*4-1-4*

 妾の子。

 その言葉は私にとっての“呪い”である。

 かつて幾度となく繰り返し、繰り返して陰口を叩かれ続けた私はマックバロンの家での居場所を完全に失っていた。

 いや、そもそも最初から居場所などなかったのだろう。

 建国以来、この国を支えてきた御三家の栄誉ある名を持ちながら、私が生きてきた人生というのはとてもその名に相応しいものであるとは言えなかった。



 アンヘリック・イーリオン内部に構えられた豪華な自室。

 今ではこの部屋だけでなく、アンヘリック・イーリオンという場所そのものが自らの居場所であると自信を持って語ることができる。

 それでも、時折あの頃のことが頭の中に蘇ってきては心の内を苛むのだ。

 誰もいない暗い部屋の中で1人腰掛けに腰を下ろし、窓の外に広がる明るい景色を見やりながら遠い昔のことを思い出す。


 なぜ、自分はこの世に生まれてきたのか。

 どれほど歳を重ねても変わらない。

 幼い頃から、そのようなことを自問自答する日々の繰り返しであった。


 妾の子。

 その言葉が自分の人生の全てである。生まれた瞬間から疎まれるという、生まれてくることを望まれなかった子供の気持ちが分かる者がいるだろうか。

 物心ついた頃からずっと、周囲の人間たちから浴びせられる、ただならぬ刺すような視線の痛みを味わい続けた者はいるだろうか。

 貴族の家に生まれたからと言って、誰も彼もが幸福に生きることができるわけではない。

 私はそのことを身を持って知っている。


 生活する中での表面上は良い。父の使用人たちはよく尽くしてくれたと思う。

 本当に必要最低限の身の回りの世話はしてくれたし、必要な教育も施してくれた。

 しかし、しかしだ。


 私の目の届かない場所、耳のない場所、そういったところで彼ら彼女らが連日繰り返し私を罵っていたことを“私は知っている”。



 妾の子。不貞の子。

 どうして生まれてきたんだ。存在しなければ良かったのに。

 あのような者と姉妹と言われ、アンディーン様が可哀そうだ。

 当主様の気の迷いだ。例の女にたぶらかされたに違いない。

 あの子さえいなければ、全てがアンディーン様のものになっていたのに。

 あの子さえいなければ、私達がこのような仕事を押し付けられることも無かったのに。



 あの子さえいなければ。



 彼らの言葉を私は全て聞いていた。

 そのように至ったきっかけ、つまり私が生まれたきっかけは当然のことながら憎き私の父の所業によるもので間違いない。

 偉大なる父。マックバロン家の当主であり、共和国総統の忠臣テミスの一員であった彼は自身の屋敷で働かせていた使用人との間に肉体関係を持った。

 妻であった女を裏切り、自分の意に忠実に従い尽くす、外見も麗しい女と関係を持ったのだ。

 私からすれば父とも呼びたくない男。彼は自らの意思で使用人を誰もいない部屋に呼び付け、権力を笠に着て関係を強要し蛮行に至った。


 その果てに生まれ落ちたのが私という存在だ。

 実に疎ましいことである。


 私は母親の顔を知らない、姿を知らない。私が物心つく頃には彼女は姿を消していた。

 生まれて間もなく、その時既にこの世に存在していたのかどうかすら怪しい。

 だから彼女の外見が麗しかったという知識も、他者の口から語られた情報で知ったことでしかない。

 母の顔を知らない私だが、周囲の人間の陰口で幾度も言われたことはこうだ。


『あの子は母親である“あいつ”にそっくりだ。当主様をたぶらかした不貞の輩、共和国の恥さらしめ。見た目の良さを利用して当主様に取り入った悪魔のような女だ』


 違う。

 私を生んだ母があの男をたぶらかしたのではない。あの男の意思によるものだ。しかし、そのような話を誰にしても仕方がない。何が変わるわけでもなく、むしろ私という存在がさらに疎まれる結果を招くだけだろう。


 このような出自の話がいつも私を苦しめた。

 私に対し、ある者は憐みの視線を送り、ある者は関りを持つことを恐れ無視を決め込み、ある者は意味もなく厳しく接してきた。


 対して、父の正妻との間に生まれた子、アンディーンは私とは違う。あの子は父と母から多大な愛を与えられ、また贈られて育てられた。

 望まれ、祝福されて生まれ、尊敬を以て育てられ、将来を嘱望された。

 次期マックバロン家の正統なる後継者、跡継ぎ。当主であると認められた彼女は皆から愛されながら人生を歩んできたのである。


 生まれた瞬間から境遇の何もかもが対照的であった姉妹。それが私達の真実だ。


 憎い。ただひたすらに憎い。

 この身体に、奴と同じ血が半分流れているかと思うとそれだけで周囲のもの全てを破壊したくなる衝動に駆られる。

 私が、私自身を殺してしまいそうになるほどに。


 姉であるアンディーンには全てにおいて選択の自由があった。日陰で生きることを強いられ、何もかも与えらなかった私には何もかもを選ぶ自由など無かった。

 それでいて、私の姿を見れば笑いかけてくるあの子という存在が私は嫌いだった。大嫌いだった。


 お前に私の何が分かる。

 お前に私の気持ちが分かるものか。

 生まれた時から、最初から全てを与えられ、全てを手にしていたものに私の何がわかるというのだろう。

 その笑みをこちらに向けるな。その声で私を呼ぶな!


 疎ましい、疎ましい、うとましい!



 シルフィー。それが私に与えられた名であった。

 風を司る精霊、シルフを女性系で言い表す名をシルフィードというらしいが、私の名はそれを文字って名付けられたらしい。

 自由を愛する風の子という意味が込められているという。定かではないが、私が顔を知らない母が名付けた名だと聞いたことがある。

 彼女が唯一にして、最初にして最後に私に与えた贈り物。それがシルフィーという名前であった。


 彼女は私の辿る人生の先を視通していたに違いない。

 だから“自由”という意味を持つ名をせめてもの慰みとして名前に込めたのだろう。

 だが――


 しかして自由? この私が? 正気だろうか。

 この私のどこに自由などというものがある?

 そんなものは無い。生まれた瞬間から今に至るまでずっと。


 何も無い、何も無かった。

 与えられたのは屈辱と、無力さと、絶望と、そして……

 生に意味など無い。生きることに意味や目的があるなら教えて欲しい。

 私が生まれてきたことに何の意味があったというのだ。

 そもそも、母は“どうして私を生んだ”のか。


 無意味で、不自由で、何も与えられなかった人生。

 そうなることが分かり切っていたはずであるのに。なぜ?


 だが、違う。これは違う。断じて違う。

 無意味で、不自由で、何も与えられないのであれば掴むべきだ。

 これは私の在り方ではない。こんなものが私の在り方で良いはずがない。

 私は自由の風『シルフィー』だ。目に見えぬ妖精シルフの名を与えられた人間だ。

 見知らぬ母が与えた名前の通り、足掻いて生きてみせるくらいのことはしたところで許されるだろう。

 そうしなければならないという感覚があった。不思議なものだ。

 或いは、この衝動こそが姿を消した母の遺した意志、怨念であったのだろうか。


 行き場のない風は壁に当てられて消え去る定め。それを覆すには“壁を壊す”しかない。

 だったらどうすればいい? 何をすればいい?

 自由な姉と不自由な妹。私が自由の風となる為には何をすればいい?

 私は探した。誰にも縛られぬ自由を得るために、私が為すべきことは何であるのかを求めた。


 導かれた結論はこうだ。

 他者とは違う何者かになる為には、他者を超える力が必要である。

 知識でも腕力でも権力でもなんでもいい。とにかく力が必要だ。

 女性の身で腕力を極めるのは厳しいものがあるだろう。かといって、この境遇から権力を求めるなど道化の所業だ。残された道はひとつしかない。

 だから私は知恵を求めた。知識を集め、学問を修め、芸術を修め、ありとあらゆるものを自らに取り込んだ。

 自由とは“選び取ること”だ。選ぶ為には選択肢をたくさん持たなければならない。

 故に私は智慧を求めてそれを取り込んだ。

 だが、足りなかった。何が足りない? いや、足りないのではなく壁が越えられないのである。

 それはどういった壁だろうか?


 答えは簡単だ。

 いつだって目の前にある。目の前にあった。

 私を生み出した権威の象徴。私に呪いをかけた張本人。

 彼という壁を“壊さぬ限り”道はない。


 そうして私は真なる自由を得るために、マックバロンの当主であり、自身の親である父を自らの手で――


 父に話がしたいと持ち掛け、2人きりの状況を作り出し、それまでに得た知識の中から選りすぐりの知恵を集めて彼を殺した。

 飲み物に仕込んだ薬品で身体が麻痺し、動けなくなった彼をじっくり、じっくりと。時間をかけてゆっくり。

 私を虐げていた壁が徐々に崩壊していく様を、舌の上で味わうかのようにじっくりと。

 それは実に甘美な味わいであった。人の死が、このような恍惚と快楽をもたらしてくれようとは。


 私が嫌いだった男はいつの間にか息をしなくなっていた。

 体は冷たくなっていき、体は死後硬直を始めた。


 死んだ、死んだ、殺した? 殺した。

 そして壁は壊れた。あっけなく崩れ去った。

 無くなったものを振り返れば、実に他愛のないことである。

 

 あの時初めて、私は人生において自らの手で何かを為すことの楽しさを知ったと思う。

 考えた上で何事かを達成するとは、なんと楽しいことか。

 なんという甘美さ。なんという享楽。なんという快感。

 それに…… そうだ。この時初めて、自由を。私は自由を手に入れた!

 あの日、あの夜、言葉を失い呆然と倒れ尽くすしかなかった父を私はこの手で殺した。

 私に、過去自らが犯した女の幻影でも見たのだろうか。

 何かを訴えかけるような目で私を見つめる彼の瞳は吐き気を催すほどに鬱陶しかったが、その瞳から光が消えていく様を眺めるのは実に享楽であった。


 彼が心臓の鼓動を止め、呼吸を忘れ、この世界から魂を消し去ったその瞬間、私は自由を手に入れたのだ!



 私は笑った。嗤っていた。ざまぁみろ。報いというものである。

 私は自由の風だ。私に壊せぬものなど何もない。私が辿り着けぬ場所などどこにもない。


 酷い笑みを浮かべていたと思う。

 ケタケタとした、笑い声でもない奇声に近い笑い声をあげて私はたった一度きりの解放の瞬間を祝った。

 孤独の祝祭。1人きりの祝宴。

 これが、自由というものだと叫びたくなるほどに私は浮ついた気持ちで嗤い続けた。


 だが、そんなあの日の夜。

 何もかも満ち足りた私の前に“あの方”は突然に姿を顕しておっしゃったのだ。

 紫色の煙と共に唐突に姿を顕した麗しい少女。

 桃色髪を結った特徴的なツインテールと、美しいアスターヒューの瞳。

 お人形さんのように美しい透き通るような肌と、華奢な身体。

 一目見ただけで手を伸ばしたくなるような、惹き込まれそうなほど魅力的な容姿を持つ愛くるしい少女は私にこうおっしゃった。


『凄い凄い! きゃははははは★ 楽しい、楽しい! 貴女が殺ったのね? 貴女が成し遂げたのね? それは地獄に向かう片道切符の購入★ 買っちゃった買っちゃった! 実に素晴らしい! 何をするのか様子を見ていれば享楽! これは良きものを見た★』

 顔を返り血で濡らし、ケタケタと嗤い続ける私の目の前であの方は続けられた。

『でもでもー。貴女はー、今罪を背負った! 私も人のことは言えないけどさ? 実の父親殺しはー、めっ! なんだよ? どの口が言う! きゃははははは★

 そこに愛はあったか!? 否! それは私が与えるものであるが故に。つまり、その罪は自らの生命に同じ痛みを与えて償われるべき所業★ つ・ま・り。私は私の手で貴女を……』


 狂気に満ちた笑み。殺気に溢れた気配。でも…… なんて、なんて麗しいお方。

 私は目の前に突然に現れた1人の少女を目の当たりにしながらそのように考えていた。

 目の前に現れた“天使”。一目惚れした気分であった。

 自らの最期がこのような“終わり”であるのなら上出来である。

 遠くない未来。使用人たちに今夜の悪事が露見し、私はきっとこの国の法によって死刑に処されてしまうに違いない。殺した相手が相手なのだから仕方ない。

 マックバロンの当主。建国以来、エトルアリアスの国を支えてきた家系の主を殺めたのだから。そうだ、大罪だ。目の前の少女が言うことは正しく、まさに大罪である。

 罪には罰を。罰とは裁きを指す。裁きの先にある終着点は死である。

 知識を得る中で見つけた書、ローマ人への手紙にはこう書いてあった。


“罪による報酬は死である”


 だからこそ、あの方が残りの言葉を紡ごうとした時に、私は喜びに打ち震えながら言ったのだ。

『あぁ、お優しい方、とてもお優しい方。わたくしめの命を、わたくしめの罪を裁いてくださいませ?

 わたくしには何もありませぬ。わたくしには何も残されてはおりませぬ。この命、ここで果てるというのならそれが“私に残されたたったひとつの望み”。

 さぁ、早く、早く、貴女様の手でわたくしの惨めで矮小な命に終止符を、終わりをどうか…… 与えてくださいませ。慈悲を、どうか!』


 その時である。

 彼女の表情から笑みが消え去った。きょとんとした顔をしたまま私を見つめて黙したまま立ち尽くしているようだった。

 私はたまらず、膝を引きずりながらあの方に縋り、まくしたてるように懇願して言った。


『違うのですか? 違うのでしょうか。罪への対価は死であると学びました。わたくしが犯した大罪について、貴女様が報酬として死を与えてくださる。

 然り。それは何よりの褒賞となりましょう。罪による裁きという罰。神が定めた法により罪人に与えられる愛の形。

 妾の子、存在しなければ良い者としての生を歩んだわたくしの命。そんなもの、元より何の意味も価値も無かったのです。

 そのようなわたくしが、こうして諸悪の根源をこの手で断ち切った今、望むもの等“命の清算”以外にありませぬ。有り得ませぬ。

 どうか、どうかお慈悲を、名も知らぬ麗しきお方。どうか、お慈悲を与えてくださいませ』


 するとあの方は再び満面の笑みを咲かせて見せて言った。

『へぇ。貴女、面白いことを言うのね? マックバロンの娘、シルフィーと言ったかしら』

 つい先程までとは雰囲気も様子も何もかもがまるで違う。

 狂気の中にあったと言えど、天使のような笑みを咲かせて見せていた彼女は今、悪魔が他者の命を刈り取る時に見せるような悪辣な嘲笑を満面に浮かべてみせている。

 同じ狂気に憑りつかれ、たった今自身の親を殺したはずの私が身をすくめ、後ずさりして恐怖を抱くほどの嘲りを浮かべて見せているのだ。

 あの方は続けられた。

『怖がらなくても良いのよ? 元より話は聞いているわ。マックバロンの後を継ぐ者。それは1人でも良いかと思っていたのだけれど、気が変わったわ。

 私の答えはこうよ。“断る”。それ以外の答えはない。

 貴女が自ら死を望むのなら、それは私の与える愛とはなり得ない。今の貴女に罰を与えるのなら、生を全うしろと命じることの方がよほど罰となり得るでしょうから。

 その上で、その命を私の為に捧げなさい。残された人生、これからは“私が貴女の生きる意味”になりましょう。

 貴女をたった今から、侵されざる戒律の頂点〈不変なる掟 -テミス-〉の一員にしてあげる。

 目の前で無様に死に果てている男が持っていたものと同じ権威を与えてあげましょう。せいぜい生きなさい? 私の為に生きてみせなさいな。自由の風、シルフィー?』


 これが私とアンジェリカ様の出会いだ。

 麗しきお方。必要無いと言われた命に意味を見出し、価値を与えてくれた奇特なお方。

 あの方の中にある何がそうさせたのかは今でも分からない。けれど、分からないなりに察したことはある。


 あの方はきっと“私と同じ”なのだ。


 だからきっと。私にとって、真に人間であると言えるのはあの方のような者だけだ。

 愛を与えられないという痛みを知り、愛というものをあの方は知らない。

 私ですら知る言葉の概念を、あの方は知ることは出来ても理解が出来ない。


 そのことが愛おしい。狂おしいほどに愛おしい。


 愛などというものが無くても、意味のある生を謳歌できると教えてくださったのは、あぁアンジェリカ様。

 貴女様だけでありました。


 これは近くて遠い過去のつまらないお話。つまらないけれど素敵なお話。

 アンジェリカ様、アンジェリカ様。わたくしは貴女の為にこの命の全てを捧げます。

 例え、敵がこの世界の全てであったとしても。


 生まれてきた意味。

 この世に生を受けた意味。

 生きる目的。

 この世で成し遂げたいこと。


 どうでもよい。私はただ、貴女様の為に、貴女様の抱く理想を叶え、この眼で見届けることが出来ればそれで十分なのだから。



 なぜ、自分はこの世に生まれてきたのか。

 幼い頃から、繰り返してきた自問自答の答えをあの方だけが与えてくださった。

 私は、私は、私は……




 ぼんやりと遠くを見つめていたシルフィーは、そっと瞳を閉じて浅く息を吐く。

 つまらない回想。素敵な想い出。

 1人きりになると自らの人生を振り返る。行為自体に意味はない。

 むしろ“生”そのものだってそうだ。そこに何の意味を見出せなくても、何の目的が無くても、ただ自分が今の時代を生きている。


 偏に、愛する主君の為に。


 そのことを確認する為だけの大切な時間。

 忘れ難き、喜びの記憶。

 振り返る為だけに、空想の中で憎き男を何度も何度も殺した。

 何度殺し尽くしてもまだ足りない。

 しかし、足りないものは全てアンジェリカ様が埋めてくださるのだ。




 シルフィーが濁流渦巻く思考を鎮める為に物思いに耽り、暗闇の中で閉じた瞳を再び開いた時、ふいに部屋のドアをノックする音が響いた。

 ノックの主は返事を聞くことも無く勝手に扉を開くと中へ押し入ってきて言った。


「いたいた。ここにしかいないと思ったんだ。困るんだよ、シルフィー。ボクの依頼を忘れてはいないだろうね?」

 シルフィーは振り向くこと無く返事をする。

「あら、貴女がこの部屋を訪ねて来るだなんて。どのような風の吹き回しでしょう」

「吹き回しも何も無い。ボクはお腹が空いたんだ。空き過ぎて研究に集中できない。一大事だ。すぐにご飯を用意してくれないか」

 なんと身勝手な。他人の大切な憩いのひと時を邪魔した上に、すぐに食事を用意しろなどと。だが、その傲慢さがとても良い。

 彼女に強請られたことで、ようやくシルフィーは扉の方へ顔を向け、たった今部屋に無断入室してきた背丈の低い赤髪の少女を見やって言う。

「はいはい、承知いたしました。手軽なものでよければすぐにでも」

「シチューだ」

「はい?」

「ホワイトシチューを所望している」

「手軽なものと言ったはずなのだけれど。聞いているのかしら、アビー?」

「パンも宜しく頼む。君の焼くパンは、その何だ。とても興味深い味わいでね」

「素直に美味しいと言いなさいな」

 言葉に反し、シルフィーは穏やかな笑みを湛えて言った。

 頭を掻きながらわがままを言うアビガイルを見つめたまま立ち上がると、そのまま彼女の方へ向かって歩く。


「貴女の希望を叶える為には時間がかかるのだけれど、良いのね?」

「1時間でも2時間でも構わないさ。そんなもの、研究に没頭していればものの1、2分程度のことさ」

「まぁ、先ほどは部屋に入るなり“空腹で研究に集中できない”とおっしゃいましたのに?」

「揚げ足を取る代わりに、出汁を取るかじゃがいもでも切っておくれよ。ボクは本当にお腹が空いているんだ。このままでは干からびてしまう。食事をとらないと動けないという肉体の“不自由さに自由を与えられるのは君の特技”だろう?」

「……はいはい。分かりましたから、さぁ、さぁ。研究室へお戻りなさいませ? 作ったらすぐに持って行きますが故、楽しみに待つように」

「変な物言いをする。分かったから早くしてくれないか。ボクは君の作る料理でないとダメなんだ。頼んだよ」


 アビガイルはそう言い残すと足早に部屋から立ち去った。


 シルフィーは奔放な彼女の言い草に思わず笑みをこぼしつつも溜め息を吐いた。

 まったくもってわがままなことだ。人のことを何だと思っているのだろう。

 しかし、そうだ…… これもまた、悪くない。


 それにしても、だ。

 彼女は何を考えてこの場まで足を運んだのか。

 その答えもきっと決まっている。彼女には見えていたに違いない。

 暗い部屋の片隅で、自分が瞳から流していたもののことが。

 自分が1人きりで自室に籠る時、どんな心理状態になるのかなど長年の“観察”によって彼女はお見通しなのだろうから。



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