* 1-4-5 *
あれから数十分。
私はこの国の将来について熱弁を振るう男の話を聞き続けていた。いや聞かされ続けていた。
アンソン秘書官に連れられ、大統領執務室に案内されて立ち入った後からずっと。顔にこそ出さないが、私は悟りを開いたかの如く静かな心持ちのまま、話を右から左へと受け流し続けた。
笑顔は崩さず、気品を保ったまま、心は仏か主のように健やかに。
あぁ……それにしても暑い。外の暑さが室内にまで伝わって来たかのような暑苦しさだ。
綺麗に整えられた豊かなブライトシルバーの髪。
力強いマロンブラウンの瞳から放たれる眼差し。
初老を数えるくらいの年齢に見えるが、しっかりと伸ばされた背筋から実際の年齢よりはずっと若々しく見える。
身長は180センチメートルほどだろうか。
私の身長と比べれば言うまでもないが、見上げるほど高い。
でもきっとリカルドよりは低い。残念。
目の前にいる男の名はジョージ・キリオン。ミクロネシア連邦 第13代大統領に就任した直後から次々と斬新な政策を実行に移し、確実にミクロネシア連邦という国家を高度経済成長期へと導く活躍をしている初老の男性である。
それはともかく……繰り返しになるが、実に暑苦しい。上に退屈だ。
あまりにも実入りのない話が続くので、私の中でアンジェリカはぐっすりと眠ってしまっていた。
この手の場面では常に私が表に出てきて対応しているから、いつも通りと言えばいつも通りではあるのだが。
“いつも”にも増して退屈な為、そろそろ笑顔が引きつってくるのではないかと自分で危惧しているほどである。
受け流し続けた彼の言葉の内、頭に残ったものはただひとつ。
『私は夢の為なら命を賭しても構わない』という言葉だけであった。
どうだか。
彼の宣言を聞いた時、内心では呆れや嘲笑といった感情が湧き上がってきた。
軽々しく命などと言う人間が、いざ本当に命に関わる場面に遭遇した時に見せる無様さなど嫌というほど目撃してきたからだ。
権力者という立場に立つものなら尚のこと。舌による上辺の取り繕いこそ彼らの武器であるのだから。
夢、希望、未来……実に美しい言葉だが、美しいだけの抽象的な言葉でしかない。
まるで中身がない、そんな具体性の欠片もないものの為に、本気で“命”を賭ける人間などそうはいないだろう。
具体性のない夢など、絵に描いた理想にも劣るというものだ。
甚だ馬鹿馬鹿しい。
こういうのは、大体全ての人が実際に命と夢を天秤にかける段階になって自らの愚かしさに気付くというのがお約束だ。
特に政治家などというものは夢や理想を語りはするが、最後には自分の地位や権威を守る為に他の使えるもの全てを犠牲にしてでも立場を守ろうとする生き物である。
いくら実績があろうと、どうせ彼もそういう人間の内の1人に過ぎないのだろうと心底思う。
だがそこは目的を達する為だ。どれほど耐えがたき嗤いの対象となる話であっても、堪えて同調しておく必要がある。
我慢、我慢。目的を達する為に、最高の楽しみを享受する為に今は耐えなければ。
……しかしなぜだろうか。
青臭い暑苦しさと、簡単に“命”などという言葉を出して語る話に辟易とさせられたことも事実ではあったが、不思議と“彼と言う人間そのものを嫌いになることはなかった”。
そう、印象自体は悪くないのだ。とても、とても不思議な感覚である。
さておき、今日という日に南の島まで遠路はるばるやってきたことには目的がある。
大統領である彼に対して“とある申し出を承諾してもらう為”だ。
話をすっと呑んでもらう為、銀色のアタッシュケースの中には彼の語る暑苦しい夢と理想を叶える為に『彼が最も必要としているもの』をたくさん詰め込んできた。
端的に言おう。
要は〈金〉である。
重量10キロ。庶民が一生を懸けて手に入れるだけの金がここにはある。
彼の理想を叶えるには端金程度に過ぎないものだが、お土産としては十分な額だろう。
ただし、それを必要としているのは彼自身ではない。
彼の悲願である〈他国の経済援助に頼らない、国家の完全なる経済自立を叶える為〉に、どうしてもそれが必要なのだ。
どんな立場のどんな人間であっても、先立つものが無ければ口先以外に動かせるものなど何もない。
特に政治の世界はそうだ。各国の政治が世間を賑わす時というのは決まって〈金〉の絡む話が出てきた時であることからも明白だろう。
それより、私が今日という日に持参した〈彼にとって必要なもの〉が真なる意味でそうであると断言する理由はこうだ。
ミクロネシア連邦はかつて、スペイン、ドイツ、日本による植民地支配を受けた国であった。戦後に国際連盟の承認の元で行われたアメリカによる信託統治の時代を経て、西暦1979年5月10日に独立。主権を回復したという歴史を辿っている。
ただ、独立国家になったとはいえ、すぐに自立経済の確立にまで至ったわけではない。ごく最近まではアメリカ合衆国政府による多額の経済援助を受けて成り立つ国でもあったのだ。
重要な前提として、〈彼の語る夢と理想とはその部分に深く関わる〉。
キリオン大統領は現在の地位に就く以前より、大国からの経済援助を抜きにした完全なる経済自立と主権確立を悲願としていた。
自身が大統領に就任後、即座に取り掛かったことが経済対策であったことからも本気度の高さは伺える。
長い歴史の中で漁業と農業だけに頼りきりであったこの国の経済政策を、一転して観光政策へと転換させた理由もまさにそれだ。
ミクロネシア連邦という国家は複数の島から成る国で、内の一島であるポーンペイ州だけを見てもケプロイの滝、ナンマドール遺跡など数々の魅力的な観光資源がある。
しかし、にも関わらずこの国はこれまで観光事業にあまり積極的ではなかった。2016年7月に同国の人々と日本の協力によって、ナンマドール遺跡が世界遺産に登録された-と同時に危機遺産にも登録された-とはいえ、そうした資源を有効的に活用しているとは言い難い状況であったのだ。
ナンマドール遺跡など本来、『〈神と人の間にある空間〉という意味を持つ、ミクロネシアのアンコールワット』という響きの喧伝があるだけでも観光集客効果を見込めそうなものなのだが。
同遺跡で若者の興味を惹きそうな話をするとすれば、近付けば写真データが消える呪いの人工島などという振りもあるようだが、この噂についての真相は定かではない。
ともあれ、これまで観光資源を活用した外貨獲得の機会を自ら見逃し続けていた同国で、僅か半年足らずの内に観光名所を中心とした事業開発を進め、早ければ数年以内には立派な観光地化が完了する見込みとなっているというから驚きだ。
美しい海を筆頭とする雄大な自然もあり、南国特有の穏やかさがある。
私も総統という立場を放り出して良いのなら、バカンスに訪れたいと思うほどに魅力的な場所であると思うほどだ。
大統領の政策の中で特に目を惹くポイントとなるのは『外国資本に頼らない観光開発』を掲げ、自国民を主体とした事業として確立した点だろう。
手っ取り早く観光地開発をするのであれば海外資本企業を呼び込み、その全てを任せてしまう方が効率は良い。
だが彼はそれを良しとしなかった。なぜなら経済政策の中にしっかりと雇用対策を含め、自国民の末端に至るまでのクオリティ・オブ・ライフ向上に目を向けていたからだ。
事業拡大に伴う雇用創出と賃金の値上げ、物価の上昇と消費の活性である。即ち景気に好循環をもたらすインフレ状態を作り出すことに成功した。当たり前だと思われるかもしれないが、これを実際に掲げた上で実行までできる国はそう多くない。
先進諸国も、口先だけの雇用創出や最低賃金の値上げなどを謳いはするが、国家として本当の意味で全国民の生活向上を考えている国などなく、彼ら政治家が考えているのは常に“次の選挙は当選するのか”という利己的なものであったり、見せかけの成果を出すために“どのように税収を上げるか”という点に限ったことなのだ。
デフレ脱却の為に国債発行による資金調達をしようとはせず、国民から税を搾り取るだけ搾り取って〈見かけ数字上だけの好景気〉を演出して見せる。
見掛け倒しのインフレは進み、搾り取られた国民は消費に回す余裕もなく貧困に陥る。
そのように政治家の延命を主目的とした“足りなければ取れば良い”というだけの負の連鎖政策を先進国が行う中、キリオン大統領は“足りないからまずは与える”という“雇用創出と生活の安定及び質の向上”を国民へともたらすことを最優先とした。
先にも思考したことだが、急速な開発を行う上ではやはり金銭をかけて外国資本を呼び込む方が圧倒的に効率は良く、ノウハウを持たない自国資本だけで開発を進めるというのは茨の道以外の何物でもない。
一歩間違えば負債以外に何も残らない大博打だ。
しかし、大統領はここでも敢えて茨の道を選び取り〈自国資本による観光地開発〉という部分に強く拘っている。
なぜなら、-敢えて具体例は挙げないにせよ-海外資本の呼び込みを行った結果として“何が起きるのか”について、彼は近隣諸国の失敗例を見て学んでいるからだ。
近隣諸国の中には外国資本に良いように使われた挙句、利益が見込めないと分かった途端に負債だけを押し付けられて困り果てている国が存在する。
故に、海外から呼び込むのはあくまでも開発に必要な重機材と、建築設計、施設運営に関するノウハウや技術のみ。特に、昔からそうした分野で繋がりのある日本からの開発支援を多く受け入れているようである。
必要なことは自分達から学びに行き、教えを乞う。悲願を達成する為には茨の道であろうが何だろうが構うことなく突き進む。
強い信念の元に、南国の島国国家は今まさに経済分野で世界進出を始める準備を整えようというところまで来ていた。
話を戻そう。
そのように、良いことばかりのように見えるキリオン大統領の政策にも当然ではあるが大きな弱点がある。
何のことはない。〈先立つもの〉の話だ。
ただの金銭問題であり、要は先立つ資金が圧倒的に不足しているという現実を克服しなければならないという課題を抱え込んでいるままなのである。
資金援助に頼らないことを目指しての開発が、資金援助に頼らなければ実現できないという矛盾。
彼のジレンマとはそのようなものだ。
ナンマドール遺跡やケプロイの滝、ドイツ鐘楼など自然環境を売りにした観光地開発ということで、例えばイギリスのセルフェイス財団などからは環境保護の為の寄付金が寄せられたりはしているが、慢性的な資金不足は解消することがない。
開発資金に加え、観光資源の保護にも莫大な資金投入が必要であるからだ。
だからこそ……
私達は彼らが抱える最大の弱点に目を付けた。
銀色のアタッシュケースいっぱいに詰め込んだのは“莫大な政治献金”……の一部。
やましいこともないので言っておくが、政治献金というものには種類が2つある。特定の政党に対して寄付されるソフト献金と、個人宛に寄付を行う“ハード献金”だ。
私が彼に贈ったのは後者のハード献金である。キリオン大統領の政治活動に魅力を感じたという理由で資金援助を申し出た。
言いはしないが、資金の出どころは当然グラン・エトルアリアス共和国国庫である。軍事大国への技術供与で巻き上げた金をただ国庫に眠らせておくなどもったいない。
実質的な財政管理を行っている政府機関に対し、テミスから働きかけをしてもらってこの為だけに予算を割いてもらったのだ。
会計記録上、どのような処理になっているかは知る由もないし知りたくもないが、まぁ良い。やましいことはない。決して。多分。
さて、熱く国家の未来と夢を語る彼がその金銭を前にしてどのような態度をするものか。実に興味があったのだが、結論から言うとがっかりした。
非常にありきたりなものだったからだ。
彼は一度は多額の資金提供を拒んだ後、やむを得ない事情-理想-も相まって受け取ることに決めたのである。こちらが出した要望もそのまま呑み込んだ上で。
もう少し違う反応を見せてくれると期待していたのだが、とんだ肩透かしである。
事の顛末を見届ける為だけに眠りから覚めていたアンジェリカも少々膨れた顔をしているのが分かる。
まぁ良しとしよう。
こちらの条件を一方的に呑ませるという最大の目的は果たしたのだから。
私達が条件として提示した要望は実に単純で、自分が“この国の未来に必要だと思う組織”の入国を無条件で受け入れさせるというものだ。
もちろん彼はイエスと頷いた。いや、〈頷くしかなかった〉というのが正しい。
それがどういう組織であるかも知らずに、首を縦に振った。
夢と理想。希望と未来。なんとも甘美な響きで、最期はなんとも脆弱であっけない末路を辿るものだと思う。
好き、嫌い、好き、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い。あぁ、遠い昔からそういったものが私は大嫌いだ。
〈絶対〉のない抽象的な言葉など信じるに値しない。私は自身の目で見たもの以外を信じない。
それらをどれほど信じ夢見たところで、それら美しいだけの想像が自身の身を助けてくれることなどないのだから。
例えば、神に対する信仰……などのように。
私が守りたいと思うこの子の身ひとつ、守ってはくれなかったのだから。
こうした経緯を経て、西暦2031年の夏の終わりに〈マルティム〉と呼ばれる組織がミクロネシア連邦へ公然と入国することとなり、彼の運命の歯車はその瞬間に狂ってしまうこととなった。
目的の向こう側にある目的とは“とある薬品開発”の過程で偶発的に生まれた薬品の試験運用。
少し前のこと。
ある薬品開発の過程で“それ”は偶発的に生まれることとなる。
偶然生まれた試験薬。特性を言ってしまえば覚せい剤や麻薬に類する〈危険ドラッグ〉の一種だ。
薬品を生み出した張本人であるアビガイルが『ちょっと実験したい』などと私にせがむものだから、『せっかくだし、これを用いて何か出来ないか』とシルフィーに提案すると、彼女は楽し気な様子で、いつものように淡々と慈悲のない計画を用意してくれたのである。
リカルドは彼女の立案した計画実現の為に、欧州に名を馳せるマフィアたちの中から選りすぐりの人物を集めて〈マルティム〉いう薬物密売組織を即座に編成。
私が大統領に話をつけるや否や、間髪入れずに公然とミクロネシア連邦へ彼らを入国させた。
薬物密売によって得られた資金を政府へ横流しする為に。
偶然生まれた薬品が人体にどのような影響をもたらすのかをしっかりと確認する為に。
『彼らと我ら、双方にとってWin-Winとなる良き計画にございます』とはシルフィーの言だ。
彼女には人の心が無い。
こうして、そう月日も経たない内にミクロネシア連邦国内は重度の薬物汚染に見舞われることとなる。
街中で知り合いと出会えば「ご飯はもう食べたか?」が挨拶となるような、陽気でのどかであったはずの国は以後、薬物使用を端に発する重大事件の件数を右肩上がりに増やし続ける国と成り果てた。
さらに月日を重ねる中で、重大犯罪が年間を通じてほとんど起こりえなかったはずの国における異常事態は、ついに国家の枠を飛び越えて国際連盟の耳にも入ることとなり、彼らによる秘密裏の介入が行われるほど深刻なものとなっていく。
そうして時は流れ、西暦2034年夏。
薬物汚染が深刻化したミクロネシア連邦において、これまで世界において確認されたことのない“謎の奇病”というべき症例がいくつも確認されることとなる。
私達の用意した『とある薬物』の本格的な実験の始まりであった。
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