*4-2-2*

 荘厳な雰囲気で満たされたパーティー会場。

 かつて、ハンガリー国立歌劇場で目にしたあの舞台を彷彿とさせるような煌びやかな内装。今の今まで、セントラル内にこのような絢爛な施設があるなど知りもしなかった。

 いや、データの上だけでは知ってはいたが、実際に目にしてみると何というのだろうか。現実であると認識するまでに至らないというか、頭での理解が追い付かないというのだろうか。

 世界各国でいうところの国賓を招く為の迎賓館の脇に聳えるドーム型の建物。一度中に足を踏み入れてみたいと常々思っていたが、よもやこのような時分、このような形で入館することになるとは思ってもみなかった。


 フロリアンは着慣れぬタキシードに身を包み、夢の中で見るような景色に圧倒されながら待ち人が自分を訪ねて来るのをじっと待っていた。

 手持無沙汰、目のやり場がない。ただ落ち着かないというだけではなく、場慣れしていない為に何をして良いのかすらわからない。

 通りすがりの人々に軽く挨拶をするのが精一杯で、テーブルに並んだ料理や飲み物に手を付ける気分にもなれないし、ましてや中央カウンターに設置されたバーに赴くなどもっての他だ。


 頼む、早く来てくれ…… これ以上はいたたまれない。


 ドーム型のアーチ天井の周囲に流れる映像を眺めながらそんなことを考えていると、品のあるヒールの音がゆっくりと近付いてきた。

 フロリアンは聞き慣れた歩調のヒール音に即座に振り返り、そこに佇んでいた人物を一目見て満面の笑みを咲かせた。

「マリー、やっと来てくれた」

 偽らざる本音だ。彼女にただ会いたいという気持ちと共に、何をして良いのかわからないという疎外感にようやく終止符が打たれる。

 目の前には最愛の彼女が立ち、穏やかな笑みを湛えて優しい視線を投げかけてくれている。

 黒のゴシック風パーティードレスに身を包み、ミュンスターで見せてくれたような大人の色気と雰囲気を纏うマリアを前に、今やフロリアンの胸の鼓動は頂点に達しようとしていた。

「やぁ、遅れてしまってすまない。ギャラリーを振り切るのに苦労してね。普段はアザミがそういったことを引き受けてくれるから、戸惑ってしまったよ」

 本当のところはどうだろうか。今日はマリアと2人きりの時間を提供する為にアザミは敢えて席を外しているので、要領に戸惑ったというのはある程度は真実ではあるのだろう。

 ただ、マリア程の人物がギャラリーを振り切るのにさほど苦労するとは思えない。

 とすれば答えはひとつ。彼女は自分に何かを言わせたがっている。

「迎えに行くべきだったかな。こんなに美しい姫君に直接出向かせるなんて、男の恥だったかもしれない。今日も綺麗だよ、マリー」

 マリアの求める言葉を探し出し、フロリアンは跪くポーズを取りながら彼女へと手を伸ばす。マリアは差し出された手に自身の掌を重ね、柔らかく握り返して言った。

「君のことだ。迎えに来ると言ったきり、きっと迷子になっていただろうね。それと、場慣れしてない割にはこういう所作はしっかりとしているんだな」


 どうやら正解だったらしい。

 相も変わらず褒めているのかけなしているのか掴みづらい物言いだがしかし、これは単なるマリアの照れ隠しの類の言葉だ。

 彼女の嘘が顔や仕草に出ることはよく知っているし、今の彼女の朱色に染まった頬を見ればこの考えの正当性がすぐにわかる。

 今のマリアは、とても国連の秘匿部門を統べる局長の姿には見えない。ただの1人の女の子そのものだ。


 フロリアンがそんなことを考えていると、まるで考えを読み取ったかの如くマリアは言った。

「ここは良い。多くの人が私の立場を知らず、また私も自身の立場を気にすることなく好きに場を楽しむことが出来そうだ。きっと、目の前の騎士様が素敵な夜に連れ出してくれるんだろう?」

「もちろん。仰せのままに」

「では、どこへ向かおうか。軽食をとって、アルコールを楽しみながら話に花を咲かせるも良し。向こうでダンスを踊るのも一興だ。けれど君のことだから、おおよそこの場でゆったりと賑やかな催しを楽しむということはしないのだろうね?」

「僕に言わせなくても、君が言ってくれれば良い。マリー、期待していることを叶えてあげるよ」

「ノープランの者が言う言葉だ。でも、そうだね。ではほんの少しだけ向こうで夕食を頂くとしよう。ここに来る途中、珍しい料理を見つけたんだ。思うに、世界中の食事を日々楽しむことができるセントラルでもなかなかお目にかかることのない逸品だと思う。2人で夕食を楽しんで、会話を楽しんで。その後のことは任せる。君の口から聞きたいんだ」

 蠱惑的な表情をしたまま一歩、また一歩と距離を詰め、最後は耳元で囁くように言ったマリアにフロリアンは何も言えなくなった。

 ブダペストで出会ってから何年も経つというのに未だに慣れない。彼女の美しさ故か、愛らしさ故か。自身の心臓はとても素直に鼓動を高鳴らせ、今やこの日最高速度のビートを刻んでいる始末だ。

「じゃぁ、と、とりあえず向こうのカウンターに行こうか。その、珍しい料理を頂こう」

 生唾を飲み込みながらなんとか振り絞るように言ったフロリアンを見て、マリアは満面の笑みを咲かせた。


 そうして2人がカウンターに向かおうとした時、ふと周囲の人々が自分達に注目しているのが見て取れた。

「おや、君も随分と人気者じゃないか。嫉妬してしまいそうだ」

「視線を集めているのは君だろ? マリー。どちらかといえば、どうして僕のような男が君の隣にいるのかと反感を買っているように見えるね」

「まったく、謙遜なのか卑屈なのか。私が君の傍にいたいと願ったのだから、そう自虐的にならなくても自信を持てば良い。それに、私としては大多数の視線を浴びるというのは悪い気分ではない。多くの人が私と並んで歩く君の姿を見る。或いは君と並んで歩く私の姿を見る。それは言わば、私と君の仲が対外的にも私達が想っていることと同じような考えを抱かせるきっかけのようなものだ。誰の目から見たって幸せそうな男女の仲、だとね」


 彼女らしいものの言い回しである。

 それに今夜は随分と饒舌なようだ。いつもであればここまで踏み込んだことを自ら言ったりはしない。

 フロリアンは意外性を感じつつも、しかしこの2週間の間で彼女についての文字通り“全て”を知ったことで、実のところそれは意外ではないのかもしれないとも考えた。

 彼女は先に言った。


〈多くの人が私の立場を知らず、また私も自身の立場を気にすることなく好きに場を楽しむことが出来そうだ〉


 偽りなどない本心だろう。

 歓迎すべきことの一方で、ひとつ気になるのは彼女がこれまでどのような気持ちで自らの心を押し殺したまま自分と接してきたのだろうかという点である。

 仮に自分が彼女の立場であったなら、耐えられただろうか。


 いいや、今は考えるのを止そう。せっかくの楽しいひと時だ。

 明日になればノアの箱舟計画の為に全員が共和国を目指し出航し、そして明後日の刻限間近に至れば過去最大規模の海上決戦の火蓋が切って落とされる。

 誰が生き残り、誰が死ぬのかすら分からない。今、この場で笑い合い会話をしている人々の中で、誰が敵に討たれ冷たい海に引き込まれて還らぬ人になるかもわからない。

 のんびりとした至福のひと時など、もしかしたらこれが“最期”になるかもしれないのだから。


 フロリアンは言う。

「マリー、ひとつ訂正させてくれ。幸せ“そう”ではなく“幸せそのものだ”」

 そう言うとマリアはきょとんとした顔をした後、ふっと噴き出しながら声を出して笑った。

「違いない」

 ひとしきり笑った後、マリアは人目を憚ることなくフロリアンの腕に自らの腕を回し組み、いつもにも増して体を寄せ肩をくっつける。

 上目遣いで顔を覗き込んでくる彼女の視線にフロリアンは穏やかな笑みを返した。

 そうして2人は珍しい料理が待つカウンターへと歩みを進めていったのである。



 多くの人々の視線を浴びつつ、2人寄り添いながら歩いて行った先、世界各国から取り寄せられた食材で仕上げられた最高級の軽食が並ぶカウンターに辿り着くとマリアが言った。

「さて、先に私が見た料理はどこだったか。これほどの数があると簡単に見失ってしまうね」

「その中にこれはというものが光って見えるものさ。僕はマリーと一緒のものを頂くとしよう」

「せっかくだ、じっくり見て回るとしよう。幸いにもこの夜は長い」

「あぁ、始まったばかりだ」

 フロリアンはマリアの愛らしい表情を見て笑いかける。っと、その時視界の奥によく見知った人々の姿が見えた。

 視線を向けて軽く手を振ると、マリアも後ろを振り返る。

「彼らも随分と楽しそうだね」

 マリアは視線を逸らし、フロリアンへ向き直って言った。

 フロリアンの視線の先にいたのはジョシュアと玲那斗、ラーニーとウィリアムの4人である。彼らも夕食を楽しむために中央カウンターへ足を運んだらしい。

「隊長と中尉は少しぎこちない気もするけど」

「おぉ。上官に対して随分と余裕の発言じゃないか?」

「君が隣にいる今の僕に怖いものなんて無いよ。隊長と中尉の向こう側にイベリスとアヤメちゃんの姿もあるけど、一緒にいるのはシャーロットさんかな?」

「おや、私と2人きりだというのに他の女の話かい? しかも3人も」

 怖いものはすぐ傍にあった。

 彼女の言葉にフロリアンは固まるが、反応を見たマリアは笑いながら言う。

「冗談だよ。イベリスも今の時代に気の合う友人を見つけられたようで何よりだ。そして、シャーロット・セルフェイス。会合の時から思っていたけれど、実に聡明な女性だね。

 彼女がイベリスとアイリスの傍にいるなら、彼女達を口説こうなどという考えを持つ輩も寄り付かない。差し詰め、気を利かせたラーニーがピックアップアーティスト対策に送り込んだ刺客といったところだろう。これで玲那斗も気苦労がひとつ減るというわけだ。

 そういえば彼女、アイリスと話がしてみたいと言っていたかな」

「シャーロットさんと話したのかい?」

「ほんの少しだけだよ。世間話程度の、軽い会話をね?」

 怪しげな笑みを湛え、にやりとしたマリアの表情からして、本当の意味で軽い会話だったのかどうかは定かではない。ただいずれにせよ、どうやら知らない間に2人の間に交流があったことは確からしい。

 マリアは言う。

「世間話というより、2週間前のことについて直接礼を伝えたくてね。サンダルフォンが共和国の領海を無事に脱することが出来たのは彼らセルフェイス財団の助力によるところが大きい。

 機構と財団。実に良い関係性を築けているようで好ましく思う。縁というのは不思議なものだ。苦難の中で結ばれた縁というものは、思いもよらぬところでその意義を発揮したりする」

 マリアは目の前に盛大に並びたてられた数々の料理を目で吟味しながら言う。

「領海での結末について、君の目にはずっと視えていたんだろう? しかし、セルフェイス財団か。僕はイングランドで起きた彼らの事件に直接関わっていないから報告で見た限りでしか知らないけど、あちらも随分と大変だったみたいだ」

「あぁ、報告なら私のところにも来た。君達機構が財団に対する声明を発表する前に、どのように対処するべきかの顔色伺いも兼ねた報告がね」

「尋ねていいかは分からないけど、何て答えたんだい?」

「Have it your way.(好きにしたらいい)」

 フロリアンは苦笑して頷いた。実に彼女らしい返事の仕方だ。

 そうこうしている内にマリアは視線をある1点に留めて言った。

「っと、今日この瞬間にあまりこういう話ばかりもよくない。それにようやく目当ての品が見つかったよ。とても珍しい料理。日本の寿司のようであってそうではなく、実のところ何なのか良く分からない」

 マリアの指差す方向には、確かに珍妙と言うべき品が陳列されている。

 日本の巻き寿司……にとても近い何か。あまり言葉で言い表せるものではない。

 立食パーティー向けに1口サイズに丸められたそれは非常に食べやすそうではあるが、“中に何が入っているのか分からない”ところが不安な点だ。

「日本ではあれを“おにぎり”というのかもしれないが、私の知る限りではそれとも違う。純粋な日本の料理を知っている玲那斗が見たら怪訝な顔をするだろうね」

 マリアがしみじみ言うが、ふとフロリアンは思い立って言った。

「僕と2人きりでいる時に、他の男の話かい?」

 すると、マリアが少し驚いたような顔をしてくるりと振り返る。フロリアンはさっきのお返しだと言わんばかりの得意げな表情を彼女へと向けた。

 彼女の目を見つめながら言う。

「マリー、もっと2人の時間を楽しみたい。料理をとったら“ここを抜け出そう”」

 強気に出過ぎてしまっただろうか。ほんの少し、不安になったが彼女の表情から杞憂であることをすぐに感じ取ることが出来た。

 一瞬、マリアの目が輝いたような気がしたのだ。表情もこの日一番の柔らかさである。まるで“その言葉を待っていた”とでも言うかのように。

 マリアは僅かに俯いた後に顔を上げ、思い切り耳元に顔を近付けて囁くように言う。


「今夜は君の好きにしたら良い」


 先程の会話で彼女から発せられた同じような言葉とはまるでニュアンスの違うものであった。

 この世界でたった1人だけ。自分にだけ聞こえるように囁かれた甘い声色。

 地位も立場も全て忘れて、彼女は今ただ一人の女性としてここにいる。

 じっとこちらを見つめてくるマリアの赤い瞳には確かに自分の姿が映り捉えられている。

 これほど嬉しいことなど他にはない。


 フロリアンは彼女の囁きに微笑みで返事を返す。

 この先に言葉など必要無いだろう。


“夜は始まったばかり”だ。

 


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