【弐】


 次の日。


 その次の日。


 その次の次の次の日。


 はたして、何故こんなに省かれて、省略されて、早回しされることになったのか。

 そんなものは、振り返らなくても分かることであって、分かりたくなかったことであった。


 進捗いかがでしょうか。

 すみません、まだ終わっていません……、〆切伸ばしていただくことって……可能ですか。

 無理です。


 脳内の七不思議くんと七不思議さんが、一瞬で終わる会議とも言えない会話を二つほどして終わった。

 やはり、制作側は編集に逆らえないのだという自然の摂理なのか?

 いや、そんな悲しい摂理あってたまるか。

 ……そんなわけで。

 貴重な青春という尊い時間を失いながら、差し迫る〆切に苦悩をしている間に、今日も鯨波高校は終わりのチャイムを鳴らす。

 今日は朝から今まで、ずっと分厚い雲が空を覆いつくしていて、昼間であっても少し薄暗く、時折降ったり止んだりする雨が見受けられた。

 薄暗い教室をLED蛍光灯が白く照らしている。

 僕は、放課後になった三年七組の教室で迷っていた。

 今から僕が文芸部の部室に行っても行かなくても、やるべきことは変わらないのだが、それはもう事実上の廃部のようにも感じられて嫌な気分がする。

 しかし、行っても何かが思い浮かぶわけではない。

 迷った挙句、僕は結局、部室に行っておよそ三十分の間スピーチの台本を考え、突如虚しさ襲われた結果、すべからくして下校するという選択を取ったのであった。



 直帰でもなければ、下校時刻を満了することもなかった僕は、がらんどうの昇降口を通る。

 外に出ると小雨が降っていたが、別に傘をさすほどでもないと判断して気にせずに歩いて帰ることにした。

 薄暗い帰り道を一人歩く。

 道端の水たまりに細かい雨が落ちてきて、小さな波紋が模様みたいに広がっては消えていく。

 遠くのほうにやっと駅が見えだしてきた辺りで、雨の勢いが強くなる。

 慌てて走るが、学校用のリュックがバウンドして背中にダメージを与えてきながら、走りのリズムを邪魔してくる。

 少し息を切らしながら、屋根のある歩道までたどり着いたが、そのころには冷たい感触と共に、腕にぴっちりと白シャツが張り付いてきて不快感に襲われた。

 今日は体育がなかったのでタオルは持ってきていない。

 目の前にはコンビニがある。

 駅でしか見かけないタイプのやつだ。

 僕は真顔で、何も考えず、さも当たり前のようにそのコンビニへと入店した。



 はたして、肩にタオルをかけて片手にネクター缶を持った男が、駅のホームにあるベンチに座っていたら人々は何を思うだろう。

 強豪運動部に所属する熱い学生の練習帰りにでも見えるのだろうか。

 実際は、面の皮が厚くて、肩が冷えているだけのただの文化部男なのに。

 ……ほっとけやい。

 何も生み出さないのに消費される脳のエネルギーの為に、ネクター缶から糖を摂取するのは、なんだかもったいない気がするが、そんなことに気をまわしている暇があったらさっさとスピーチ原稿を終わらせた方がいい。

 いつまで経っても思いつかないスピーチの内容が、あの厚くて灰色の雲に浮かび上がらないかという絵空事を妄想する。

 創造力を夢想する。


「後輩君……君は一体何をしているんだい? そんな可愛くない格好して」


 聞き覚えのある中性的で、綺麗な声が聞こえてきたので振り返ると、そこにいたのは、かつて鯨波高校の生徒であり、先輩であり、部長であった折紙おりがみつづるであった。

「折紙先輩! ……って、先輩こそその格好はなんですか?」

 アイドル衣装並のフリルが、どえらい量付いたゴシック調のワンピースは、裾がひざ上15センチと短く、そこから赤と黒のストライプ柄ニーソが揺らめくワンピースから、ちらりちらりと見え、こちらを挑発してくる。

 そして、その度に目が引っ張られる。

 それはまるで、コンビニのアダルトな雑誌――または寝ころんだ猫のフワフワなお腹……はたまたブラックホール、のような引力で引っ張られてしまい、その度に罪悪感に苛まれる。

 そのことを知ってか知らずか、サッとワンピースの裾を手で押さえて、プイッとそっぽを向いてしまった。

 首の動きに合わせて、艶やかなクリーム色をしたミディアムボブカットがふわりと揺れてほっぺたを撫でる。


 折紙先輩は勘違いをしている。


 だって、僕の意思とは関係なく目が動いているのだから、僕は悪くないはずだ。

 あと、言い忘れたがとてもお洒落なデザインの黒いローファーを履いている。

 それをどこで買ったかも想像できないが、多分学生の身分じゃ躊躇ためらうぐらい高そうなのは確かだった。

「そういえば、後輩君は私の可愛い(かわいい!)至福の私服姿を見たことがなかったね。……どうだい? カワイイだろう?」

 ……カワイイと素直に言えないこの気持ちは一体何なのだろう。

「……カォハイイ」

「カワイイみたいな感じで誤魔化さないでよ! ……でもありがとう」

 辺りには全身が痒くなる空気が漂っている。

 そんな空気を晴らそうと僕は口を開く。

「そ、そうだ! そういえば、先輩、メッセージ送ったんですけど、なんで返信くれないんですか」

 理由など分かっているけど、この空気のまま黙っているぐらいなら何かを口にした方がまだましだった。

「それは! ……ごめんね。私だって、いの一番に後輩君とお話したかったよ? でも今の時期は、編集という名の悪魔からの連絡を遮断しないと身の危険を感じるから……ごめんね」

 折紙先輩は俯いて上目遣いでそう言った。

 切り揃えられた前髪から透けて見える、大きくて丸っこい目と視線が交わってドキッとする。

「い、いや先輩、やめてください! 僕は別に謝ってほしくて言ったわけじゃないんです! ただ、先輩と話す機会も少なくなっていくのかなぁ、とかそういうことを考えるとモヤモヤしちゃって、それで、先輩と話せるちょうど良い口実があったから、それだからメッセージを送ったんです」

 これは半分本当で、半分噓。

 本当なのは今言った通り、先輩と話したかったから。

 嘘なのは、「先輩と話すいい口実」という部分で、これは口実どころか切羽詰まっている重要な案件で、今とても焦っている。


 だけど、僕は見栄を張ってしまった。


 先輩と話すのが久々な気がして、それで出てしまったのもあるが、それ以上に先輩の雰囲気に呑まれてというか、当てられてしまって、滲み出た己の醜さやセンスと美的感覚が先輩と比べて、雲泥の差であるという残酷な事実に気が付いてしまったのだ。

 醜い自分を隠さない先輩に顔向けできないな、と思った僕の弱い心がそうしたのだ。


「後輩君、君はいつ見ても可愛い。けど君、今、全然可愛くないこと考えてるでしょ」


「……」

「図星だね? ほら、優しい(やさしい!)先輩が後輩君の悩みを聞いてあげるから。隣、座っていい?」

 そう言って折紙先輩は、僕の返事を待たずして隣の席に座った。

「……実は、新入生部活動紹介でスピーチをしようと思ってるんですけど、何を言うか全然思い浮かばないんです」

「あー、懐かしいなー! やったなー部活動紹介! ふーん、後輩君はスピーチをしようとしてるんだねぇ」

「はい、そうです」

 先輩は一口、缶ジュースを飲んだ。

 ってあれ、その赤いパッケージもしかしてネクター缶? やっぱいいですよねーネクター! 最近はペットボトルでも売られてますけど、やっぱ缶で飲むのが通ってもんですよねー!

 ……ところで、僕がさっきまで飲んでいたネクター缶って今どこにありますか?

「一つ聞きたいんだけど……」

「はい、何ですか?」

「君ってスピーチとかするの……得意だっけ?」

「えぇっと……あまり得意ではないかもしれませんね」

「うん、知ってる。じゃあ、君はなんでスピーチなんかするの?」

「えっ……」


 先輩から理由を問われた。

 僕はその問いに対する回答を持っていた。


 さっきまで確かに


 そして、さっきまで持っていたはずの答えは無くなっていた。

 それが何故なのか。

 今考えた適当な理由をつけようとも思えない、この感覚は何なのだろう。

 理由なき行動を許さない信念を蓄えたその瞳に竦められた僕は、蛇に睨まれた蛙というやつなのだろう。


 でも、僕は知っている。

 先輩が絶対に取って食わない事を知っている。


 僕は深呼吸をしてもう一度考える。

 その間、先輩は目をつぶって優しい顔で静かに待ってくれている。

 僕は先輩に甘えさせてもらって考える。

 先輩は甘いんだ。

 僕に甘すぎる。

 ネクター缶にすら負けないぐらい甘いんだ。



『次は~三条、三条、お出口は左側です……』


「先輩、次の駅で降りるんでしたっけ?」

「うん、そうだよ」

 向かい合う席に向かい合わない形で座り、電車に揺られる。

「そうだ! 私、後輩君に一家言あるんだけどいい?」

「……何ですか」

「後輩君がこれから何をするかは言わないでおくにしても、その影響でめんどくさいことに巻き込まれないか不安なんだけど、その辺についてどう思ってる?」

「と、言いますと?」


「後輩君は後輩君が思ってるより、魅力的である事を忘れてはいけないという、警告じみた告白をさせてもらいたい」


 ……ドキッ?

 お年頃の中のお年頃として名高い男子高校生という立場の僕に、大学一年生としての大人な余裕を見せつけられてどうしろというのだ。

 この複雑に怪奇に揺れ動くこの心に、責任が取れるっていうのかこの先輩は。

「えぇっと……ありがとうございます?」

 たどたどしくなってしまった感謝の言葉を紡ぐとともに、電車は一度大きく揺れてからその動きを止めた。

 特殊な開閉音とともにドアが開く。


「あ、あと時間が出来たら一緒に旅館でも行こう! 絶対だ! もし後輩君が無理だと言っても無理やり捕縛して引きずってでも連れていくからね!」



 去り際が嵐のように騒がしかったし、その内容は嵐以上に危険なものだった気もするが、それも先輩なりの気遣いなのだと受け取っておくことにしよう。

 僕は、、折紙つづるという名のカワイイの求道者――その後ろ姿を眺めながめながら、今一度男であることに疑問を持つのであった。


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