* 1-2-5 *
西暦2031年11月中頃。
ハンガリーとの国境付近に存在するセルビアの荒れた森の中で私はある人物に接触した。すぐ目の前には行き場を失くして行き倒れ、地に伏した男の姿がある。
真っ黒なローブに身を包み、絶対の法を用いて聖職者を思わせる風貌の人間に擬態した私は黙ったまま、地に伏す男を見下ろした。
私に気付いた男は、おもむろに顔を上げてじっとこちらを睨みつける。
罪を犯し、世界中の警察から追われる身となったこの男に与えらえる末路など、実にどうでもいいことだ。
好き勝手に生きた挙句に帰る場所を失った野良犬のような男。本来は荒野か森の中で行き倒れ、飢え死にする程度の最期がお似合いだろう。
しかし、行き場もなく、帰る場所もなく、世界の全てを敵に回しているような男だからこそ利用価値があるというもの。
ここはひとつ、彼が人生の終着点を迎える前にもう一花咲かせる為の手伝いをしてあげようではないか。
これから私が行うことは“善なる人助け”だ。この先にある国境に張り巡らされた“二重の鉄フェンス”を越える手助けをし、自由を提供してあげようというのだから。
私は内心でほくそ笑みながら言った。
擬態し、男とも女とも分からなくなった声色で、男の耳にだけはっきりと聞こえるように。
「神はお前を選んだ。天啓はお前を指し示した。貴様の願いを叶える為に必要なものを与えよう」
慣れない喋り方をするものではない。うっかりいつもの調子で『手助けしてあげちゃおう☆』などと言いそうになりながらもなんとか耐えた。
私の第一声としては上出来だろう。正直、ここで滑らなかったことを褒めて欲しい。
地面に這いつくばる眼光鋭い男は怪訝な表情を浮かべ、ますますもって敵意を剥き出しにしながら私を睨みつける。
しかし、男は自らの死に際に現れた人間、つまり私の言葉を真っ向から否定しようとはしなかった。
男は言う。
「お前は面白いことを言うな。神が選んだだと?出来の悪い冗談だ」
冗談などと言いつつ、まんざらでもなさそうな表情を見せた男を前に、私は内心で高鳴りを感じずにはいられなかった。
そうだ、お前はそれで良い。
野垂れ死にする前に私達の享楽に付き合ってくれればそれで良いのだ。お前に求めるものなどそれ以上でもそれ以下でもない。
そう考えながら返事をする。
「お前には理由がある。望むものがあるなら今から渡すものを使ってみると良い」
少し失敗したかもしれない。
お前の理由……自分で言っておきながら矛盾したことを言ったものだと思う。
この男を選んだことには当然理由がある。しかし、それは正確には私達にとっての理由であって、男にとっての理由ではない。
ただ、そうした意味で矛盾をはらんではいるが、完全に間違っているというわけでもなかった。
なぜなら、私達の理由によって施しを与えることが第一目的であるにせよ、与えた施しによって男が何をするのかを知っていたことも事実であり、男がなぜそのような行動を起こすに至るのかについての“理由”まで知っていたからだ。
私は、私達はこの男の全てを知っていて、知っているからこそ近付いた。
故に、聞き方としては失敗だったかもしれないが、間違いではなかったと思う。
そういうことにしたい。
さて、訝し気な目で私を見つめる男が、足りない頭で懸命に考えを巡らせている間、少しこの男の過去について振り返っておくとしよう。
この男は今からおよそ30年前、中央大陸の僻地で生を授かった。
だが、男は生まれた時から1人だった。この世に生を受けて間もなく、両親に捨てられたのである。
両親は世間一般で言われるところの“人でなし”であったのだ。生まれたというだけで疎まれ捨てられ、愛を知らず、幸福を知らず、人の気持ちが分からない人間としてこの男は育つこととなった。
男は幼い頃に孤児院に引き取られたが、そこでの生活に馴染むことが出来なかったそうだ。
戒律に縛られた生活。主などというものに祈りを捧げるだけの退屈な日々。
父からも母からも捨てられた人間が、そのようなものに価値を見出すなどどうして出来ようか。
神への祈りが何になるというのか。
主への愛が自らに何をもたらすというのか。
神や主は自らに何も与えなかったというのに。
おそらく男が抱いた受け入れ難い疑念はそんなところだろう。
信仰の道。この男には到底理解の及ばぬ思想であったに違いない。
神を尊び、主を信じ、隣人を愛せなどと。
私だって笑ってしまいそうになる。それらは自分にも理解し難い概念だ。
それはいい。
男は成人が近付いてきたある日、施設を脱走して行方を眩ませた。
堅苦しい戒律に沿って生きることにうんざりして脱走した後、男はきっと〈ようやく人生における自由を手にしたのだ〉と思ったことだろう。
何物にも縛られない生活。行きたいところへ行き、何をしても何もしなくてもいい。まさに自由だ。
だが、それは大きな過ちでもあった。男には社会のルールが分からなかった。人との接し方が分からなかった。
本来、自由とは社会で生きる上での“責任”と表裏一体の関係にある。
社会生活を営む為のルール、規則が分からない人間が生きる道とは想像以上に困難を極めるものだろう。
では、男が生き抜く為にはどうすればいいのか。
答えは単純なこと。犯罪に手を染めるという道を選べば良い。いや、そうした道しか残されていなかったのである。
強盗を働き、自分を追うものは殺した。男は自ら進んで犯罪に手を染め、あらゆる者を騙し、あらゆる者を傷付けることで人生を生き抜いたのだ。
どうして自分がこのような苦しみを受けなければならないのか。
男はただ世界を憎み、怒りという感情にだけ身を任せて短くも長い時を生き抜いた。
ある時、男は難民に紛れてドイツやオーストリアといったまだ見ぬ地への移住を目指した。経歴からすると難民であることに変わりはないのだが、保護を求めるというよりはただ都合の良い生活を手にしたいという欲望に従っただけの、いわゆる偽装難民の一種と言って良い。
しかし、セルビアからハンガリーの国境を抜ける為にリュスケの町へ近付いた時、男は国境警備隊に捕まり収容施設送りとなった。
再び肩身の狭い生活に身を沈めることとなった男は、これまでと同じ生き方では自身の望むものが手に入れられないと理解したのだろう。
収容施設では人と人との関わり方をどうやら学んだらしい。先に“頭が足りない”と考えたが、そういう部分だけで言うと実に利口であると思う。
これまでのように、他者を脅すという手段だけではなく、模範的に生きる振りをしながら他者を騙すという狡猾な手段を施設で身に着けていった。
彼にはそうしなければならない理由もあった。なぜなら、自分より力を持った収容施設の警備隊相手に脅しなど通用しないどころか、逆に自分が痛い目をみるだけなのだから。
故に男は、自分の言うことを聞かせる為に脅しという手段を取るのではなく、他人を信用させる術を取ると良いということを学んだ。
そうして比較的短期間の間に模範的な収容者となった男は、看守からセキュリティの情報を手に入れることに成功し、機械的な監視の目と人的な監視の目をも掻い潜り、幾度目かの脱走劇の末についに収容施設からも自由の身となった。
収容施設からの脱走劇の末に、名前を持たなかった男には名が与えられた。
看守たちは狡猾な男を指し、こぞってこう呼んだ。
〈ライアー -嘘吐き-〉と。
男は再び自由を手に入れた。何者にも縛られない大いなる二度目の自由だ。とはいえ、だからといってこれまでとやることが変わるわけではない。
施設で学んだ知恵を用い、男は以前にも増して巧妙な手口で他者を騙し、盗み、殺しもした。
怒りの中にだけ快楽を見出して生きる悪魔のような男。〈ライアー〉は罪を重ねるにつれ、いつしか真正の悪魔にまで身を堕としていたに違いない。
ライアーの起こす事件の残虐性は行く先々の警察の記憶に残ることとなり、やがて世界中の警察から目を付けられ、次第に追い詰められていくこととなる。
そうして辿り着いた場所が“ここ”だ。
人生の終着駅へようこそ。
ざっと、男の過去についてはこのようなものである。
ただ生まれた場所が悪かったというだけで、この世全ての不幸を背負うような運命を辿った人間の憐れなお話だ。
正義をかざす者達に追われ続けて、この世界そのものに居場所を失くした男は野生動物が死に絶える場所として適当な森の中で、今まさにその生涯を終えようとしている。
それだけでも〈面白い〉光景だが、死に損ないの男が尚も私の言葉が理解できないという様子でじっと睨みつけてくるという今の状況……これがこの場の愉快さに拍車をかけていた。
そろそろ男は何かを言うだろうか。黙って睨み合いをするのも少し飽きた。
早く何か言ってくれないと笑ってしまいそうですらある。
反応しないなら殺してしまっても良いのだが……
互いの視線の交錯が続いた後、間を置いてようやく男は言った。
考えを巡らせた割に、私に対して至極当然の質問を投げかけてきたのだ。
「お前は何者だ?」
え?今さら?
まぁ、そうだろうとも。存外につまらない質問だが、誰だってまずはそう言うと思うし、そう言いたくなるだろうと思う。
怪しいローブに身を包んだ男とも女とも分からない得体の知れない人間を前にして、先の質問をしない人間もいない。警察だってまず最初にそう聞くものだ。
ただ、その質問に至るまでが長すぎやしないだろうか?やはり少し頭は足りていないらしい。
しかし、さて……何と答えたものだろうか。
これから先、そう遠くない未来に死ぬことが確約されている男に名乗って面白い名前とは。
他人との会話を楽しむことが無い自分としては、こういう時に気の利いた答えをひねり出すのはなかなかに難しい。
きっとリカルドやシルフィーであれば難なく答えられるのであろうが……
そうして考え抜いた末、長い沈黙を経て私はただ一言だけ告げた。
「プロフェータ」
イタリア語で預言者を示す言葉だ。
この男を待ち受ける悲惨な死に様を知る身としては適当な言葉であるだろう。男が辿る運命はどうしようもない程の【死】そのものなのだから。
この世界の誰も経験したことのない、壮絶なる苦痛と痛みを伴う死を彼は体験するだろう。
男の死は、彼が生まれて以来ずっと否定し続けた〈神〉によってもたらされる。
しかも、その神を連れている人物もまた〈預言者〉であるということがポイントだ。
……とはいえ、私の中では最高且つ渾身の答えであるその言葉も、男が明確に意味を理解する瞬間は未来永劫訪れない。
もとい。自画自賛はここまでにしよう。
適当な名前を名乗ったところで本題に入る。
目の前でくたびれている男には自分達、グラン・エトルアリアス共和国が新規に開発した“ある兵器”の試験運用をさせるつもりだ。
兵器の名は〈ハーデスの兜〉。
神話に名高い、被るだけで姿が透明になり、他者の視覚から完全に隠匿されるという神器を模した軍事兵装の一種である。
アビガイルが製作した新作の兵装は、まさにその名前の通りの性能を持っていた。人間の肉眼で捉えることは元より、現代防犯システムによる探知は不可能。一度被ってスイッチを入れてしまえば透明人間として振舞うことが可能な夢のアイテム。
唯一、古いデジタルカメラで撮影したときだけ弱点が露呈するという話ではあるが……
いずれにせよ、私としてもこの画期的な“おもちゃ”が実際にどの程度有効性があるのかを出来る限り楽しい方法で試験してみたいと思っていた。
というより、元々はアビガイルから『データが欲しいからどこかで適当に運用試験をしてきてほしい』などと頼まれて、ここまでやってきたというのが本当の所であり、事の始まりでもある。
ふと、ハンガリーへと訪れる前にアビガイルと交わした会話が頭をよぎる。
今から1か月前の10月まで話は遡る。
『えっと、ニッケル酸さま…なぁに?』
私は彼女に真顔でそう聞き直した。
彼女は聞き慣れない科学物質の名前を早口で言いながら、今回の〈作品〉に関する素晴らしさを懇々と述べていたと思う。
もちろん、私は彼女の話を半分はおろかほとんど聞いていない。聞いていないというより分からない。
難しい話が多すぎて頭に入って来ないのだ。
あの時の私は、周囲から“茹で上がった魚の目”をしていたように見えたことだろう。
ご機嫌に早口で作品を語るアビーの説明で分かったことはただひとつ。
“スイッチひとつで透明人間の完成☆”
それだけだ。
それしか記憶に無いし、あとは右から左へ筒抜けである。
はっきり言おう。説明するならそこだけ分かれば良くない?
だが、思い返して沸々と感じる疑問はそこではない。
それよりなにより前提として、だ。
『まったくぅ、あのボクっ娘は私のことを何だと思っているんだろう、ね?』
あの時私は内心で思わず愚痴をこぼした。
私の中で既に疲れ切った様子を見せていたアンジェリーナは何も言わない。
考えてみてほしい。
これでも自分はグラン・エトルアリアス共和国における“総統”という一番偉い地位に就いているはずだ。しかも280年もの間、ずっと。
にも関わらず、アビガイルに限らず、臣下である〈テミス〉の面々-特定の2人のみ-から、まるで小間使いのようにパシリをさせられている状況には思わず笑ってしまう。
ただ、笑ってしまうし呆れもするが、今回も例に漏れないアビガイルの恐れ知らずの無作法な依頼を心の底から楽しんでいることもまた事実ではあった。
事実であるから私は許す。
彼女達の考えることはいつだって本当に楽しいし面白い。
それに、小間使いという扱いに不満を感じることがあるにせよ、実のところ興味本位であちこちと飛び回っているのは、何よりも私達自身の意思であるのだから。
総統という地位に立つ自分を外部へ〈遊びに行かせる為の口実を提供してくれる〉と思えば可愛いものだ。
加えて今回の〈ハーデスの兜〉データ収集兼実験に【享楽】という花を添えたのはシルフィーであった。
『アンジェリカ様、アンジェリカ様。わたくし思いついてしまいましたわ。まず前提として運用試験としてデータを取るならとびきり楽しい手法、楽しい目的があった方が良いと思うのです。どうぞお聞きになってくださいませ。アンジェリカ様』
彼女はそう切り出したかと思うと、隣で呆れた表情を見せるリカルドに構うことなく嬉々としてどのように実験すべきかを、頭にある考えを次々と自分に提示したのだ。
いつも通り、冷淡、冷酷、冷徹に。美しい笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
案の定、慈悲も情けも容赦も欠片もないと自認している私ですらドン引くほどの残酷な案の数々が提示されたが、その内容は確かに“面白そう”なものばかりであった。
自分はシルフィーの考えた案を元にして運用試験の内容を練り上げ、それを考える合間の調べもののついでに、ライアーと呼ばれるこの男の存在を掴んだことで最終的に〈閃き〉に至り、此度の実験計画を発案したのである。
元から世界に居場所のない男-ライアー-に、世界から居場所を失くした人間-難民-を近付ければどうなるのか。
悪行の限りを尽くした男に“コレ”-ハーデスの兜-を与えたら何が起きるのか。
そんなもの、答えは決まっている。捕まるリスクの低さも含めて男は十中八九、難民相手の強盗殺人に手を染めるだろう。
難民が難民を殺すという最悪の事件が多発するに違いない。
何せ、姿が見えなくなる魔法の道具を渡すのだから、この男が他の使い道を考え付くはずがない。
事件が起きる最中に、本来の目的である十分な実験データの収集もできるはずだ。
この計画において、私の興味をそそるのはそれだけではなかった。
私の興味というものを端的に言えば、“男がどういう方法で殺人を行うのか”についてである。
道具の使い方など人それぞれだ。
道具とは使う人の発想次第で面白くもつまらなくもなるものなのだ。
きっと、この男だからこそ考え付く“方法論”が見られるはずである。
その方法論が私の感性に沿った楽しいものであれば良いと、私は願う。
そのようにして、ハーデスの兜運用試験の内容は一気に組み上げられ、私は嬉々としてセルビアの地まで足を運び、こうして偶然を装ってライアー本人と遭遇するに至った。
-私が嬉々としてセルビアまで足を運んだ本当の理由はさらに別にあるのだが、今は少し置いておこう-
さて、そろそろ潮時だ。
肝心な代物をこれから手渡す。いや、投げ渡す。
男がどういう行動に出るのか、じっくりと観察してみようと思う。
鉄フェンスの周辺に集う欧州連合を目指す難民、〈身寄りのない人々〉。
彼らのような弱き者の中に、武器を持った狼が“見えない存在”として飛び込んだとしたら……
実際のところ何が起きるのか、見てみようではないか。
そうして事件が起きた先で、さらに楽しい享楽の時が訪れる瞬間をぜひ私に贈り届けて欲しいものだ。その為の別の“仕掛け”までわざわざ考えているのだから。
私は大仰な名乗りを上げた後、ややもったいぶりながら男に向かってハーデスの兜が入った大きなカバンを投げ置き、すぐにその場から立ち去った。
胸の奥に、新しいおもちゃを手に入れた時のような興奮と喜びを感じながら。
そして、この数日後。
ハーデスの兜を受領したライアーは、難民を救う為の総会を開こうとしているハンガリーの地で、目論見通りに【難民(ライアー)による難民を傷付ける為の〈難民狩り〉】を始めたのであった。
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