*2-6-4*

 午前4時過ぎ。


 水平線の彼方に光が一直線に満ち、東の彼方から太陽が顔を覗かせる。

 あれから1時間弱が経過していた。不気味な静けさの中、水平線の向こうからせり上がる光の筋。

 本来であれば希望を感じさせる朝というべきなのだろうが、現実は違う。


 グラン・エトルアリアス共和国の圧倒的な軍事力と、アンジェリカの圧倒的な力の前に無条件降伏するしかなかった機構の艦隊は今、失意の底に溺れている。

 合流するはずであった国際連盟の大艦隊はもはやこの世界に存在せず、代わりにサンダルフォンのブリッジから見えるのは威容を示し続けるネメシス・アドラスティアと護衛を務めるアンティゴネの姿であった。

 その周囲には、禍々しい悪魔の翼を広げたかのような戦闘機カローンが追随して飛行し、サンダルフォンとラファエル級フリゲートが妙な動きをしないかどうかを常に監視しているようである。

 砲門のひとつを僅かでも動かせば撃沈されるのではないか。いや、されてしまうに違いない。

 そのような緊張感が常に付きまとう。


 サンダルフォンを旗艦とする艦隊に乗船する隊員達の全員が眠れぬ夜を過ごした。

 アンジェリカは場にいる全ての隊員、及び関係者の身柄の安全は保障すると約束したが、彼女の口から発せられた言葉がどの程度まで真実であるのかなど誰にも分かり得ない。


 ある者は苦悩し、ある者は希望が潰えたと肩を落とす。

 またある者は光明があるはずだと信じ、ある者は可能性の道を探す。


 ただひとつ。今確かであると言えるのは、この後アンジェリカとの会合が終わるまでの数時間に渡る間だけは、世界にとっての平和が約束されたことであった。

 滝から流れ落ちる激流に身を委ねたかのように、全ての出来事が一瞬で移り変わっていく最中に訪れた束の間の平穏。

 恐怖で支配された中の偽りの安らぎであることに違いはないが、それでも無いよりはましだ。

 この束の間の和平がサンダルフォンに乗艦する国際連盟、ヴァチカン教皇庁、世界特殊事象研究機構に所属する全ての人々にとって貴重な休息の時間となっていた。


 そのような中、サンダルフォン内部に存在する小さなミーティングルームは暖色の柔らかな光によって照らされている。

 数人分の椅子と、数人が囲む程度の大きさの机しか用意されていない実に簡素な造りの部屋に1人の少女と、1人の女性の姿があった。

 先に示した他の誰とも違い、今の状況が“絶望”であると見なさない2人は、実に落ち着いた様子で静かに言葉を交わす。


 少女はグラスに注いだワインをくるくると揺らしながら見つめ、香りを楽しんだ後に柔らかな唇をグラスに当てて一口ほど喉に流し込む。

 本来、艦内への規定種以外のアルコールの持ち込みは出来ないはずだが、彼女達はセキュリティの目を盗んで1本だけお気に入りのワインを忍ばせてきたのだ。

 上質な味わいを楽しみながら少女は言う。


「うまく出来ていたと思うかい?」

「えぇ、それはもちろん。しかし宜しいのですか?結局、何から何までアンジェリカの指示に沿うように行動することになりますが」

「気に入らないが、構わないさ。この展開はそうだね……どのような形であれ当初の目論見通りに事は運び、私達にとっても願ったり叶ったりの状況が訪れたと言い換えることも出来るのだから」

「彼女は何を考えているのでしょうか。とても対話の為にわたくし達を自らの居城に引き入れようとしている風には見えませんが」

「同感だ。その手で直接私達を亡き者にしてしまいたいというのが本音だろうが、それなら昨晩の内に私達全員を船もろとも沈めることだって出来たはずだからね。何か別に目的があるか、どうしてもそうしなければならない都合があるのだろう」

「思うに、狙いはわたくし達でもヴァチカンでもなく、機構ですら無いのではないかと」

「それも同感だよ。玲那斗とイベリス。突き詰めるとこの2人に用があると見て間違いはなさそうだ。業腹ながら、彼女にとってはあの2人を除いた私達の存在なんて視界の遥か外にある異物程度のものだ。私だけは警戒されているようだが、所詮はその程度のこと。でも、だからこその“願ったり叶ったり”でもある」

 そう言って少女は視線を横に長し、美しい赤い瞳で光が差し込む小さな窓から外を覗いた。

「物事とは常に大局を見据えて運ぶものだ。自らの理想が確実に叶うと見て浮足立っている彼女には申し訳ないが、せいぜい利用させてもらえば良い。彼女達だけではない。国連もヴァチカンも。そして機構も。全てが全て、私達の望む未来の為に。今日という日に、大西洋で散った彼らの死を、私は決して無駄にはしない」

「然り」

「私達の理想が実現すれば、もう二度と……不幸な出来事など起きない世界が完成する。その為なら、私は……」


 彼女は言い終えるとグラスを机の上に置き、小さな溜め息をついて静かに目を閉じた。

 部屋の中に朝日が僅かに注がれる。木漏れ日のような淡い光に包まれた少女は、それまでの疲れを自ら癒すかのように微かな寝息を立てて眠りの世界へと堕ちていった。


 少女の目の前に座る女性は静かに立ち上がり、彼女を慈しむように優しく上着を掛けながら小声で囁く。

「貴女は正しい。やがて来たる日に、貴女に向けられる刃は全て折れ、貴女を責める言葉がどれほど並べ立てられようと、最後は貴女に正義があると認められる。これこそが主のしもべたる特権であり、“私から”の祝福なのです。千年に渡る末の……」



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