の人影は非常にまばらだ。なぜならこの場というのは各国の軍を統括する将官や政府要人、その家族くらいしか足を運ぶことが出来ない規定なのだから。

 そんなVIP会場であるバルコニーに今自分は立っている。なぜ自分がここに足を踏み入れることが出来たかといえば、もちろん全て“彼女のおかげ”である。


 こっそり抜け出そうと自分で言っておきながら、正直どこに向かおうかなど考えてもいなかった。

 せいぜい、人が少しだけ少なくなる2階ベランダにでも行こうかと考えていたくらいだ。

 だが、自分がその思惑を実行する為に2階のベランダへ足を向けた時、マリアは腕を掴んで静かに首を振ったかと思えば、まっすぐにこのバルコニーへ通じる通路へと自分を引っ張ってきた。

『まったく…… いつもエスコートされているのは僕の方じゃないか』

 彼女の言う通り、自分は卑屈屋なのかもしれない。

 フロリアンは若干の自虐を思いながら、マリアが見つめる先をようやく自身の目で見つめた。


 ふいにマリアが言う。

「この時間が永遠に続けば良いと思う。誇張でも何でもない、本心であり私の欲望だ」

「珍しいことを言う。酔っているのかい? マリー」

 彼女らしくない物言いだとフロリアンは思った。

 マリアはバルコニーの手すりに両腕をついてどこを見つめる風でもなく遠い目をして独り言のように言った。

「酔っているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。私はこの時を待っていた。君が私の全てを知り、その上で私と共にこのように戯れながら共に会話をしてくれる瞬間というものを。待ち侘びていたんだ。しかし、いざその瞬間が訪れてみれば、思っていたよりも何ともないものだね。君は私の秘密を知っても驚かなかったのかい?」

「まさか。腰を抜かすほど驚いたさ。2週間前の会合の時、驚きのあまりただの一言すら発することが出来なかった」

「そうか。ならばもうひとつ問おう。こんなところで問い掛ける質問でもないのだけれどね? 君はアンジェリカから私の理想とする世界の行く末について何か聞かされたはずだ。そのことを知って尚、私の傍から離れようとしない。

 彼女から聞いた話を、君はどう思う? 私が目指す理想を目の前にして、君はどうする?

 私が世界に対する裏切りにも等しい行いをしようとしたとして、君は私を止めるのかい?」

 先程まで浮かべていた無邪気な表情はそこにはもうなかった。

 フロリアンは横目でマリアを見るが、彼女はただぼうっとした視線を遠くに投げかけるばかりで、何かをその目に捉えているという様子はなかった。

 むしろ、瞳の奥に映る景色は今目の前に広がる光景ではなく、まるで別の世界のものを見据えているようですらあったのだ。それも、彼女の異能によって垣間見るという未来ではなく、どちらかというと過去を思い返すかのように。

 アンジェリカはパノプティコンの中で自分を捕えた時に言った。マリアの理想とは機械―― つまりは全知全能のAI、プロヴィデンスによる全人類の支配的な統治であると。

 真実であれば絶対に阻止すべきことであるだろう。だが、今ここで直接的にその内容について議論する気にはなれなかった。

 マリアも自分と視線を交わして話そうとしないということは、この場で答えを決定づけるような結末を求めているわけでもないのだろう。

 考えを一通りまとめてからフロリアンは言う。

「もし仮に…… もしもマリーが間違った道を進むのなら僕はそれを正す。過ちを犯すなら、僕は君を外した道から連れ戻す。罪を犯したなら共に償う。あの日、君の手を取った瞬間から決めていたことだ。何も変わらない。これからもずっと」

「ロマンチシストの言うセリフだ。だが、ロマンチシストというのは言葉で言うよりも、目の前に訪れた現実に対しては常に憶病になるものだと認識している。

 何故なら彼らは常に甘美なる空想の世界に生きている。空想の中にいるからこそロマンを語ることができるのだから。君はどうだい? その言葉に偽りは……」

 マリアがいつもの調子で言いかけた時、フロリアンは遮って言った。

「ない。僕からも君に問いたい。マリー、君には未来視の力が宿っているが、その力をもってしても僕の未来を視通すことは出来ない。間違いないね?」

「アンジェリカから聞いたか。厄介な気まぐれ猫、実にお喋りな輩だ。私もロザリアも、別に隠しているというわけでもなかったのだけれど、結果としては隠すようになってしまっていた。

 そうだ。私には君の未来“だけ”が視えない。確定的な先を見据えるこの眼をもってしても、君の未来は非常に曖昧で、不確定で、何も決まっていない。

 先が無いというわけではなく、かといって先が続くというわけでもない。不思議なものだ。誇張ではなく人より長く生きてきた。その人生の中で、私は君と同じような人を2人と知らない」


 だからこそ。

 目に見えない不確定要素に心を惹かれた。ある意味、自分の理想や運命を覆す何者かであるのではないかと期待した。

 つまりは“人の持つ可能性”というものに。それは言ってしまえばイベリスと同じである。

 彼は私という人間の抱く理想を罪と認め、それを裁くことの出来る人物。

 アンジェリカの言うように、愛という名の罰によって救済を施すことが出来る人物。

 期待などしてはならない。他者に期待など抱かないと決めたからこそ、プロヴィデンスによる人間社会の統治実現を目論んでいるというのに。そのはずなのに。


 私は君が思う程綺麗な女ではない。美しいものではない。その想いはハンガリーで出会い、マーチャーシュ聖堂で少年合唱団の歌を聞いた際に考えたことより変化はない。


 何も求めてはならない。自身の理想を抱いて、その理想に殉じる。

 他に必要なものなど何もなく、ただ己の願う未来の創造の為だけに力を振るう。


 それで良い。それで良いはずだったのだ。


 頭の中に、当時聖堂に美しく響いた少年たちの声が蘇る。

【Holy, Holy, Holy, Lord God Almighty,】

 預言者イザヤの見た神の幻、使徒ヨハネに与えられた啓示のパラフレーズ。

 私の穢れ、私の悪、私の罪は清められることなどあるのだろうか。

 私の罪を裁く為に、醜悪な私の唇に熱した炭を押しつけてくれるものなどあるのだろうか。

 もし、そんなものがあるとすればそれはきっと…… 今、私の隣にある。


 ほんの僅かな時間で良い。

 この夢が、もう少しだけ、もう少しだけ長く続きますように。


 マリアはおよそ6年前に考えた想いを再び巡らせた。

 何年経っても変わらないものだと思う。


 そして、願い通りに彼は今自身の隣に立ち、傍に寄り添い、自分と同じ方向を見据えて自分の言葉に耳を傾けてくれている。

 彼は悪いことは悪いというだろう。咎めるべき悪は断じるだろう。

 期待してはならないと思いながらも、私はそれを期待してしまっているのだ。


 理想の為に生きて、理想の為に“死のうとしている”私を彼が罰してくれるのを。


「さて、私に君の未来を読むことは出来ないわけだが、君の頭の中では私との未来はどのようになっているのかな?」

 こんな物言いはただの誤魔化しだ。

 本心を心に留めたまま、いつもの調子で彼に言う。

 だが、フロリアンの返事は想像を良い意味で少し外れたものとなった。


「未来の形なんて、決めてしまうものではないと思う。やりたいことも、人生の意味も目的も見つけられずにいた僕だからこう思うのか分からないけど、決まってないからこそ未来というものは明るく、そして希望が持てるものなのではないかと思うんだ。

 ノアの箱舟計画が始まり、いよいよ明後日には共和国と戦火を交えることになるだろう。そこで僕が生き残るかどうかは分からない。不吉な物言いに聞こえるかもしれないけれど、君の目にもそれは分からず、当然僕自身にもどうなるかは事実として分からないんだ。

 開けてみるまで結果なんてわからない、シュレディンガーの猫。けれど、たとえ死という未来が定まっていたとしても、今ここで開けなければどちらにもなることが出来る」

「へぇ、随分と遠回しな例えを用いて言う。結論は出ず、何も分からないままが答えということかい?」

「人は誰もがいつかは死ぬ定めをもっている。であるならせめて、その間に起きる出来事、つまり未来は定まっていない方が楽しいと思うだけさ。物言いについては君の癖が移ったんだろう。物言いというものは、好きな人の影響を受けると言うからね」

「そうか。決まってない未来に明るさや希望という可能性を求めるという話の中身的には、いつも君達と一緒にいるイベリスが喋りそうな内容だと思っていたのだけれど。まぁ、そういうことなら好意的に受け取っておこう」

 沈んでいたマリアの表情が明るくなる。

 マリアはぐっと顔を寄せると、人差し指を柔らかく張りのある唇に当てて蠱惑的に囁く。

「君の考える未来の中に、私という存在があるなら十分だ」

「むしろ、それしかない。以外には無いんだ」

 他の何もいらないと言わんばかりの勢いで言ったフロリアンにマリアは声を出して笑った。

 何物にも代えがたい心地よさ。

 本当に、この至福の時が永遠に続けば良いのにと心から思う。

 一方的ではなく、互いの心がそう考えている。


 海を見つめていたマリアとフロリアンの視線が間近で交差する。

 暗い海を背後に、室内から淡く漏れる光が2人を幻想的に映し出した。

 ただ互いを見つめ合う2人。

 時が止まってしまったかのような静寂なる空間。


 だが、ふいにこの場で聞くにはなかなかに珍しい声色の持ち主の言葉が2人の耳に届いた。

「ぱーぱ、まーま?」

 マリアとフロリアンは寄せていた顔を離すと、揃って声の主へと目を向ける。

 すると、広いバルコニーの中央をとことことした足取りで愛らしく歩く幼い子供の姿があった。

 子供の向かう先には紳士的な男性と、その妻らしき人物の姿、つまりは“パパとママ”の姿も見える。

 おそらくはパーティーに参加している軍将校の家族だろう。基地の中でも家族を呼び寄せる特権は、そういった類の人物達しか持ち得ぬ権利であるからだ。


 不安定な足取りで走りながらも、しばらくの後に無事両親の元へと辿り着いた子供。

 両親は自分達の元まで走り切った我が子を、満面の笑みで抱き上げている。

 彼らの様子をフロリアンは微笑ましく眺めていたが、マリアは浮かない表情をしつつ声を潜めて言った。

「フロリアン、君は子供が好きかい?」

「あぁ、好きだよ」

「へぇ、将来のことも考えているのかい?」

「もちろん。温かい家庭を作ることに憧れがある。遠い昔に両親が僕にしてくれたように、僕も自分の子供が出来たなら可愛がってあげたいと思う。色々な場所に連れて行って、色々な場所でたくさん話をして、色々な場所で美味しいものを食べて。

 人並みのことしか言えないし、言ってしまえばありきたりだけど、そういう平凡な温かい日常が過ごせたら幸せだって思うんだ」

「そうだね。“変わらない日常こそが何よりの幸福”だ」

「その景色の中には君の姿がある。マリー」

 フロリアンが言うと、マリアは一瞬視線を向けて微笑んだが、またすぐに下を俯いてしまった。

 なぜ突然に子供のことを問い掛けたのだろうか。

 目の前を子供が通りがかったから…… いや、違う。それ以外に何か明確な理由がある。ただ、それが何なのかについては彼女のみ知るといったところだ。

 フロリアンは不思議に思いながらも、尋ねられたことに対して、自らの中にある嘘偽りの無い答えを彼女へ伝えた。

 彼女は視線を落として俯いたまま、再び後ろを振り返ると暗い海に目を向け、何を見つめるでもなく虚空を見据えて小さな吐息を漏らす。


 それからしばしの間、マリアは何か考えを巡らせるようなそぶりを見せ押し黙った。

 が、ついに意を決したように静かな口調で話し始めた。

「フロリアン、今この瞬間に言うべきことかどうかは分からないが、君には言っておかなければならないことがある」

「何だい?」

 真剣な表情をする彼女の物言いに、フロリアンは少し胸騒ぎを覚えたが言葉や態度に出すことは無く耳を傾けることに決めた。

「私はつい今しがた、君が語ってくれた将来の理想像について深く感銘を受けたし、その理想の中に私がいると言ってくれたことをとても嬉しくも思う。なぜなら私は君を愛しているからね。ただ……」

「ただ?」

「君の描く理想の中で、たったひとつ。私には絶対に叶えることの出来ないものがあるんだ。いや、君の為に叶えてあげることができないことがある」

「叶えられない、こと?」

 フロリアンには答えがなんとなく分かっていた。

 会話の流れからして、彼女が言おうとしていることはきっと。

 次の瞬間には彼女は答えたが、その答えというものはまさに想像していた通りのものであった。


「フロリアン。私はね、子供が出来ない体なんだよ」


 そう言ったマリアの瞳は僅かに潤んでいた。

 気弱な姿を彼女が見せることなど滅多にあるものではない。フロリアンは彼女のそのような姿を見たのはこれが二度目であったが、最初に目にしたのはおよそ6年前の話だ。

 厳しい冬が訪れていたハンガリーの地で、彼女の涙を見た。


 マリアは星も出ていない暗い夜空を見上げながら続ける。

「私の出自、私の人生、私の立場、私の異能、私の理想。ここに来るまで多くの隠し事をしてきたが、正真正銘これが私の最後の隠し事だ。

 気の遠くなるほどの遠い昔、神と契約を結んだ私は“永遠の命”と“未来を読み取る眼”を手にする代わりに“未来を生み出す力”を失った。

 それ以前に、元々私がそういう体質であったというだけの話かもしれない。

 君が嬉しそうに将来を語る姿を目にして、言おうか言うまいか迷った。言ってしまえば、君の夢のひとつを壊してしまうことになると思ったから」

 そう言ったマリアは虚ろな目をしたままじっと空を見上げた。


 彼女には未来視の力がある。

 普通の人間が持ち得ない超常的な異能を持っている。

 直近の未来から少し先の未来、或いは遠い未来のことまでを読み取り視通す力。

 ……であるということは、彼女は自身が話しをする相手について“自分が何を言えば、次に相手がどう答えるのか”ということがこれまでは全て分かっていたということだ。

 長きに渡る人生の中で、彼女の会話とは常にそうであったに違いない。

 しかし、今この瞬間は違う。


 マリアは、自身が最愛と認める相手の心だけが読めない。


 自分が何を言えばどう思い、何を言うのか分からない。

 彼女がいつも言う言葉を借りれば〈正しいのか間違っているのか〉が分からない。


 それはきっと、何よりも怖かったに違いない。 


 彼女が先に話した内容は、言葉が本来意味するものよりずっと重い意味が込められている。

 言ってしまえば、相手が自分から離れてしまうかもしれない。

 言ってしまえば、これまでとは同じでいることはできないかもしれない。

 だからこそ出てきた言葉が『君の夢のひとつを壊してしまう』というものだったのだろう。


 フロリアンはマリアの横顔を眺めながら、彼女がどれほどの勇気をもって話をしてくれたのかを考えた。だが、途中で考えることを止めた。

 考える必要などない。自分の答えは常に決まっている。

 自身が着ているジャケットを脱ぎ、そっと彼女の肩に羽織らせて言う。

「比較的、秋も冬も温かいところだと思うけど、夜の海風に当たればやっぱり冷える。寒くないかい?」

 彼女から返事はない。不安そうな視線を向け、何かを言おうとした風だが呑み込んだように見える。

 フロリアンは続けて言った。

「十分なんだ」

 そう言うと、マリアの華奢な肩を掴んで半ば強引に振り向かせ、自身の両手で彼女の小さな身体を力いっぱいに抱き締めた。

「マリー、話してくれてありがとう。君はきっと話すのが怖いと思っただろう? でも大丈夫。この温かさがあれば僕は十分に満たされる。

 ブダペストでも、ミュンスターでも約束した。僕は一度掴んだ君の手を決して離さない。約束したことに嘘なんてない。何があったって、君を手放したりなんてするもんか。それに……」

「それに?」

 なすがまま。肩をすくめ、力を抜いて体重をフロリアンに預けてマリアは問う。

 フロリアンはマリアの耳元に顔を寄せ、他の誰にも聞こえないように囁いた。

「マリーだけじゃない。僕も絶対に叶えることの出来ないことがある。僕も君の夢をひとつだけ叶えることが出来ないんだ」

「君が、叶えられないこと?」

「君より長く生きることだ。さっき言った通り、人はいつか死ぬ。つまり僕もいつかは死ぬ。それがいつであるかはわからないにせよ“その時は必ず来る”。

 ずっと一緒にいたいという君の夢を、僕は叶えることが出来ない。何も変わらない日常が何よりの幸せであるとわかっていても、過ぎ去る時間の流れの中で変わらずにいることが出来ない。いつか必ず、君だけを残してしまう時が来る」


 不老不死であるマリアより長く生きることは叶わない。

 美しいままの彼女とは異なり、年齢を重ねて老いて、やがては死に至る。

 死という結末に至るのがいつのことかはわからない。十年、五十年後か、或いは明後日かもしれない。

 フロリアンは続ける。

「でも、君の心の中になら永遠に生き続けられると思う。だからたくさん想い出を作りたい。毎日、どんな時間でも。その為に、君が傍にいてくれたら十分だ。他には何もいらない」

「そうか。でも、それはとても……」


 残酷だ。


 言いかけて呑み込んだ。

 心の中にある記憶というものは時に優しく、温かい。だが、二度と戻らないものだと悟った瞬間に悲しみが押し寄せて来るものでもある。


 この時、マリアは常に自身に寄り添う彼女のことを思い浮かべていた。

 世の中には、好き好んで【死を求める】者がいる。死という理想を叶えるために、自身に付き従う彼女の気持ちが今なら分かる。


 自分も彼と一緒に死ぬことが出来るなら。


 彼の言葉を聞き、彼女の姿を思い浮かべて、そう思ってしまったのだから。

 死という概念が欠落した今の自分に与えられる最大の罰とは彼の死なのだろう。もし仮に、アンジェリカとの戦いによって自身に何かしらの罰、彼女の言うところの“愛”が与えられるのならそれはおそらく……


 考えたくない。そんなことならいっそのこと。


 或いは、そう。いずれは別の彼女に、ヴァチカンの総大司教に殺されてやるのも悪くないのかもしれない。

 自らの理想を叶え、自らの目的を達した後なら、いつだって。


 マリアはフロリアンの胸に顔を寄せ耳を当てる。

 彼の抱く緊張からか、力強くも少し早鐘を打つ心臓の鼓動が直接伝わってくる。何よりも生を実感する“音”だ。

「フロリアン、私は傲慢で我儘な女だ。この時間がいつまでも続けば良いと思っている」

 永久に、永遠に。自身の死が望めないのであれば、彼自身の力強い鼓動が永劫に続けば良いのにと願う。

 彼に不老不死を与えることが叶うなら。


 擦れる程に小さく囁いたマリアにフロリアンは優しく言う。

「僕だってそうさ。君との時間が“永遠に”続けば良いと思っている」

 任務や使命より、その方が大切だ。たとえ、死によって分かたれて、想い出という記憶の中にしか残らない永遠であっても――

 と、言葉の続きを口先に出そうとして思いとどまった。

 グラン・エトルアリアス共和国に赴く前、自室でアンジェリカの計略に掛かってしまった際に頭によぎった考えが再び蘇る。


 あの時と同じ言葉を、あの時と同じことを考えている。

 しかし今、目の前で抱き締めているのは間違いなく、正真正銘マリア本人だ。アンジェリカの放った、いや、おそらくはアンディーンの細工したであろう影の化物とは違う。

 今は、影の化物が自分の思考がそう傾くように誘導しているのではない。にも関わらず、あの時よりずっと、強く、想ってしまっている。


 そうだ。これが、これこそが“自分の本心”なのだ。

 世界の行く末、戦争の結末、それらよりも大切なこと。

 長い自分探しの旅の果てに見つけたレゾンデートル〈存在理由〉。

 願わくば、抱く想いが絶えること無い未来が訪れますように。



 バルコニーに強い海風が吹き込んだ。

 秋の訪れと、冬の気配を纏う冷たさを帯びた風は、抱き合う2人の熱には遠く及ばない。


 マリアとフロリアンは、周囲の軍将校や政府関係者達の視線をはばかることなくいつまでも互いを抱き締め合った。

 そうして2人は互いに同じ想いを抱きながらも、しかし違う理想を描く。


 不老不死という絶対的な生を与えられた者。

 定命というやがて訪れる絶対的な死を感じ取る者。



 明日という日の正午には〈ノアの箱舟計画〉は始動する。

 パーティーに参加している兵士たちは皆が戦争の惨禍へと突き進む。

 この場に集う者達の生と死も、遠くない未来にどちらかの結末を見せることになる。

 だからだろうか。若い男女の2人がバルコニーで抱き合う姿を見て咎めようとするものなどいなかった。


 愛する人との最後の時間になるかもしれない。


 この後、深夜に至るまで。

 多くの者達が目の前にいる家族と肩を寄せ合い、温もりに満ちた“最後の休息”を過ごすのであった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る