*4-2-3*

 月明かりなどほとんどない夜闇。

 海から吹き抜ける風を遮るものはなく、四方から乱れて吹く風の声は叫びのようであり、耳障りであると感じられるほどの勢いだ。

 階下から照らされる光によって、ぼんやりと照らされる多目的中央ホールの屋上。偉大なる四大天使たちを模した彫像が四方を囲む神秘的な空間。そこには今、天使達とは異なる4つの影がある。

 本来、開放厳禁とされるホール屋上には当然のことながら“彼女達”以外の姿はない。

 荘厳かつ絢爛な装飾の施された豪華なパーティー会場とは正反対の静けさが満ちるこの場所にあるのは、賑やかな空間ではどうにも行き場を見出せない者達の群れであった。


 真っ黒なロングドレスに顔全体を覆うベール付きの大きなキャペリンハット。いつもと同じく、まるで魔女を思わせる風貌の長身の女性の姿が光の揺らめきに合わせて淡く照らされた。

 彼女の隣にはエメラルドグリーンのドレスに身を包む、ジェイドグリーンの瞳とプラチナゴールドの髪色が美しい少女の姿が見える。

 さらにすぐ傍には真っ黒な修道服に身を包む、ローズゴールドの髪色をした赤紫色の瞳を持つ少女が1人。

 そして最後に。それは真に人というには及ばず、ただひたすらに黒い影の塊のようでもあり、よく目を凝らしてみれば“首のない女性の姿を模した何か”であることが何とか見て取れるような者の姿あった。


 首の無い女性を象った影は、不気味なほどに低い声で言った。

【愉快、愉快、愉快に過ぎるぞ。人間とはかくも愚かで、神の不遜さは相も変わらず。長くこの世を眺めてきたが、これほどまでに“滑稽”だと思ったのは初めてのことだ。そこな娘よ、貴様はどう思う? ミュンスターで話した娘よ、この浅ましい世界の在り方に何を思う?】

 天を遮り、まるで空間そのものを震わせるかの如く地の底から響く声。声の拡散に合わせ、目に見えない重圧が周囲一帯を瞬時に覆い尽くす。

 修道服に身を包み、激しく吹き付ける海風に髪をなびかせるアシスタシアは声の主に向かって言った。

「なぜ私に問うのです。その質問に対する答えに、貴方の求める享楽の類など存在し得ないと判断いたしますが」

 彼女は感情を込めている様子もなく、問われた質問に無機質に過ぎるほど淡々と答えた。

【なぜ問うかだと? 我の問いに意味を見出そうと言うか。貴様もつくづく不遜な輩であるな。しかし、その傲慢さは良い。良いぞ、赦す】

 顔の無い影は体をゆらゆらと蠢かせ、ケタケタと肩を震わせて嗤う風を装いながら言う。

「黒妖精バーゲスト。貴方こそ、今の世界の成り行きに何を思うのでしょうか。戦いしか知らぬ、争うことでしか歴史を紡ぐことの出来ない人の行いというものを見て、貴方は今何を考えているのです?」

 神に仕える妖精獣。アザミを主とする黒き悪意の妖精は名を呼ばれた途端、蠢かせていた影をぴたりと静止させたかと思うと、徐々に影の大きさを肥大化させながら言う。

【何を思うことも無い。先に言った言葉に変わりない。ただただ滑稽である。突き詰めてな? 人間風情の行いに対して思うことなぞあるものか。あってなるものか】

 影の肥大に合わせて声の重圧も増していく。もし仮に、この場に純粋な“人間”がいたのなら、目に見えぬ重圧によってまともな精神状態を保つことなど出来なかっただろう。

 影はやがて巨大な猛獣――犬の姿である――を象ったかと思えば、今度は熊のような形となって低く轟く唸り声を上げた。

「そうですか。では貴方の主人に問いましょう。アザミ様、貴女様は此度の戦について如何様な考えをお持ちなのでしょうか。常にクリスティー局長の傍らに控え、自らの感情と意見を露わにしない貴女の本心というものが少しばかり気になりました」

 話を振られたアザミは首を傾げながら答える。

「さて、わたくしの本心を問うのであれば貴女の主人である御方に尋ねれば済む話かと。彼女であれば答えを見抜くことも叶うと存じますが?」

「ただの人が相手であれば、です。貴女のような、数万年を生きる神の心に宿る記憶を読み明かすなど、詰まるところは人の身で在り続けるあの方には叶わぬ話にございます。それに、もし叶う話であったのなら、ロザリア様は既に見抜いた上で何らかの話を私に伝えて来るでしょうから」

「その信頼、良い主従です。自らの仕えるべき相手の実情をよく捉えている。その関係性に敬意を表してひとつお答えします。此度の大戦に関して、わたくしに思うことなどありはしません。バーゲストと似て、私も元は人間に神と謳われ崇められた者のなれの果て。人の身勝手な思想の影響によって悪魔へと身を堕としたわたくしにとって、もはや人の行いの如何について感じることなど皆無であると」

「その身と意志はただ局長の…… いえ、マリア様の思想に殉じ、争いの後に訪れる大いなる理想の結実にのみ向けられると?」

「えぇ。マリーが望むという理由以上のことで、人間達に加勢をする意志など元より持ち合わせいません。それが唯一にして最大の答えでありましょう。わたくしやバーゲスト、そして今やアヤメとアイリス、加えて貴女がミュンスターで出会ったアネモネア3姉妹に至るまで、同様の意志にのみ基づいて行動をしている。言い換えれば、この1点においてのみ、アンジェリカに付き従うテミスと呼ばれる彼らと志の在り方は似たようなものであるということになります」

「ただひたすらに、愛すべき主君の為に」

「左様でございますれば」


 2人の話を聞いていた黒き妖精が放つ、低く唸るような嗤いが暗闇にこだまする。巨大な熊のような姿を模したバーゲストはアザミの傍らに控え、赤く光る眼でアシスタシアをじっと見据えた。

 すると、ここまでただ話を傍聴していただけの少女が口を開いて言った。

「ロザリアの為、マリアの為、そして敵対する彼らテミスと共和国はアンジェリカの為に。皆がそれぞれの想いを持ってぶつかり合う戦争。世界で暮らす多くの人々の望む望まぬに限らず引き起こされた争い。

 皆が想うことも違えば求める結末も異なる。そんな中で最期の結末として何がもたらされるのか。私はそのことにだけ興味がある」

「随分とイベリス様に感化されていらっしゃるようで。人間の持つ可能性の果てを信じると、確か彼女はそのような思想をお持ちでしたね?」

 アザミはベール越しの視線を少女へ向けて言う。話を耳にしていたバーゲストが傍らから口を挟む。

【あぁ、知っている。知っているぞ。貴様、確かアルビジアといったな? その実態無き魂の形、亡国の忘れ形見の1人であろう。話はマリアから聞かされている。あの子の話に聞く限り、元より悪い印象など持ち合わせてはいなかったが、さて。実際にこの目にして、言葉を耳にすれば何とも愉快な娘よな。

 他人にまるで興味がなく、この世界の構造そのものにも興味もなく、ただ“そこにある自然だけ”を愛した者がなぜ? なぜ存在するかどうかも分からぬ未来の可能性などという不確定で曖昧なものに興味を抱いたのか】

「自分でも分からない。遠い昔、私は貴方の言う通りに全てに対する感情が希薄な女だった。自分のことですらどうでも良くて、公国の第二王妃などという役割に収めさせられることになったときだってそれは変わらなかったわ。

 イベリスとレナトの邪魔をしたくはなかったし、本来であれば役回りというものに関わりを持つことも避けたかったのだけれど、運命というものはそれを許さなかった。

 その不思議な運命というものが、千年を越えた今になって何かしらの影響を私自身に与えようとしている。その程度のことではないかと思う」

【口数の少ない女だと聞いていたが、興味のあることに対しては饒舌に語るか】

「興味? いいえ、厳密に言えばそれもきっと間違いよ。私はただ試したいと考えているだけかもしれない。公国の未来を背負うはずであった王妃の描く理想というものが、真に人々を幸福へと導くことの出来るものであったのか。

 仮にそうであったのなら、きっとこの大戦の先にある未来は彼女の言う“可能性”によって開かれたものとなるでしょう」

「仮に、そうならなかったなら?」アザミが割って入る。

 アシスタシアも視線をアルビジアへ向け、彼女がどういった答えを発するのか興味を持ったという風に耳を澄ませていた。

 毒々しい影を揺らめかせ、バーゲストは首をもたげるように前のめりになってアルビジアへと身を寄せて耳を傾ける。

 つまらない答えを言えば、その身を食いちぎるとでも言わんばかりの重圧を放ちながら。

 だが、アルビジアは恐れを抱く様子など微塵も見せずに言う。

「いいえ、なるでしょう。私にマリアのような未来視の力は無いけれど、彼女が…… イベリスが“そうなる”と言えばそのようになるのではないかと―― そう感じられるの。

 不思議でしょう? そこには理屈も理由もない。明確な根拠も無く、むしろ目の前にあるのは可能性を否定する状況証拠ばかり。であるにも関わらず、あの子の言う言葉にはなぜか“真実味がある”。

 既に、絶対に叶うことはないと断じられるはずだった理想を叶えているからかしらね?

 千年前に別れてしまった最愛の彼に、長い時を越えて巡り会うなどという奇跡を演じてみせた彼女の言うことだから。

 ここに辿り着くまでの経緯に、マリアの理想実現の為の目論見があったとしても、たとえイベリスの想いのみに基づく結末ではなかったとしても、それでもあの子の望んだ結末は叶えられた。

 であれば、この先に起きる出来事も、この先に結実する未来の在り方もきっとあの子の考えた通りになるのだろうという不思議な感覚が湧いてくる。

 この一点に置いて“叶わないとは言い切れない”と私は思う。それが真実になるかどうか、見定めてみたいとも考える。

 そうでしょう? いつの時代であっても、信じるか信じないかを決めることだけは人の自由なのだから」

 マリアの理想。その言葉に反応を示したのはアザミであった。

「そうですか。貴女様の言う通り、思いを抱くことは自由です。信じる心は自由です。ただし、そうしたものは得てして最後の一歩が届かぬものであることも、歴史という積み重ねが証明してきたもののはず」

 その言葉に対し、アシスタシアが訝しむように言う。

「随分と、強く否定されるのですね。アザミ様。先にバーゲストがアルビジア様を寡黙な方だと口にした時、私はむしろアザミ様の方がそうではないかと考えていました。

 しかし、ことマリア様のお話が関わるとなると貴女様も目に見えて感情というものを露わになさる。

 これもまた不思議なことです。貴女は真に神なるものの一柱として現世へ身を顕しているお方。その貴女が1人の少女にそこまで肩入れする理由とは何なのでしょう」

【貴様らには関係のない話であろう? 小娘ども、余計な詮索はよせ。マリアの思想は我やこの神に連なる輩を満足させるに足り得る“理想”そのものである。貴様ら如きがいくら諫言の類を遠回しに並べ立てたところで事実は覆るものでもない】

 アザミの代わりに口を開いたのはバーゲストであった。ミュンスターで語らった時と同じく、アシスタシアの言葉に強い敵意を向けて言い放つ。

 自分から目を離したバーゲストに向けてアルビジアは言う。

「それは残念ね。私はぜひ貴方達にマリアが描く理想とやらのことを尋ねてみたかった。今日の午前の会合で、イベリスが強い牽制の言葉をマリアに投げかけたのを聞いた時、私は彼女の中にある種の怒りのようなものを見て取った。

 イベリスがそこまでの言葉を言うということは、おそらくはマリアの理想というものは彼女が抱くものとは真逆の思想。人が持ち得る可能性の全てを閉ざし、ただ“何かに生かされているだけの存在”としてしまうような世界の創造。

 2週間前に、アンジェリカはそれを指して〈人間では無い者による世界統治〉という言葉を言った。

 私もイベリスやアンジェリカと同じような類の危機感を貴方達に抱いている。だからこそ、この場で真意を問うてみたかったのだけれど」

【言葉に変わりなどない。曝け出すものなど何ひとつとしてない】

「そう。では貴女はどうなの? アシスタシア。貴女はマリアの目論む理想の世界というものをロザリアから何かしら聞かされているのでしょう?」

 アルビジアは鋭い眼光をアシスタシアへ向けて問うた。アルビジアの周囲には明らかに海から吹き込む自然の風とは別の風が渦巻き始めている。

「私はあくまでロザリア様のご意向に従って事を為すのみ。自由意志を与えられた身であり、ロザリア様は私が自身の意思によって行動することをどこかで望んでいらっしゃる節があることは承知しておりますが、それはそれ、これはこれ。

 主君であるあの方が何も語らぬというのであれば、私も黙して語らずという体裁を破ることはできません。

 何より、今はアンジェリカの企てを阻止することが何よりも重要でありましょう」

 アシスタシアが答えた後、アルビジアの周辺で渦巻いていた風は散った。

 もはや誰に視線を向けることも無く、ただ淡々とアルビジアは言う。

「それはそれ、これはこれ…… と言いたいところだけれど、止めておくわ。誰も彼もが秘密主義というわけね。では“私達”も同じようにさせてもらう。

 私はイベリスを信じ、彼女が信じた機構という組織を信じ、自らの出来ることを出来る限りで行う。仮に、今この場で手を結んでいるはずの誰かが近い未来に討つべき対象となっても、私は躊躇しない」

【いくら人の持つ可能性を信じるといったところで、その一点においてのみ、貴様はあの光の妃と呼ばれる小娘とは明確に違う。どこまで行っても奴とは交わることのない、強い意志。寡黙さに似合わぬ激情を秘めているとみた。良い、志は豊かにもつべきだ。だが、目の前に立つ者の力の見極めは慎重にすべきであると忠告しておこう】

 轟くような唸りを交えた低い声でバーゲストは言うが、しかし会話を初めて以後においては最も慈悲に満ちた“優しい忠告”でもあった。


 黒妖精の言葉を以て全員が口を閉ざした。

 4人の立つ屋上に届く淡い光はいよいよもってその勢力を弱め、僅かに開かれていた視界も今や閉ざされようとしている。


 世界特殊事象研究機構、国際連盟、ヴァチカン教皇庁。

 手を組む者同士の間にある思惑とすれ違い。

 決して相容れることの無い信念の在り方。

 直接、語らい真意を図る時間は去った。


 淡い光が終息し、四大天使が漆黒の闇に包まれるのとほぼ同時に、バーゲストとアザミは音もなくその場から一瞬で姿を消し去った。

 館内へ至る通用口の扉に向かい、ゆっくりと歩を進めるアルビジアは何を言うでもなく屋上を後にする。美しく長い髪は海風に吹かれて揺れなびくが、彼女の背中には揺れ動くことのない信念が固められているように見えた。


 ただ1人、最後まで屋上に残ったアシスタシアはおもむろに空を見上げ、暗い闇夜に思いを馳せる。

 誰も彼もが届かぬ夢を見て理想を語る。まるで届かぬ星を見て手を伸ばすかのように。


 アンジェリカの描く、世界の破滅と破壊による仕組みの再構築。

 イベリスの抱く、人の持つ可能性を信じることで紡がれる未来に対する希望。

 マリアが導こうとする、人の意思と力を排した理想世界の実現。


 届かぬからこそ美しいのか。掴みたいと願うからこそ美しく感じられるのか。

 それぞれが抱く想いの何が正しいのかなど、人の世に生まれて数年の身である自分には分からない。

 そのいずれが〈善〉であり〈悪〉であるのかも実のところ判別などつかない。


 けれど1つだけ。

 自分にはわかっていることがある。

 理想とは、届かぬものであるからこそ理想であり、人の手に掴めぬものであるからこそ美しいままの姿を保つものであるということを。

 そして、そのことはきっと真に世界が求めた、正しい答えを導く最期のひとかけらになるであろうことも。



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