第3話 たった一つの望み

 ······眠い。それは深い眠りだった。母親の胎盤の中を満たす羊水の中で、私は眠りの底に落ちていた。


 だが、その安らかな眠りは一年も満たずに終わろうとしていた。頭の中で意識が徐々に覚醒していく。


 まるで途方も無く長い夢を見ていた気分だった。だが、覚めるのは夢だけじゃない。例えるなら真冬の朝、突然ベットから外に放り出される。


 これから訪れる私の運命は正にそんな感じだ。私は間もなく産道を通り新しい命として生み出される。


 ······心境は複雑だ。嬉しく無い訳では無い。だが、手放しでは喜べない自分がいる。


 私は生まれつき目が見えなかった。人生の最初から身体に不具合を抱えて生まれたのだ。


 親も親戚も周囲の他人達も、私を見る者は例外無く憐れんだ目で見る。最も。それは目が見えない私の想像だが。


 もし普通に視力を備えて生まれ、途中で失うのなら私には耐えられなかっただろう。最初から視力が無かったのが幸いした。


 私は周囲が思う程、自分を不幸だとは思わなかった。無いものは無い。そう割り切っていた。


 だが、前向きに人生を歩んでいたかと言うとそれも少し違う。健常者とは絶望的に出来る事が違う。


 不自由な自分。そして出来る事が限定された人生。私の頭の中には、常にそのフレーズがこびりついていた。


 そして私は呆気なく死んだ。滅多に外出しない私が、洋菓子店に赴く途中に事故に遭った。


 歩道の無い狭い道路を歩いていた私は、猛スピードで走行していた車に跳ねられ即死した。


 ······仕事も恋も知らず、私は十六歳でこの世を去った。そして今、私は再び人間として別の人生を送ろうとしている。


 今私を悩ましているのは新しい人生。否。新しい器。いや違う。新しい身体。これも違う。そう。身体の機能の事だ。


 今度生まれる私の身体には、視力が備わっているらしい。だが、十歳の時に病気で両脚を失う事が決まっている。


 十歳の時。これが私の悩みの種だ。前の人生は最初から視力を持っていなかった。だがら私は耐えられた。


 だが、新たな人生では健常者として生まれる。自分の両脚を自由に使えるのだ。但しそれも十歳迄の限定条件だ。


 途中で両脚を失う絶望に、自分が耐えられるか自信が無かった。両脚を失った私は、その後の人生をどう歩んで行くのか。


 どうせ途中で両脚を失うなら、最初から使えない状態で生まれたい。目が見えなかった前の人生の様に、その方が諦めて生きられる。


 でも。今度の人生は目が視えるじゃないか。これまで暗闇だった世界に光が射し込む。それは、明るく大きな希望だ。


 ······私の頭の中に、そんな声が聞こえてくる。私の脳が創り出した能天気な道徳家の戯言だ。


 目の視える者に視えない者の気持ちが分かってたまるものか。断じて分からない。理解出来る筈が無い。


 何処までも広がる空。無限に広がる青い海。春にはピンクの桜。秋には真紅の木々の葉。この世界が織り成す数多の色彩。


 ······勿論興味はある。見たく無い筈が無い。だが、見た事が無いのだ。たったの一度も。


 人の想像力は無限の様で案外お粗末だ。暗闇の世界で生きる者にとって、色のある世界を想像する事は困難極まりない。


 想像出来無い物にどうして見たいと言う欲求が湧いて来ようか。それよりも最初に心に去来するのは諦めだ。


 ······だが。それでも。たったの一つ。一つでいいからこの目で直に見たい物が私にはあった。


 その手に取った時の柔らかい感触。心の中を幸福で満たす香りと甘い味。それが実際この目で視れる。


 その事実が、私を新しい人生へ強烈に誘う。但し、それには両脚を失う悲劇がセットだ。それが私を悩ませる。苦しめる。


 ······でも。やっぱり見てみたいわ。自分の目で実際に。私の人生で一番私を幸福に浸らせてくれた洋菓子。シュークリームを。


 

 ······何だろう。何かが聴覚を刺激する。静かな眠りを妨げる不愉快な騒音だ。


 ······違うわ。これは騒音じゃない。声? 声だわ。まるで、何かに歓喜してその喜びを表現しているような。


 ······声だ。


 ······これは、私の泣き声だ。


 



 

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