初めてのお散歩

増田朋美

初めてのお散歩

よく晴れていい天気だった。珍しく、着物の仕立ての仕事が早く終了した杉ちゃんであったが、こういうときこそじっとして居られないのが杉ちゃんというものである。すぐに、なにか家の中で用事を考える杉ちゃんであるが、ご飯の支度も、まだしなくていいし、部屋の掃除もしてあるし、別に何もしなくていい。ちょうど其時、部屋の中で遊んでいた正輔くんと輝彦くんが目に入ったので、

「よし、お前さんたちを、バラ公園まで散歩に連れて行こう!」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。そういうときにも必ず一人では行かないのがスギちゃんであった。すぐに正輔くんたちを、車椅子の膝の上にのせ、玄関を出る。そして、隣の伊能蘭の家に言って、インターフォンを立て続けに五回鳴らすのであった。

一方、蘭のほうは、一生懸命、下絵の構想をねっていた。数分前にきたお客さんが依頼してきた下絵を、美しく見せるように書き直すのだ。彼女の腕には、これはひどいと思われるほど傷だらけだ。そのような腕の傷跡を、刺青で消してくれという依頼はよくあるのだが、あれほどひどい傷だらけとなると、彫る側にしても、大変な作業になりそうだ。蘭は、できるだけ傷跡が目立たないようにする刺青の入れ方を、一生懸命考えていた。其時、インターフォンが五回なった。

「おーい、蘭!ちょっと公園まで散歩に行こうぜ。一生懸命悩んでいるところだろうけどさ。ちょっと気分転換に散歩に行こう!」

といわれてしまっては、断るわけにいかない。断ったら、あとですごい報復が待っているかもしれないし。蘭は、仕方ないな、杉ちゃんに付き合うかと思って、今いくよと言って、玄関先に行った。

「本当に、一時間だけだからね。僕はこれから、下絵を書かなければ行けないのでね。」

蘭は、道路を移動しながら、杉ちゃんに言った。杉ちゃんの膝の上で、三本足のフェレットである正輔くんと、後ろ足が退化してしまったフェレットの輝彦くんが、蘭を好意的な目で眺めているのが見えた。

「全く、この子達は、本当にかわいいな。」

思わず蘭はそう言ってしまうのであった。

杉ちゃんと蘭は、バラ公園に到着した。

「ちょっと二匹を下ろすか。」

と言って、杉ちゃんは、東屋のテーブルの上に、二匹を乗せた。どうせ二匹とも歩けないので、遠くへ走っていってしまうとか、そんな心配はない。まあそう言うと、かわいそうだとか、思われるかもしれないけれど、歩けないということを悪い方にとっては行けないと思う。

「ちょっと僕、ジュースかなんか買って来るよ。」

喉が乾いた蘭が、東屋の近くにある自動販売機に向かって、移動しようとしたところ、自動販売機の前には先客が二人いた。影浦先生と、一人の患者さんだろうか、ちょっと疲れたような雰囲気を持っている女性である。

「蘭さん、こんにちは。今日は、どうされたんですか?」

影浦先生に声をかけられて、蘭は、

「ああ、あのですね。ただ、散歩に出ているだけで。」

と、答えたのであった。一緒に居る女性は、多分、入院している患者さんと思われ、自動販売機の前でどうしたらいいのかわからないという顔をしている。

「先生、ジュース買われるんですか?だったら、僕手伝いましょうか?」

と思わず蘭は言った。

「いいえ、ちょっとお待ちいただけますか?彼女に、自動販売機の使い方を思い出していただけるように、今、ちょっと試験のような事をやってもらっているんですよ。」

影浦は、にこやかに笑った。

「試験?ですか?」

蘭が聞くと、

「ええ。精神科ですとよくあることなんですけどね。もう彼女は、三年近く病院にはいっていらっしゃって。それで、やっと病状が落ち着いてきて、病気になってから、初めてのお散歩ですね。」

影浦は淡々というが、それはかなりの重度なことであると思った。

「まあ、ずっと保護室に居たんですが、それでは逆に病院ボケになってしまいますから。こうして外へ出してあげたほうがいいんです。」

「そうですか。それは大変ですね。精神疾患を持っていらっしゃる方は大変でしょう。これからも先生、頑張ってください。」

蘭は、ジュースを買うのをしばらく待つことにした。

「さあ、道下さん、次に自動販売機を使いたい方がいらっしゃるようですので、自動販売機の使い方を思い出してみましょうか。道下さん、自動販売機はどのように使うか、ちょっとやってみてくれますか。」

影浦がそう言うと、道下さんといわれた女性は、影浦からお金をもらったのであるが、それをどこの穴に入れたらいいのかわからないような顔をしていた。蘭は思わず、

「ここですよ。」

と、お金を入れる穴を指で示した。道下さんは、恐る恐る、お金をそこに入れた。

「じゃあ、どれが飲みたいのか、飲みたいジュースを選んでその下のボタンを押してください。」

と、影浦が言うと、道下さんは、

「本当にいいんですか?」

という。いいに決まってるだろうと蘭は言いかけたが、影浦が、

「ええ、いいんですよ。なんでもあなたが飲みたいと思うものを、選んでくれればそれでいいんですよ。」

と、いうと、

「でも、選んだら、また叱られたりしませんか。私が選んでしまうと、贅沢は言うなって、叱られます。」

道下さんは答えるのだった。つまりまだ、妄想のような症状があるのだろう。

「それはだれが叱るんですか?」

影浦が聞くと、

「はい。私のそばに付いて、いつも私に贅沢は言うなと言って叱るんです。私の家族は、だれもわかってくれないけど、私が、なにか好きなものを食べたり、換気扇を回そうとすると、贅沢は言うなって叱る声が聞こえてくるんです。」

と彼女は言った。

「そうですか、今でもその人物はあなたのそばに居るのですか。周りをよく見てください。そのような不審な人物が居るのであれば、僕に教えてくれませんか?」

影浦がまた聞くと、

「あの木のそばに立って、今でも私の事を贅沢をしないかどうか、監視しています。白いタオルを首に巻いた女の人で、きっと祖父から命を受けて私を監視しに来たんだと思います。」

道下さんはそう答えるのであった。ということはつまり、幻覚の症状があるということだろう。

「わかりました。僕には、木のそばに立っている人物は女性ではなく男性で、車椅子に乗っている方だと思うのですが、道下さんにはそう見えませんか?」

影浦がそう言うと、蘭は、自分の事を自分で指さした。

「僕ですよ。伊能蘭と申します。」

蘭は急いで声を出した。

「今彼が言っていることを、復唱していただけますか?耳が聞こえているのであれば、聞こえているはずです。」

影浦がそう言うと、

「はい、彼の名前は伊能蘭さんです。」

と、道下さんは言った。

「よくわかりましたね。大成功です。それでは、幻覚の人物でなく実際の人物にちょっと話をしてみましょうか。大丈夫です。蘭さんは怖い方ではありません。ちょっと挨拶をしてみましょう。彼にこんにちはと言ってみてくれますか?」

影浦がそういうと道下さんは、

「こんにちは。」

と挨拶をした。蘭も、笑顔になって、

「こんにちは。」

と言った。

「ありがとうございます。じゃあ、道下さん、どれが飲みたいか選んで、ボタンを押してください。」

道下さんは、お茶のボタンを押した。ジュースがゴロゴロと音を立てて出てきたので、道下さんは、ちょっと怖いと思ったようだ。

「大丈夫ですよ。ジュースが早く買えるようになるといいですね。早く病気が良くなってくれることを願っています。」

蘭は、道下さんににこやかに言った。

「じゃあ、ご協力ありがとうございました。蘭さんで良かったです。道下さんが回復するように、僕達も言葉がけをしていきますから。」

影浦は、蘭にお礼を言い、彼女を連れて、戻っていった。

「いいえ、こちらこそ。お役に立てて嬉しいです。」

蘭は、にこやかに笑った。

「一体どうしたんだよ。ジュースを買いに行ったにしては遅すぎるけど?」

と、杉ちゃんが、蘭のところにやってきた。正輔くんたちは杉ちゃんの膝の上に居る。影浦と一緒に帰っていく道下さんの姿は、杉ちゃんにも見えた。

「ああ。影浦先生がまた入院患者を連れてきたのか。」

「そうだね。なんでも、幻覚の症状があるという患者さんだ。影浦先生も大変だね。ああいう患者さんを相手にしなければならないんだからさ。」

と、蘭は、杉ちゃんに言った。

「そうかそうか。それは大変かもしれないけどさ。その女性には幻覚ではなく実際に見えているんだからよ。それは、否定しないでやってやれるといいな。」

杉ちゃんは、蘭の言うことにそういう事を言った。

それから、数日後のことである。蘭がいつもどおりに朝刊に目を通したところ、朝刊の片隅に、こんな内容の記事が乗っていた。

「富士市富士川の河川敷で、男性の遺体が発見された。遺体の身元は、残していた免許証から、富士市瓜島在住の、道下義夫さんと判明。道下、、、。」

そういえば、あの時、影浦が話していた女性患者も、道下という名前だったような気がする。

「はあ、道下という名字、偶然なのかな、、、。」

蘭は、急いでその記事に目を通した。

「道下義夫さんの死因は、毒物による中毒死と見られ、警察は自殺と他殺の両方から見て、原因を調べている。」

蘭は、悩むような顔をした。もしかしたら、道下という名字は、偶然ではなかったのかもしれない。

「おーい、蘭。買い物にいこうぜ。もうショッピングモールやってるよ!」

杉ちゃんにいわれて、蘭は、道下さんの記事を読むのはやめて、杉ちゃんと一緒にショッピングモールに行くことにした。二人は、ショッピングモールに行くと、いつもどおりショッピングモールは稼働していた。店員さんもいつも通り動いていたし、警備員さんも、いつも通り駐車場係をしている。杉ちゃんたちが、食品売り場に行って、いつもどおり食品を買ったりしていると、

「それでは、道下さん、ここでなにか食べたいものや、欲しいものはありますか?」

と、言っている声が聞こえてきた。道下さんという言葉に蘭は気になって、そのところに行ってみることにした。女性は、お弁当売り場に居た。影浦先生が一緒に居る。ということは、多分きっと、お弁当を買う練習ということで、来ているんだろう。

「なんでも、好きなものを買っていいんですよ。御存知の通り、あのときあなたを監視している人物はいないということを、証明しましたね。」

影浦がそう言うと、道下さんはハイと小さい声で言うのだが、やはりまだ、監視されているのではないかと思っているようだ。

「道下さん、勇気を出して、お弁当を買ってみましょう。大丈夫です、お弁当を買うのに、監視している人はどこにもいません。」

と、影浦がそう言っていた。

「こんにちは。」

と、蘭は影浦先生に声をかけた。

「ああ、蘭さん。またお会いしましたね。」

影浦先生は、そう挨拶するが、道下さんと言われた女性は、なにか怖がっている様子だった。

「大丈夫だ、こいつは、何もお前さんの事を怖がらせるとか、そういうことはしないから。」

と、杉ちゃんが口を挟む。道下さんは、びっくりした顔をしているが、

「まあ、僕達はただのお節介焼きだと思ってくれ。怖がる必要は無いからね。お前さんは、普通に世の中に暮らしていればそれでいいのさ。別に怖いやつでも無いからな。」

と、杉ちゃんは話を続けた。

「ええ、道下さんは、まだ症状が強いので、少しずつ外の世界に慣らしてあげようと思っています。まだ、杉ちゃんと話をするのは、難しいかもしれません。」

影浦が、急いでそう杉ちゃんに言った。

「そうなんですか。では、テレビや新聞なども読まれていないのでしょうか?」

と、蘭が言うと、

「ええ、まだそのようなことはできないと思います。僕も事件のことは知っていますが、今は、まだ、話すのは無理だと思っています。」

影浦は道下さんに聞こえないように小さな声で言った。

「と、言うことは、やはり、道下さんの。」

蘭が思わずそう言うと、

「ええ、彼女のご主人です。善良なご主人だったようですが、もしかしたら、道下さんのもとで生活していたのが、無理だったのだと思います。」

と、影浦は小さな声で言った。

「道下義夫さんは、本当に彼女に尽くしてくれました。症状がひどくなっても、彼女のそばに居たいと言ってくれました。道下さんが入院しても、道下さんの家に住んで、彼女を待つと言ってくれたんですが、まず、無理だったのでしょう。」

「そうだったんですか。では、道下義夫さんは。」

と蘭が言うと、

「ええ、多分予想通りだと思いますよ。やはり家族と言っても、所詮他人ですからね。彼女を待つと言っても、彼女のお父さんが、難しい性格で、言葉も通じないでしょうからね。」

と、影浦はいった。

「道下さんだっけ。ほら、この焼肉弁当だってうまそうだよな。ほら、こっちの麻婆豆腐もうまそうだぞ。ほら、見てみろよ。食べたいものや、欲しいものは、自由に選んでいいんだよ。お前さんを監視するやつなんてだれもいないからな。」

杉ちゃんが道下さんにそう言っている。道下さんはまだ怖がっている様子であったが、杉ちゃんにいわれて、弁当を一つとった。

「まあ、頑張って生きてくれよ。お前さんが生きていることは、必ずなにか意味があるんだぞ。」

と、杉ちゃんは道下さんを眺めながらそういうのだった。そして、彼女が、弁当を持っていた買い物かごに入れたのを見て、

「じゃあ、レジはあっちだ。あそこでお金を払ってきてや。」

と、レジを顎で示した。

「本当に、彼女のご主人は僕も頭がさがるほど、道下さんにつかえていました。彼女が、お父さんとの関係で、おかしくなっても、ずっとそばに居ると言っていたんです。本当に、世の中って、おかしいですね。あんないい人が、なんでなくなってしまうのっていう人が、自ら命を絶ってしまって、道下さんが、いつまでも生きていなくちゃいけないんです。僕も時々、逆だったらと思ってしまった事が無いわけでもありません。でも、そうなってしまった以上、生きるべきだと思うんですが。」

「影浦先生、道下さんの家庭環境はどういうものだったのでしょうか?」

と蘭は、そう言っている影浦先生に聞いた。

「ええ、とにかくお父様が、極端な人だったようで、何でも贅沢は敵と言って、取り上げてしまうような家庭だったようです。彼女は、ご主人と一緒に診察に来られたときは、もうお父さんを殺してしまうのではないかと思わせるほど、精神が不安定だったんで、それで、入院させたのですが、彼女が安定してくれるまでは、非常に時間もかかりました。」

「そうですか。お父様は、どんなふうに取り上げてしまうのですか?」

蘭が改めてそう聞くと、

「彼女の話によりますと、換気扇でさえも、回すことができなかったそうです。いくら嫌な匂いがするからと言って、換気扇を回したいと言っても、お父様は、経費がもったいないと言って許さなかったとか。」

影浦先生はそう答えた。蘭は、思わずはあと言ってしまったが、

「信じられない話かもしれませんが、僕は本当のことだと思っています。精神がおかしくなった人は、嘘が逆に言えなくなりますからね。変な言葉を話すとしても、それには真実が隠れていると、僕は思いますよ。彼女は、そういうものに頼らなければ行けないほど、不自由な生活を強いられてきたんだと思います。そして、それを打ち破るのは非常に難しいことですから、ご主人が、協力しようとしてもできなかったのでしょう。」

と、影浦先生は言った。

「じゃあ、レジの人がお金を勘定してくれたら、お前さんも、お金を出して、その弁当買うんだぞ。良かったな、弁当が買えて。それでは、嬉しいことだろうな。周りにお前さんのことを監視しているやつはいないって事がわかったら、もうお前さんは自由だよ。自由っていいぜ。僕も車椅子乗っているから、自由に歩けるって良いなって思うよ。だから、お前さんも好きな食べ物が食べられて良かったなと思ってね。」

と、杉ちゃんの方はいつの間にか道下さんをレジまで連れて行ったのであった。全くそういう人に対しても平気で接してしまうのが杉ちゃんである。こういうところは何も偏見も持たずに接し、レジまで当たり前のように連れて行く。そういう事ができるというのも、杉ちゃんではあった。杉ちゃんよくそういう事ができるな、と蘭は思わず呟いてしまった。

道下さんは、レジの前に立って、弁当を差し出した。レジの人は、すぐにそれを生産し、450円ですといった。道下さんは、すぐに持っていた1000円札を差し出した。レジの人はお金を受け取って、お弁当とお釣りを彼女に渡した。

「おう、良かったな。これでお弁当が買えたよ。じゃあ。お前さん買い物ぶくろ持っているか。その中に弁当を入れて、精算が済んだことにしよう。」

と、杉ちゃんは言った。道下さんは持っていた布のトートバッグに、弁当を入れた。そして、ありがとうございましたと言って、レジを出ていった。影浦先生が、ちょっと失礼しますと言って、道下さんのそばに行き、道下さんが買ったものを確認する。

「ああ、これを買ったんですね。これは、道下さんの好きな食べ物である、焼肉弁当で間違いありませんね。」

「ええ、焼肉弁当です。」

道下さんは、小さい声で言った。

「それでは今一度確認しましょうか。道下さん、今、お前は贅沢だと言っている声は聞こえますか?」

と影浦先生は聞いた。

「いえ、何も聞こえません。」

道下さんは答える。

「では、あなたのことを贅沢だと言っている人物は近くにいるかどうか、周りを見てみましょう。」

と、影浦先生は道下さんに周りを確認させた。

「どうですか。周りにそのような事をしている人物はいますか?」

今一度、影浦先生が聞くと、

「ええと、周りには、」

と道下さんは答える。

「もう一度、見たままを言ってみてください。周りに、あなたのことを贅沢だと言って監視している人物はいますか?」

道下さんは、小さい声で、

「いません。」

と答えた。

杉ちゃんは、よくやったと言って拍手を送った。




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