探偵変
超弩級変人探偵
小さな窓から指している一本の光は、パイプ椅子に座っている彼を薄ぼんやりと照らしている。
小さな埃がその光の筋を横切って、ダイヤモンドダストのように煌めいているが、そんなことなど全くもって目にもくれず、彼は読書に没頭していた。
目的さえ失わなければ他は及第点でいい。
これが彼のスタンスであり、美学であった。
それ故なのか、休五郎はテストの点数だけ見れば学年トップの成績なのだが、提出物や内申点はおまけ程度にしか思っておらず、授業をさぼることもままあった。
というか、さぼっている真っ最中であった。
「体育は一番さぼっていい授業なのは自明の事実だろう」と体育教師に言い放ったという伝説は、同世代の生徒の間では馴染み深いものである。
そんなマイペースで極まりない休五郎だが、そんな彼でも避けられないのが年の功。
この四月で休五郎は晴れて二年生になる。
しかし、彼は何も変わらない。
現状維持すらも努力を要さなくてもいい域まで行ってしまったのだ。
最低限の加速でのんびりと前に進む人生を歩みたいのだと。
読書とそれに適した環境があればいいのだと休五郎は思いながら、今日もさぼって本という名の別世界に溶け込むのであった。
旧校舎は老朽化や他校との合併などの様々な要因によって廃止された。
全くもって正当な理由で利用されなくなっただけなのだが、高校生という生き物というのは、好奇心旺盛というべきか馬鹿というべきであろうか。
誰が言い出したのか分からない、いわく憑きの噂が立っているのであった。
その噂を聞いた休五郎は、先生たちが旧校舎に近づけないために、わざと言いふらしているのかもしれないが、こんな子供じみた噂を誰が信じるというのか……と思った。
馬鹿馬鹿しい馬鹿ばっかりだ、そう思っていた矢先の出来事である。
休五郎がいつも座っているパイプ椅子の座る部分に、何かが書かれた紙が乗せてあったのである。
(何だこの紙……)
『拝啓、倉庫の番人殿。こちらは、落語研究会部長の者である。明日の放課後に少し相談したいことがあるので、面会願いたいのだがお願い聞いてくれないだろうか? 了解の有無はこの紙で鶴を折って倉庫前に置いてあるか否かということで!』
休五郎はその紙に書いてあった内容を読み終えると、ぐちゃぐちゃに丸めて適当な場所に投げ捨てた。
(何人かの生徒がこの場所までわざわざ来たことがあるが、そのすべてはしょうもない恋愛相談とか勉強を教えてくれとか、つまらないことであったな。これもまた似たような話か馬鹿ないたずらのどっちかだろう)
休五郎はまったく気にしない様子で、カバンから文庫本を取り出していつものようにパイプ椅子に座って、本に挟まれた栞のページから読み進めていく。
そして、
やがて、気分が削がれた休五郎は荷物を持つと、いつもより早く学校を後にするのだった。
コンコンコン。
「失礼しまーす!」
塚本弾はしなしなになった折り鶴を片手に持って、いつもより心なしか綺麗になっている物置部屋に入ってきた。
休五郎はというと、パイプ椅子に座り、文庫本片手に足を組んで客人を迎えた。
「……どうも」
「折った鶴を置いといて、とは言ったけど、まさかこんなにしわしわの鶴だとはボクも予想外だったよ」
「……色々あったんです。気にしないでください」
「そんなこと言われたら余計気になっちゃうなぁ~」
塚本は意地悪な笑顔を貼り付けてそう言った。
「からかわないでください……。それより、用件は何ですか?」
塚本は、まぁいいやと仕切り直して口を開く。
「休五郎君はもう、いくつもこんな風に相談を受けたことがあるかも知れない。そんな経験豊富さと素晴らしい頭脳を少しお借りしたくて尋ねたんだ」
椅子に座っている休五郎の目の前で、壁に体を預けて流暢に喋る塚本。
少しオレンジがかった日の光が塚本を照らして、洒落たシルエットを浮かび上がらせている。
(言っていることと相まって、何故か格好よく見えるのは幻覚か否か……)
「別にいいですけど……それで結局、相談って何ですか」
「休五郎君、君は可愛げがないねぇ……。少しぐらい乗ってくれてもいいのに」
「時間の無駄なので遠慮しておきます」
「はいはい、分かったよ……」
そう言うと塚本はスカートのポケットに手を突っ込んだ。
そして取り出されたのは、長方形の細長い茶封筒であった。
「ボクの所属する落研には部室がなくてね。それで、今はかくかくしかじかあって文芸部と同じ部室なんだけど、そんな折にゴミ箱の中からこの未開封の怪しい封筒を見つけてしまったんだ」
「……はい」
「それで、ボク気になっちゃってさ。――開けちゃったんだよね! いやぁ、人間誰しも欲求に逆らえないものなんだねぇ……」
「それで、手紙にはなんて書いてあったんですか」
「……はぁ。じゃあ、簡潔に言うね。その手紙には、文芸部部長を脅す文章が簡潔に書かれていたの」
それを聞いて、休五郎は首を傾げた。
(それで言ったら、そんな事全国で普遍的に見られることだし、インターネットならそれのもっとヤバい――百倍ヤバい地獄みたいな場所もあるだろう。しかも、彼か彼女分からないが、仮にもその人は文芸部の部長なのだろう。それなら、そんなこともあるだろうと割り切れるものじゃないのか?)
「これを言うのは自分勝手かもしれないですけど、それはある意味で覚悟しなければいけない事なのでは……」
「あ、えーっと……この問題の厄介なところは、これを送られた奴と送られた当人だけでは解決しないところにあるんだ」
「……というのは?」
腕を組む塚本。そのせいで大きな胸がさらに強調される。
「内容がちょっと厄介でね……最近、文芸部に入った女の子がいるんだけど、その娘が取られたとか、危険な目に遭っているんじゃとか、体の関係がとかあることないことを憶測で羅列して、勝手に嫉妬して殺意を向けているタイプなんだよね……」
「確かにそれは……厄介かもしれないですね」
「だろう! だから、これから被害が出たり、深刻化しないようにするために、何かできることがないか相談したかったっていうそういう話さ」
少しの間黙り込む休五郎。
塚本は窓から外を眺めている。
果たしてそこから見える景色は何だっただろうか。
(わざわざこんな俺に相談するってことは、先生や然るべき公共機関にはバラしたくない事情を抱えているのだろう。ということは、なるべく隠密に済ませたい、か)
「分かりました」
「お、何々! 何かいい策を思いついた?」
「この件に関してはお断りさせていただきます」
「え?」
休五郎はいたって冷静に塚本からのお願いを断った。
「そ、それはどうしてだい?」
「どうしてって……こんなに危ないことに片足突っ込みたくないからに決まってるでしょう」
「危ないことって、このまま放置していたら確かに危ないかもしれないけれど、まだことは起こっていない――まだ初期発見の段階だろう? どうしてそんなにすぐ見切りをつけるんだ」
(この先輩は分かっていない。その手紙を送るまでに至ってしまったということはどういうことか、今とてつもなく危険なフェーズへと突入していることと同様であることが)
「この事がまだ始まったばかりなのは同意します。しかし、嫉妬というものは粘着質で上限の決まっていない殺意の初期衝動みたいなもの……。なので、手紙を送られたという時点で被害が出るのは確定と言ってもでもいいでしょう」
「でも……!」
塚本はとても慌てていた。
それは、自身が予想していたよりも大事であったことが発覚してしまったからで、それに加えて、休五郎がその願いを払いのけて手助けを断ろうとしているからである。
一方、休五郎はというと、パイプ椅子の横においてある自分のカバンに手を突っ込んで、ワイヤレスイヤホンを取り出し自身の耳に着け始めた。
「んなっ、こんな時に……」
休五郎は、目で制し、手で制した。
そして、スマホの画面に視線を落として数秒後。
彼の耳元から微かに、女性の声が漏れ始め――しかもそれは、だれがどう聞いても間違いなく嬌声であった。
(ふぅー……これ聴いている時が一番リラックスできる。そして、思考が早く回転するのを感じられる)
しばらくして。
休五郎は、聴いていた音声を切り、ワイヤレスイヤホンを取り、塚本の方を向く。
「……全くの犠牲を払わないでこの件を終わらせることはできかねます。それでも、良いというのなら俺の言うことを聞いて下さい。どうしますか?」
「……」
塚本は唇に手を当てて沈黙した。
そして、しばらく考えたのちに塚本は再びを口を開いた。
「それでもいいからお願い。手伝えることがあるなら何でもするから」
「……今、何でもって言いましたか?」
「うん。何でも」
それを聞いた休五郎は一歩塚本に近づいてこう言った。
「それでは、まずは……」
そこから起こったことは、旧校舎の奥にある物置部屋であったため誰にも知られることはないだろう。
しかし、奇しくも全校生徒はその結果を数日後に強制的に知ることとなるのだった。
塚本のスマホの時間を二十分遅らせたということを除いては。
休五郎が塚本に頼んだこと。
結果だけを知る生徒たちには見当もつかない機密事項。
周知の事実となったこと。
それは、各部室においてある時計の針が正確な時間を刻んでいないということともう一つ。
それは、様々な場面において辻褄を合わせてもらうこと――すなわち、何事もない日常を演出する嘘をついてほしいということであった。
それこそが一番穏便にこの件を終幕へと導ける手段だと休五郎は考えるのだった。
(それはそれとして――平穏の裏には爆発を)
同情は深層心理へのダイレクトアタックで、女の人が男の人に言うと効果百倍である。なので、使えるものは使った方が良い。
どこの誰かが言ったのかもわからない論旨を引用するのは、休五郎自身あまり好きではなかったが、そんなちっぽけなプライドは目を瞑った。
塚本には同情を誘う嘘をついてもらうことになったが、それに関して言うと、休五郎は特に申し訳なさを感じてはいなかった。
どころか、「取れる手段は全部取ってもらわなければならない」という強い思いをもっていた。
(乗り掛かった舟……というか勝手に乗せられ拉致された密輸船だが、この際何でもいい。この学校で傷害事件まがいのことが起きるよりましだ)
ということで、休五郎はいつも通り旧校舎……ではなく、今日は本校舎のちゃんと自分が所属するクラスへと来て、退屈そうに授業を受けていた。
(……あぁ、何も変わっていない。もう既に知っていることをぼそぼそ言いながら黒板に落書きしているだけ……これじゃあまるで、滅茶苦茶質を悪くした朗読ASMR聴いているみたいじゃないか)
「はぁ……」
二年生になったらちょっとはましになるんじゃないか、と期待していた休五郎にとってこの事実は残酷な現実であった。
まだ寒い春の気温は、緑の開花を遅らせる。
休五郎にとってこれは絶望ではなく、予想の範囲内。
ハナから期待がなければ、絶望なんてものはただの飾りでしかない、ただの普遍的な言葉にしかならないということであった。
休五郎にとっての春はいつ来るのか。
それは、本人すら想像できないはるか遠くにあるのだと、彼自身で分かっていながらも微かな期待を完全に捨てきれないのが、休五郎を僅かに人間たらしめている一つの要因だと言えるのだろう。
休五郎は三日間の間、一度も旧校舎及び物置部屋へと足を踏み入れなかった。
それどころか、毎時間しっかりと授業に出て無遅刻無欠席を連続していた。
クラスメイトからは訝しむ声が少々出てはいたが、出席日数の観点で嫌々出ているのだろうと皆思った。
しかし、現実は皆の思っている事と違った。
(情報収集はすべての事柄にとって有益であり、どんな問題に対してもある程度の結果に導いてくれるものだ……。なんて、この前会った新聞部部長みたいな事を言うつもりはないが、その考えについては少なからず同意できるものだな)
『箱入り娘』という言葉があるが、物理的に箱に入っている人間というのはそうそうお目にかかれるものではないだろう。
だけど、今、休五郎が置かれている状況は、それに当てはまっていると言えば当てはまっていると言えるぐらいのところまで来ていた。
来てしまっていた。
(おぉ……。ロッカーの中と言えども案外居心地がいいものなのだな)
そんな吞気な事を考えている休五郎は、落研の部室前――文芸部の部室とも言い換えられるが、要は例の教室の前に来ていた。
厳密には、その前に設置されていたロッカーの中に入って、微かに聞こえてくる声に耳を傾けていた。
放課後にここへ来てロッカーの中に入り始めてから三日が経ったが、聞こえてくるのは部長と思わしき男が新入部員と思しき女に何かを教えている声と、落研部長の声であろうからかい調子の意地悪い文言だけだった。
何も進展しない状況は、平和を願うのならば喜ばしいことだろうが、何かをやっている自覚が無い休五郎にとってこの状況はつまらないものであった。
するとここで、普段ちゃんと授業を受けないという非日常に慣れていないからなのか、コソ泥みたいなことをしている事が神様にばれて祟られたか、段々とウトウトしてきて……。
(んっ……ん?)
ウトウトしたり、はっと目が覚めたと思ったら、次には自身が眠っていたことを自覚したりしているうちに時間は流れた。
休五郎はスマホを取り出して時間を確認すると、もう17時半になっていた。
この学校は18時が完全下校の時間なので、まだ門は開いているが、目の前の教室からは何者の声も聞こえてきていなかった。
「あのー……そこで何をしているのでしょうか」
ロッカーは開けられた。
それを休五郎が自覚した時には、もうその目撃者にロッカーで三角座りをする休五郎が見られたということになる。
そして、ロッカーを開けた女子生徒は警戒心マックスな表情と仕草をして、休五郎を不審者だとみなしているようだった。
「……逆になんでこのロッカーを開けたのでしょうか」
「質問を質問で返さないでください! 私知ってるんですよ? 最近、あなたがこのロッカーに入って私たちのことを監視してること!」
「……それは勘違いです。俺はたまたまこの中に入って読書をするのが趣味の、ごくごく普通の男子生徒ですので、勘違いしてしまうのも無理はありません。紛らわしいことをしてしまってすみません。では……」
休五郎は棒読みでそう言った。
「ロッカーの中は真っ暗なのにどうやって文字なんか読めるんですか?」
問い詰めてくる女子生徒。
ここで、休五郎は気が付いた。
(そう言えば、目の前の部室から聞こえてくる声は三つだった。一つは落研部長、もう一つは文芸部部長。となると、目の前のこの子が
休五郎は点と点がつながった感覚に感心しながらも、その三白夜からの質問に答えあぐねていた。
(確かにロッカーの中は真っ暗だった。果たして、どう答えたら整合性が取れて、この状況が丸く収まるのだろうか……)
休五郎の手に汗がじんわりとにじんでくる。
そして、追い詰められた休五郎は、おもむろに制服のポケットからワイヤレスイヤホンを取り出して自身の耳に装着し、あらかじめ用意していた音源『喘ぎ声リミックス! 三十人のいやらしい声大集合!』をかけて目を瞑った。
その間、三白夜はというと、その休五郎の突飛な行動にあっけに取られて固まってしまっていた。
たった数秒の沈黙は三白夜翠にとって、とても長く感じた数秒であろう。
そのたった数秒で休五郎は整理して道筋を立て、より良い落としどころを模索する。
(ふぅ……)
そうして思いついた文言は、音声を止めてイヤホンを取る間もなく、休五郎の口から発せられるのだった。
「……君はあの部長のことが好きなの?」
「えっ……あ、いや、突然何を言い出すんですか!」
三白夜は明らかな表情で動揺して、二、三歩後ずさった。
その様子を見て、休五郎は立ち上がり、ロッカーから出てグッと伸びをした。
(やはり図星だったか……しかもこの様子だと、恐ろしいと感じてしまうぐらい好きっぽいな。というよりも『重い』と言った方がいいか。重い思いは厄介なんてどんなところでも聞く話だ)
「三日ほど君たちの会話が聞こえて来ていたのだけれど、その発言というか声色からビシビシ好きという感情が伝わってきていて、聞いてるこっちが痒くなってくるぐらいだったよ」
「べ、別にあなたに言われる筋合いはありません! 私は素直に部長先輩と関わっているだけです!」
休五郎は視線を逸らさずに、ジッと目を見ながら一拍置いた。
「逆に言えば……これだけ君たちの会話を聞いてきた俺ならば、新入部員さんに何かアドバイスをできるかもしれませんが……」
それを聞いた三白夜は、目を見張って唾をのむ。
「ごくりっ……」
「聞いてみたくありませんか?」
三白夜はその提案を受けるか受けないか、その狭間で右往左往している。
(ここでただの怪しいやつから、ちょっと役に立つに昇格しておきたい。そうなれば、今後、変な厄介ごとに巻き込まれる可能性を少なからず減らせるからな)
「チョットだけ聞かせて……下さい」
「……はい、分かりました。コホン……新入部員さん、あなたは部長先輩が好きであるということは間違いないですね?」
「は、はい……」
「では、その気持ちを遠回しに伝えてみるのはどうでしょうか」
「遠回しに?」
「はい。いきなりストレートに伝えるというのは誰しも難しいことです。なので、ちょっとした仕草や言動で、『あれ、もしかしてこの子僕のこと好きなんじゃ……?』と匂わせることが大事です」
「ほう……」
「そして、段々と揺らいできたその心が見え始めてきたら、今度は第二フェーズへと移行するんです」
「第二フェーズって何ですか……今話したのが第一フェーズだったんですね」
「はい、そうです。それで、第二フェーズというのが、さりげなく、軽いボディータッチをしてみてください」
「ぼ、ぼでぃーたっち!?」
顔を赤らめて頬を手で覆う三白夜。
「そうです。物理的接触は案外、心理的接触と直結しているものなのです。なので、偶然を装って手を触れあったり、肩をぶつけたりするのが効果的なんです」
「そ、そうなんですね。知りませんでした……参考にしてみます」
「ということで……俺は帰ります。お疲れ様でした」
「お、お疲れ様で――って、ちょっと待ってください! まだ話は終わっていませんよ!」
何とか誤魔化して帰ろうと施策していた休五郎の作戦は見事失敗に終わってしまった。
そして、そこから休五郎が何とか三白夜を説得に成功して、学校を出た頃には完全下校の時間で外が真っ暗だったことは、当人以外、誰も知る由もないことなのであった。
いつも通り、今日も旧校舎の物置部屋に一人でいる休五郎であったが、その部屋の様子はいつもの閑散とした風景とは異なり、床に何枚もの紙といくつかの工作用の道具が散らばっているという、休五郎の性格からしてあまり考えられないような光景が広がっていた。
今日、休五郎は
それが、何の為に、誰の為にしている行為であるかは、休五郎とこの数日間に起きる出来事をあらかじめ知る人物以外には分からないことである。
(予測が正しければ、それは今日爆発するのだろう。当人はその暗に成長し続けていた悪の芽に気づいているのか、いないのかは知らないが、俺から言えることは、先んじてそれに気づいてしまった人間にしかこれを止めることはできないということだろう)
何故、この世界は気づかせてくるのだろうな、と嘆きながら休五郎は作業を続けるのだった。
時計の針は今何時を指しているのだろう。
休五郎はそう思ったと同時に、そういえばいろんな時計の時間ずらしたから、多分全部がちゃんと揃っているなんてことはないんだろうな、と自虐的にそう思った。
休五郎は再びロッカーの中へと這入っていた。
今度また三白夜に見つかったとしたら、説得には一体どれだけの時間がかかるのだろうか、なんて思いながら休五郎は自分のお腹をさすった。
それも多分、またこんな時間、同じような日の暮れ具合に、同じような形でロッカーへと忍び込んでいるが故の発想なのだろうと休五郎は思った。
そんな事を考えて、自分自身で呆れながらもどこか高揚した感情に包まれる休五郎。
だが、そんな事を考えていられるのも今のうちであった。
なにせ、今の休五郎は前回の状況と少し違い、ロッカーの中で立ちあがっている状態で、上の方に少し開いている隙間から顔を覗かせていて、そこから廊下の状況を確認できるようにしていたのである。
(下調べとイメージトレーニングは済ませてある。後は、集中を高めながらその時を待つだけだ)
休五郎は、いつものごとく耳にワイヤレスイヤホンを着けている。
そして、今聞いているのは、『ニッチなシチュエーションボイス! 魅惑のワルツを私と踊ろう!』である。
音声によって極限にまで集中力が高まった休五郎の目の前には、部活動が終わり戸締りを終えた文芸部部長の姿があり、その様子からロッカーの中に休五郎がいるなんてことは全くと言って良いほど気づいていない。
そして、文芸部部長は扉の鍵を閉め、鍵をポケットに入れて歩み始めようとしたところで、ふと、歩みを止めた。
(残念ながらこの僅かな隙間からでは何が起きているのかははっきり見えないが、大方俺の見立て通りのことが起きているのだろう)
しばらく動かないで立ち止まっている文芸部部長。
そして、休五郎からギリギリ見えるか見えないかの位置にいる誰かに話しかけているようだった。
休五郎は手をロッカーの扉に添える。
そして、その光景がよく見えるように顔を隙間に近づけて、体を前傾させて足に力を込める。
そして、その時が訪れた。
正確には、その時に至る数秒前にもう休五郎は飛び出していた。
背中で部長を押して、その刃物をお腹で受け止める。
果たして、初めて人間のお腹を突き刺した感触はどんな感じなのだろうか。
皮膚を貫通する感覚は、骨を掠めて削ったその感覚は、体内の空洞に刃物を留めたその感覚はどうだったか。
そんな事を考えるだけで気持ち悪くなるのだから、今のお前はさぞかし気持ち悪いだろう。
そんな君に朗報だ。
休五郎は部長が倒れている間に、同じように目の前で倒れている大柄な男に近づいて、ニヤニヤしながら自身のお腹を見せつけた。
「――ひっ」
休五郎のお腹には、大量の紙の束が巻かれていて、そして、そこに園芸用のハサミが刺さっていた。
ぶっ刺さっていた。
そして、そのお腹に巻かれている紙をよく見ると、その紙一枚一枚全てが三白夜の顔写真であることが分かった。
「何故ですかねぇ……あなたが好きなはずの女の子に、あなた自身が直接刃物を突き立ててしまうなんて、何とも愚かで愉快な方ですね」
休五郎はその男の耳元で、小さな声でそう言った。
その男はそれっきり動かなくなってしまった。
(ふぅ……やっと片付いた)
そして、休五郎はそのハサミに触らぬように紙ごと回収した。
(持つべきものは協力してくれる狸、か)
そして、休五郎は同じように付近に倒れている文芸部部長へと声をかけるのだった。
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